90


「ただいま〜……なんて」

 そろそろと、部屋の中に踏み入れる。きっと安室は、昨日のことを忘れてしまっているだろう。そんなことは分かりきっていたが、やっぱりホテルよりもこの部屋が落ち着く。物音を聞きつけたらしいハロが私を出迎えた。部屋の電気は点いておらず、留守にしているのかと思ったが、静かな寝息が奥から聞こえた。どうやら眠っているらしい。
 足音で起きないなんて、珍しいな。
 不法侵入――一応鍵は使っているので合法だと思うが――でもしている気分で、足音を忍ばせながら寝室へ向かう。金色が、薄暗い部屋の中でシーツに散らばっていた。こうして見下ろすと、案外子どもみたいに蹲って眠るのだなと思った。

「……これって夜這いっぽい?」

 ベッドに腰を掛けて、初めてそう感じたものの、いやいやと自問自答をしてかぶりを振る。だって、彼は家族なのだし、一緒の布団で寝た仲だし。しかし、記憶のない安室はどう思うだろう。やっぱりいきなり知らない女がベッドにいたら、やばいストーカーだと思うだろうか。
 家の中で不審者だと思われるのはもう屁でもないというのに、妙なところで臆病になってしまって、私はぽりぽりと頬を掻いた。
 すっと腰を上げようとしたら、一度軋んだベッドが元に戻る感触に反応したのか、安室が寝返りを打った。暖かな手のひらが、私のシーツに広がったカーディガンを掴む。それにつんのめって、慌ててそっと座りなおした。

「いつになったら、思い出すのかな〜」

 するっと顔に掛かった金色を退けたら、穏やかな寝顔が窺えた。可愛い。とてもじゃないが三十路には見えない。普段は落ち着いた仕草と喋り方をするからそれなりに歳相応にも見えるけれど、眠っていたら二十代前半は固いだろう。

「……う」

 ふと、穏やかそうな表情が翳っていく。ひくりと目元が引き攣って、寝苦しそうに指先がシーツを掻いた。何か悪夢でも見ているのだろうか。もしかしたら、諸伏の。

「……よしよし、安室さーん、大丈夫だよー」

 かつて彼がそうしてくれたように、手のひらをその頬に乗せて親指でこめかみを撫ぜた。ふるふると震えた瞼から、じわっと涙が滲んでいる。諸伏が安室にとってどういった人間だったのかは、実感こそできなかったが、それなりに知っているつもりだ。幼いころから、彼の世界を共に作ってきた男――。彼を失った時、どんな気持ちだったろう。まるで世界が欠けてしまうような、そんな喪失感だったろうか。

「……大丈夫だからね」

 それは安室に言い聞かせるのと同時に、自分に言い聞かせた言葉だった。
 きっと大丈夫、安室は前を向くことができる。自分のために生きることができる。そのためには――私は小雪との問題を何とかしないと。彼女が借りている諸伏の体を、どうにかして諸伏に返してやりたい。そうしないと、彼はいつまで経っても――。「ヒロ」

「安室さん……?」
「ヒロ、ひろ」
「安室さん」
「せんせい、おいていかないで……」

 ――驚いた。彼は、眠っている時にここまで魘されることはない。
 それは彼の精神的な強さだとか、思考の前向きさにあると思っていた。どれほど悔いていても、後ろを振り向くことのない人だったから。もしかして体調が悪いのだろうか。暫くその頭を抱きしめていたら、次第に彼の言葉も減ってきた。荒れていた呼吸が落ち着いた頃、そっと手を離して髪を撫でつける。嫌な汗をかいたのだろう、前髪が少し湿っている。

 
「――芹那……」


 苦しそうに、言葉が零れた。私は手をピクリと跳ねさせて動きを止めてしまう。
 どうして、今私の名前を呼んだのだろう。今の彼の記憶の中には、そんな女は存在しないのに。ぐっと顰められた表情、はらっと涙が頬を伝って、シーツに小さな染みを作る。

「私のせい……?」

 私は、彼の頬を撫でながら考えた。
 よく考えたら、こんなに短期間で記憶を弄られるなんて、普通の人間に合って良い話じゃない。あんなに一緒に居ても涙を流して魘されることなんてなかったのに、今になってここまで過去を思い返しているのは――もしかしたら、それが関係あるんじゃないだろうか。私の存在だけを頭から消すために、埋めたはずの記憶や思い出までひっくり返されているのだとしたら。

 赤井も言っていた。記憶の修正をするたびに、それは歪な綻びになっていくと。私は考えてもみなかった、歪に修正されていくのは、安室自身の記憶じゃないか。どうして彼に影響があると思わなかったのだろう。頭の中に、分厚く修正されたレシートの束が過ぎる。あんなことが、彼の記憶に起こっているとしたら――。

「私の、せいじゃん……」

 私が、彼に思い出してほしいという一身で一日と空けず接触を繰り返した所為だ。
 そのたびに記憶を修正されて、その頭が悲鳴を上げているのだ。流れた涙が、私には断末魔にも聞こえた。

「芹那、待って……」

 ぐっと目の奥が熱くなる。私は、彼にどんな想いをさせているんだ。私のことを忘れていたって良いじゃないか。果たして、安室がこんなに苦しむ必要はあるのか――。記憶を消される度に、これからずっと苦しんでいくのか。それならいっそ。


