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『作戦その一だ――』


 長い人差し指が目の前にピンと立てられた。私は真剣に話を聞いたと言うのに、何故わざわざ先ほど抜け出したマンションまで舞い戻っているのだろうか。はたして、本当にこれで良いのか――一瞬赤井の言葉を疑いつつも、私はそっとインターフォンを押した。鍵があるのにわざわざコンタクトを取ったのは、赤井がそう助言したからだ。

『――はい』
「あ、す、すみません……。えっと、芹那白木です。この間の謝罪をしたくて……」
『……どうぞ』

 暫くの間があって、エントランスの扉が開く。私は歩み慣れた道のりを、恐る恐ると歩いた。赤井曰く、きっと安室自身も私の記憶がすっぽ抜けたことで解せないことが多くあるはずだから、必ず私の接触を拒まないと。確かに言われた通り、彼は案外すんなりと部屋までの道を開けてくれた。
 扉の前に立って、さてどうしようかと立ち竦んでいたら、先に向こうから扉が開いた。彼はやはりまだ警戒したような笑顔を浮かべていたものの、何かを勘繰るような様子もなく私を中に入れてくれた。

 ハロが心配するように、少し離れた場所からトトトっと私の足元に駆け寄った。それを軽く撫でつけながら、リビングに向かう。そのままソファに腰を下ろすと、安室がコーヒーを淹れてきてくれた。手渡されたそれに、いつもより少しだけ丁寧に頭を下げた。

 意外にも、彼は私の傍らに腰を掛けた。警戒していると思っていたから、てっきり向かいに座ると思っていたのだが。ぱっと彼のほうを見上げたら、安室はマグカップを両手に抱えたままポツリと尋ねかけた。

「君は一体、何者だ?」

 形の良い、太めの眉が歪む。そして、テレビ台の横にあるイルカのクリスタルを指さした。

「僕はあれを買った記憶はない、あの服も、荷物も――どれも、僕の記憶にはない」

 その声には確かに困惑が浮かんでいたものの、怒っているわけではないようだ。その様子を窺って、私は赤井の作戦を思い出した。本当にうまくいくだろうか、分からなかったものの、安室の様子から、私を捕まえたり殺そうというような姿は見られない。なら、当たって砕けろ――砕けちゃあ駄目だけど――というやつだ。
 私はフウ、と自身の鼓動を落ち着けるように息を吐いてから、コーヒーがなみなみと入ったマグカップを置く。ブラックコーヒーは、私の舌には少し苦く感じた。

「安室さん、私ね――」




「良いか? 嘘や言い訳は通用すると思うな。ただ、正直に、ストレートに……もう一度初対面の人間と仲良くなると思えば良い」

 私は眉を吊り上げて、歯切れ悪く頷いた。それは別に構わない。嘘をつけと言われるより、よっぽど簡単なことである。赤井は、私に安室ともう一度親密になれと言うのである。確かに、記憶を取り戻すより手っ取り早いような気もするが――。疑問はいくつも残っている。まず、そんな簡単に安室が誰かを懐に入れるような男には思えないこと。そしてもう一つ――。

「もし、仲良くなれたとしても……また記憶を消されたら意味ないんじゃない?」
「いや、ある。物事は綺麗さっぱり、修復することはできないからだ」

 私は彼の言っている意図が分からず、首を小さく傾ぐ。赤井はふむ、と考え込むようにすると、ポケットからくしゃくしゃなレシートを取り出した。そして、そこに煙草の灰を落とす。

「この灰の跡を消せと言われたらどうする」
「うーん……擦っても黒ずむだけだし、修正液とかで潰すかな。あとは白い紙を貼るとか」
「ならそうしてみようか」

 彼はもう一枚レシートを取り出して小さく千切ると、灰の上からそれを貼り付けた。確かに白くはなったものの、当たり前だがセロテープの立体感が目立つ。

「今の彼の記憶は、こういう状態だ。干渉のできない君の存在を消すことはできないのだから、彼の記憶という操作できる部分だけが操作されている。……けれど、君がいたという事実が変わらない以上、この下には君の存在が隠れている」

