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「――君は誰だ?」

 訝し気な声色が私にそう尋ねるのも、もう何度目になるだろうか。私は二人で訪れていた公園の、新緑の下で名乗った。何度打ち解けても、少し心を許したと思っても――彼は何度でも私を忘れる。きっと、小雪がどこかでそれを見ているのだと思う。そりゃあ、安室のマンションは既に住所が割れているのだからしょうがない。そう思っても、いつでもそう尋ねられると、少しだけ心が沈む。

 それでも、もう涙がでないのは慣れたわけではなくて、安室がどれだけ記憶を失っても決して私を拒むことはなかったからだ。怪しんで警戒こそすれど、私がどれだけグイグイと家に押しかけて彼の手を引っ張っていっても、否定はしなかった。やめろ、触るな、出ていけ――そんな言葉が、降ってこなかったからだ。
 それは彼の優しさなのか、それとも私の存在が多少なりと彼の中に残っているのか、そればっかりは私の予想でしかないけれど、私は嬉しい。
 良い天気だから散歩をしに行こうと言って外に出たは良いけれど、今年から花粉が矢鱈と鼻を擽った。前まではこれっぽっちも痒くなんてなかったのに、クシュンっと音を鳴らしながら目を擦る。

「ウー……」

 ごしごしと目を強く擦っていたら、すっと手首を捕まれた。驚いて顔を上げたら、私の目を覗き込むように、鮮やかな瞳がキラキラと光って近づいてくる。
「傷になる」
「あはは、優しい〜……っくしゅん」
「花粉症だ。病院に行くことを勧めるよ」
 去年までは痒くなかったと言ったら、そういうものだと言いくるめられてしまった。そうかな、首を傾げながら歩いていたら、安室もまた不思議そうに私を眺める。その視線にも、少しは慣れてきた。奇妙な生物を見るような表情は、最初は失礼なこと考えているな、なんてぶすくれてしまってけれど。


 暫くそんな奇妙な面を掲げながら公園をグルリと一周したところで、もう一人、訝し気に私たちに近寄る影があった。それはあまりにこの爽やかな陽気には不釣り合いな強面で、私はこそっと安室の影に隠れてしまった。背丈は伊達より小さいかもしれないが、恰幅はそれと同等だ。何より顔つきは、まるで憤った鬼のようで、やや頬骨あたりが赤く日焼けしているのも余計にそう見えた。

「降谷」
 
 と、男がそう言ったものだから、ようやくのこと安室の知り合いなのかと察した。誰だろう、今まで見たことのない男だ。チラリと安室のほうを見上げたら、彼は驚きながらもほんのりと口元を緩めていた。

「教官、お久しぶりです」
「……教官?」
「警察学校時代の恩師だ」
「ってことは、松田さんたちもそうなの」

 尋ねると、その声が大男にも聞こえたのだろう。男は驚いたように、そして懐かしむようにハハハと声を上げて笑った。

「懐かしい名前を聞いた。噂によるとまだヤンチャっぷりは抜けないみたいだが」
「教官の鬼指導っぷりには負けます」
「言うな、お前」

 男がニヤリと口端を上げると、安室は軽く肩を竦めた。恐ろしそうな顔と大きな声は明らかに体育会系のお偉い所、と言った風であるが、安室との会話を聞いていると悪い人柄なわけではなさそうだ。まあ、警察学校に松田たちが在籍していたと思えば、多少強面でもないとやっていけないかもしれない。
 少し警戒心が解けて、パっと掴んでしまった安室の袖を手放すと、教官と呼ばれた男はジっとこちらを窺った。そして、額をポリポリと掻く。

「……娘、じゃないよな?」

 項を掻きながら男は尋ねる。ハア、と声を零してしまった。確かに安室は既に三十を超えているものの、それにしたって大きな子どもすぎるだろう。それとも私はそんなに幼く見えるのだろうか。少しショックだ。

「教官、僕は三十二です」
「悪い、お前昔っから幾つか分からない年齢してたからなあ……。恋人、にしちゃ若い気がするし。妹というには似てないだろ?」

 なるほど、そういう消去法だったわけか。
 安室はそう言われると言葉に詰まっていた。確かに彼の言う通りだが、まさか知らない他人ですというわけにもいかなかったのだろう。危うく誘拐事件だ。そんな安室の沈黙を遮るようにして、小さな影がパっと目の前を駆けていった。

「ねえ〜、はやくボールなげてよぉ」
「っと、悪い。ボール拾いに来たんだったな」

 男はその小さな影をひょいっと抱き上げると、苦笑いをしながら茂みから小さなボールを拾った。ふっくりとした頬や小さな手足、顔はとてもじゃないが鬼と言うには丸っこくて、私はその似てない顔を並べて笑ってしまった。男は怒らなかった。その幼い頬を突いて、私の方を一瞥し笑う。

「――お孫さんですか」
「ああ。娘の子どもでな――可愛いもんだよ」
「すごい可愛い……ねえ、今何歳?」

 ニコっと笑うと、人見知りしたのか先ほどまでのはつらつとした笑みを控えめにして、指を三本立ててこちらに見せてくれた。自然と、ふっと頬が緩んでしまう。男は眉を下げて「緊張してる。悪いな」と謝った。

「じいじ、早く行こ!」
「分かった分かった……じゃあ、達者でやれよ」

 一度広い背を向けた男は、何歩から歩いてから思い出したようにこちらを振り向いた。孫を抱いて、最初見た強面の影はどこへやら。すっかり棘がなくなった表情で男は少し寂しそうに笑った。


「――諸伏のこと、聞いている。大丈夫だ、真っすぐ歩けよ」


 ――私は、思わず安室の袖を、もう一度少し強く掴んでしまった。
 安室は男の背が見えなくなるまで、反対側の手を額にピッチリと当てて、敬礼の姿勢を崩さないまま背を伸ばしていた。穏やかなはずの空を映した瞳が、ゆらりと揺れる。
「……あの人たちが、笑える世界を守らないとな」
 それは独り言だったのか、それとも私に言い聞かせたのだろうか。
 こうやって少しずつ、彼は守る者を増やしていくのだろう。自分の体を省みず、また少しずつ心を削って生きていく。

「……その、大丈夫だよ」

 私は彼の袖を引いた。安室が視線だけで私の方をチラリと見下げる。
「心配しなくても、人間って強いもん。あの人だって、私だって……守られることも守ることもあって、そうやって生きていけるよ」
 私はなるべく彼のほうを見ないようにして、言葉を続けた。その表情が拒絶を表すのが恐ろしかった。けれど、言わずにはいられなかった。

「だから、安室さんはそのまま生きて良いって思うんだ。好きに生きて、良いって……」

 思うんだけど。
 それが良いことかは分からない。単純な私の願いだった。エゴだった。だから、そんなことを言ってしまったら安室が怒るんじゃないかと思った。今までそんなことはなかったけれど、今の彼は許してくれないかもしれないから。私の我儘なんて、腹が立つだけかもしれないから。

「――そうかな」

 安室は、小さな声色でそう呟いた。その瞳はずっと遠くに歩いて行った、先ほどの男の背を追っている。小さな子どものような口調に、私は同じように男が歩いて行った遠くを見つめながら「そうだと思う」と曖昧にヘラリと笑った。

「私は、安室さんのことずっと大好きだからね」
「……変な奴だ、君は」

 零れたため息は、案外厭味っぽくて、私は挑発的に「なにを」と笑ってみせた。もちろん、心の奥ではまんざらではなかったのだ。


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