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 さあっと、風が木を揺らす。葉が互いを擦れさせて、僅かに音を立てた。
 爽やかで、しかし風が吹かないとほんの少し汗ばむような気候に、心地よくそれは吹く。風と共に、真っ黒よりは茶混じりな挑発が揺れた。丸く大きな目の中で、瞳がゆらっと泳ぐ。あまり姿勢が良い方ではなくて、ふとした拍子にちょっぴり猫背になる小さな背中が印象的だった。

「……安室さん?」

 風の音と共に、彼女はそう呼ぶ。
 ――安室透。以前とあるテロ組織の捜査をしていた際に使っていた偽名の一つだ。喫茶ポアロの店員として、毛利小五郎の助手として、時には私立探偵として――。表立って行動できないバーボンや降谷零に代わって、にこやかに店頭に立つ男の名前。
 かつては安室と降谷が同一視されることは一番のトップシークレットでもあったが、今やそれも昔の話。捜査していた組織は既に壊滅しているし、そんな騒動があったのも最早三年と少しは前の話である。
 
 だからこそ、既にその名前で僕を呼ぶ人はいない。

 安室透の時に関わりのあった人間とは既に関係を絶ってしまっていた。まだ関係が続くような人間は、皆僕のことを本名で呼ぶ。だからこそ、懐かしい名前であった。

「なにボーっとしてんの? 美味しくない?」
「……あ、いや」

 そんな懐かしい名前を、何故だか懐かしいと思えない。
 ――不思議な少女だった。僕の部屋の鍵を持っているし、僕の部屋には彼女のものと思わしき荷物がある。いつの間にそれが置かれたかは分からない。どう考えても怪しい彼女の言動を、警戒こそすれど忌み嫌うことができないのは――その力の抜けたような笑顔が、僕の調子を崩すからだろうか。
 結局、そんな少女を無下にもできなくて、なあなあに彼女の手料理を食べている。これが中々どうして、僕の味付けによく似ていた。まるで、彼女と僕が一緒に暮らしていたみたいだ。――そんなはずは、ないのだけど。

「やっぱりボーっとしてる。体調悪い?」
「……思ったより美味くて、吃驚しただけさ」
「うわっ、失礼。でも当たり前じゃん?」

 彼女はそうへらっと笑った。そのあっけらかんとした表情が、自慢げに「だって安室さんが教えてくれたんだから」と誇る。

 この謎の少女が言うことには、僕と彼女は以前面識があったのだという。それを僕が綺麗さっぱり忘れてしまっているのだとか。しかし僕には昨日何をしていたか、その前の日に何の仕事をしていたかの記憶までしっかりとあるのだ。彼女がそんな嘘をつく意図もいまいち理解できなかったが、それは変えようのない事実なのだ。


「ね、安室さん。ここの訳教えてほしくて来たんだ」

 ある日には、彼女はそう言って、海外のロマン小説を持ってきた。申し訳ないが、そうういったものを読むタイプとは思わなかったので、少々意外に目を瞬いた。そうしたら彼女は少しばかりジトっと僕を睨む。
「今、馬鹿じゃなかったって思ったでしょ」
 なんて、ぶすくれながら呟く姿はまるで子どものようだ。
 教えてみれば、確かに知識は浅いものの吸収は早く、柔らかな頭の中に異国の言葉はするすると吸い込まれていった。「すごいな」と感心して褒めたら、「教えてくれたのは安室さんだよ」――。なんて、そんなことを言うのだ。

「あ、これ安室さんが好きって言ってたバンドでしょ」

 またある日には、テレビのミュージックビデオを見て懐かしそうに語る。確かに、今から少し前、学生の時に友人とよく聴いていたバンドだ。彼女の歳にしては、少々レトロな部類に入ると思う。
 不思議なのは、そんなことを誰にも話したことがないということ。松田にも、萩原にも伊達にも、今の同僚である風見にも、工藤にも。その音楽を聴いていると、殉職した親友を思い出してしまうから、自然と聴かなくなった。
 そんな音楽を、どうして彼女が知っているのだろうか。不思議でたまらなかったが、その過去に触れた少女を嫌だとは思えなかった。


「――っきゃあ!」


 ふと、玄関の方から叫ぶ声が聞こえた。
 瞬間、心臓が嫌な軋みを立てて、どくっと大きく脈打つ。嫌な汗が止まらない。背筋がざわっと粟立って、自然と足が動いていた。フローリングに足が取られる。必死に踏みとどまったら、廊下を曲がるときにハロのエサ入れを蹴飛ばしてしまった。ガタガタと物音が派手に鳴り響き、それでも構わずに走り寄った。

 ハァ、と小さく吐息が零れる。

 どうやらハロと遊んでいた時に、リードが足に絡んだだけのようだ。尻もちをついて玄関に倒れる少女に、体の力が抜けていく。大きく打った心臓は、まだ余韻でドクドクと早く鳴っている。

「いったあ〜……」
「まったく、何してるんだ」
「ごめん、ハロが散歩行こって言うから」

 彼女はやはり、へらっと力が抜けたような笑顔を見せた。
 なんだか、その光景が異様に間抜けだったというか。先ほど一瞬緊迫した心が解き放たれたのもあって、僕の力までスルスルと抜けていってしまった。その拍子に、フっと口元が緩んでしまう。「ふっ」一度吐き出したら、これが中々に収まらなくて、僕はクククと肩を揺らした。


「ふ、ふくくく……あはは……あーっはははは!!」


 笑いだしたら止まらなくて、僕はそのまま腹を抱えて座り込んでしまった。目じりに涙が浮かぶほど笑ったら、少女はキョトンと丸くした目から、ボロっと一粒涙を零した。まさか、どこか打ちどころが悪かったのか。僕はぎょっとして彼女の肩をそっと掴む。

「ううん、違うの。綺麗だったから」

 ごめんね、と泣くその涙の、どれほどに美しいことか。大きな目から零れるのは、女の涙というより、子どもの無邪気な涙だった。ただ、ひたすらに、ポロポロと零れるだけ。

『先生は僕を置いて行っちゃったんだ――……』

 幼いころに膝を抱えていた自分の影が脳裏に過ぎる。その涙を拭ってやりたいと、心から思った。どうにかしてやりたいと、体の奥が熱くなる。泣かないで、僕がいるよ。まったく他人としか思えない少女に、そんな言葉を掛けたくなる。





「――君は、誰だ?」


 どうしてか自宅マンションに座り込む奇妙な少女に、僕は尋ねる。涙をボロボロと流した姿に、訝し気に首を傾ぐ。彼女はすっと涙を拭うと、笑いながら首を振った。

「芹那、白木芹那――」

 へらりと力の抜けたような顔色で、少女は笑いながら、丁寧に名乗った。

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Shhh...