「……違くない?」


 私はぽつりと呟いて、その涙が乾き掛けた頬に小さく唇を寄せた。そしてぽんぽんと頭を撫でて、捕まれたカーディガンをするりと腕から抜いた。
「置いていかないからね」
 言い聞かせるように囁いて、私はキャミソールのまま夜の町へ飛び出した。もう暖かな陽気だと言っても、さすがに夜にキャミ一枚は寒い。ぶるっと体を震わせて、私はキラっと輝く空に向かって叫ぶ。

「小雪!! 出てきてよ、どうせ見てんでしょ!!!」

 どこで見ているかは分からないが、彼女は必ずどこかからこのマンションを監視しているはずだ。私が、今マンションに入ったことにも気づいただろう。こちらからその場所を特定できないのが惜しい。

「こんなくだらない話、おしまいにしよ!! さっさとエンディングにしちゃおうよ!」

 わざとらしい皮肉は、さすがに子どもっぽかっただろうか。
 彼女を引っ張り出す方法が思い浮かばず、つい罵倒してしまったが。ただ只管に、怒りが湧いていた。それはこの小説にではなく、ただ、ただ――。



「安室さんに辛い想いさせやがって!! 出てきてよ、一発殴ってやる!!!」


 私を追い出すためだけに、私の大切な人を利用したことが今更ながらに許せなくなったのだ。それだったら、私を殺せば良い。彼女が自らの手で、私を殺せば良いのだ。どうして私と小雪の関係に、あの人を巻き込む必要がある! 涙を流す必要がある!! ――大切な人が苦しむ姿に、怒らない人間がどこにいる!

「臆病モン! チキンやろー!! ずっと篭って小説書いてろ陰険女!!!」

 ぎゅっと細めた目から零れた涙は、決して哀愁によって零れたのではない。感情が昂って、行き場を失い押し出されてしまったのだ。それと――悔しかった。こんなに怒りだけがこみ上げてくるのに、私には手の出しようがなかったから。

「……泣くくらいなら、早く薬を飲めば良いのに」

 低く響いた声に、私はバっと振り返る。電灯の下に凭れるようにして立つ男の顔は、呆れかえっていた。ハァ、と小さくため息がつかれる。

「そうしたら、白木さんも元に戻れる。降谷零は日常を過ごすだけ――」
「……そうかもね」
「悲しいでしょ、毎日健気に会いに行くのも」

 涙が、アスファルトを濡らしていく。私は心の中で小雪に謝った。彼女の心が、何となしに分かる。私が泣いていたから、悲しみに暮れていると思って出てきたのだ。今唆したら、私が薬を飲むと思って。

「だから、早く優しいママのいる世界、にっ……!?」

 握りしめた拳を、思い切りその腹に打ち込んだ。本当は顔が良かったけれど、背が高くて届かないから。多少動揺して咳き込んだものの、大した力のない拳だ。諸伏の体では、それほど痛くなかったかもしれない。

「こ、のっ……!!!」

 咳き込んだ小雪は、そのまま私を蹴り倒した。アスファルトに、後頭部がぶつかる。痛みは走ったものの、思いのほかダメージが少ないのは今日ポニーテイルにしていたおかげだ。倒れた私の肩を、彼女がぐっと大きな足で踏みつけた。

「私の世界に!! 勝手に、入ってくるな!」

 ぎっと歯を剥き出しにして小雪が叫ぶ。玩具みたいな小さな拳銃が握られて、引き金を引く。鋭い痛みは私の腕を掠めた。思ったよりもずっと熱い。

「あんた、別にコナン好きじゃなかったじゃん!! 私の方がずっとずっと好きだった、ずっとあの人たちの命を救いたいって思ってた!!! 大好きだから、死んでほしくないって思った!!」
「大好きなら、好きに生きさせてあげなよ! 私たちの人生じゃないでしょ、あの人たちの人生じゃん!」
「違う、私が作ったんだ! みんなが死なない世界を、私が作ったの!!!」

 銃口が、ようやく私を捉えた。先ほどとは違う、小さな切っ先は間違いなく、私の頭を狙っている。その指先が、震えている。諸伏の吊り上がった目からも、涙が零れていた。私と同じように、怒りなのか、口惜しさなのか、悲しみなのか――。その感情を読むことはできない。

 見つめ合うこと数秒、震える指がもう一度引き金に掛かる。口元は、引き攣りながら笑っていた。

「……人殺しには、なりたくなかったんだけど」
「もう殺してるでしょ。キャラクターなんかじゃ、ない」

 彼女の瞳を睨み上げる。この至近距離で、素人ながらに銃弾が逸れることがないのは分かる。彼と私の体格差じゃあ、体勢を覆すこともできないだろう。だから、せめて怒りを彼女にぶつけていようと思った。彼女が少しの後悔を、罪悪感を抱えて思い直すことができるように――安室がこの後、自分の意思で生きることができるように。


「――下ろしなさい」

 
 その声に、視線を上げたのは小雪と同じタイミングだった気がする。静かな声色、向けられた銃口、それは紛れもなく、月夜に輝く金色が放っている。「どうして」、小雪の口元が声を発さずにそう呟く。

「僕は下ろせと言ったんだ……景光」

 鋭い声色が、一度声を裏返すように揺れた。ああ、こんなことを、彼にさせたいわけではなかった。今の安室にとって、それがどれほど辛いことか、どれほどの悪夢なのか――私は痛いほどに思い知ったって言うのに。「ヒロ」と呟いた弱弱しい声と、今の冷たい視線が、どうしてか私には同じように見えたのだ。


prev Babe! next
Shhh...