 ぺりぺりと、その端を赤井は捲った。その白い紙の隅から、黒ずみがチラリと見え隠れした。

「そこにもう一度君の存在が染みつき、また修復してを繰り返す。ここでクエスチョンだが――何度も重ねたことで、この歪さはなくなると思うか?」

 ペタペタと、上に上にと彼は髪を重ねて貼った。当然のことながら、重ねた紙は薄っぺらだった一枚とは異なり、どんどんと其処だけ分厚さを増していく。

「……ううん、寧ろ、どんどん原型から離れていっちゃうみたい」
「修復ってのは、元に戻すこととは違う。陶土が崩れたら周りの土を寄せ固めるし、穴が空けば折り合わせて貼り付ける。割れれば接着剤で辻妻を合わせる――。そうやって戻した物には、どうやったって違和感がある。しわ寄せが行くからだ。……そのしわ寄せを、知っているんじゃないのか?」

 そう言われてすぐに思い出したのは、新出の手癖だった。確かに、彼の記憶から私はいなくなっていたのに、まるで体に染みついていたように新出は手を離した。
 心当たりがあると赤井に注げると、彼は私の肩を、割かし強い力でバシっと叩いた。その赤井の顔は、今までの冷淡さとは異なる熱を篭めていて、少しだけ恐ろしいとも感じた。

「勿論、今は小さな穴だろう。その穴を潜るんじゃなく、いっそ手遅れになるまで修復を繰り返させてやれ。良いか、彼が何度君のことを忘れようが、その下には君たちが生きていたことを忘れるな。……絶対に、俺たちは架空の人物ではない」

 



「……悪いが、信じられない」

 私が一通り、今までのことを話し終えると、安室はついと顔を逸らした。分かっている。そこまでは予想の範囲内だ。私は馬鹿だから、こんなことしか思い浮かばないけれど――。
『自分を卑下するな』
 ――否、違う。これが、私にできることなのだ。無理に頭を良くしなくたって、私が安室と過ごした時間は失われたわけではないのだから。私の今まで通りに、やれば良い。

「良いよ、私は安室さんのこと信じてるから」

 へらっと笑うと、私はその場で立ち上がった。そして安室とハロを手招いてダイニングに向かう。安室は、キョトンとして私の姿を見比べると「料理をするのか?」と尋ねた。

「もちろん。他になにがあるの」
「……どうしてそうなったんだ」
「やっぱ、一番信じてもらえるのはコレかなって。安室さんにいっちばん最初に教わったからね〜」

 機嫌良く笑うと、安室は意外そうに自身を指した。「僕が?」、尋ねる声に、自信満々に頷いてやった。

「昔友達に教えてもらったんだって、安室さんが言ってたからさ。絶対美味しいよ!」

 冷蔵庫の中身を見て、私はメニューを考える。さすが自炊をする男、中々に旬な野菜も揃っていたが、やっぱりここはグラタンにしよう。疲れた体にはグラタン、相場は(私の中では)決まっているのである。

「……だから、僕は降谷だ」

 ため息をつきながら、安室がそう訂正する。そう言われても、今更降谷さんだなんて呼ぶのも恥ずかしい。それに、私が安室と呼ばなくなったら、彼の中から安室透という男が消えてしまうようで――それはそれで、寂しいような。だって、彼が好きだと言っていたのだもの。なくしたくないじゃないか。

「私の中では安室さんなんだよねー」
「まったく、随分懐かしい名前だよ」
「ふふ、ほら、ポアロっぽく言ってみて。いらっしゃいって」

 ニヤニヤと肘で彼の体を突くと、気恥ずかしそうに咳ばらいをして安室が頬を掻く。彼も私の作業を見ていたら手持無沙汰になってきたようで、何となしに冷蔵庫の中身を見ると卵とホットケーキミックスを取り出した。

「はぁ……これ、食ったら帰るんだぞ」
「えー、私寝る場所ないんだけど」
「お金を渡すからホテルにでも泊まりなさい……」

 そうため息をつく立ち姿は、私が好きな彼のままだ。それが嬉しくて、へらへらと笑いながら返事を返した。


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