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「……安室さん」

 二人で銃を構えた男を振り向いた。一瞬ホっと息をついたものの、安室はすぐに私にもその銃口を向けた。敵意に満ちた視線が、二人の間を行ったり来たりしている。険しい表情を見る限り、どうやら私が誰かは分かっていないようだ。
 ただ、諸伏の存在にも戸惑っているのだろう。
 特に彼が拳銃を持っているから尚更なのか、じりじりと距離を詰めながら、安室は私たちへの警戒を一片と解かなかった。その中で、小雪が小さく微笑んだ。

「……久しぶりだな、ゼロ」
「――ヒロ? いや、そんなはずがない」
「なんだ、自分の幼馴染だろ。忘れちまったのか?」

 酷い奴、と吊った目つきが呆れたように笑った。はは、と笑いながら、彼は袖を捲りあげて腕にある傷を安室に見せた。グレーの瞳が丸く開かれて、彼はもう一度震えた声で「ヒロ」と呼ぶ。――まずい、彼が偽物だとどうにかして知らせなくては。
 小雪がする諸伏景光の演技は、本当にがらりと別の人格になってしまったようだった。生まれてから彼が死ぬまで、ずっとその体の中にいたのだ。染みついていても、可笑しくはないかもしれない。安室が信じてしまうのも無理はなかった。

「……あ、安室さん! この人はね」
「悪いな、今少し仕事中なんだ……。分かってくれるだろ」

 私の言葉を遮るようにして、小雪が曖昧そうに笑う。ぐぬ、と口を噤んだ。私に明らかに理がないのは分かっていた。見ず知らずの女と、信用していた幼馴染であれば、誰であろうと後者の言葉を選ぶだろう。
 このままでは、安室が小雪に利用されたままだ。何とかしなくては、と焦っていると、鋭い彼の声色はもう一度こちらに警告を告げた。

「……ヒロ。僕は、銃を下ろせと言ったんだ」
「ゼロ、だから今は……」
「いや、ヒロじゃない。そんな怯えた少女に、平気で銃を向けて笑う男が僕の幼馴染なわけがない。仕事であれど、最期まで人好しな奴だった。掛けなくて良い情けで損をする男だった。お前は諸伏景光じゃない」

 小雪の握り方とは異なる、安定した銃の構えが近寄った。彼は低い声色で、「銃を下ろせ」と再度言い放つ。小雪の表情が歪んだ。

「安室さん、諸伏さんの中には別の人が入ってる! 体は諸伏さんでも、諸伏さんじゃない!」
「……君は?」

 ぴくっと眉が吊り上がって、垂れた目つきが私を一瞥した。やはり、私のことは思い出していないようだ。しかし、彼の表情はすぐに変わった。ぎゅうと眉間に皺を寄せて、頭痛を堪えるようにこめかみがひくつく。


「――君は……あの、海で会った……?」


 その言葉に、私はパっと顔を上げ、何度も頷いた。それは私と安室の一番最初の出会いだ。海で溺れていた私を、彼が助けてくれた。もしかしたら、次第に記憶に解れがあるのかもしれない。
 しかし同時に安室の銃を持つ手が震えて、皺を寄せた額にはじわっと汗が滲んでいる。私と安室では少し距離が離れているというのに、それでも彼が苦しそうに息を零すのが聞き取れた。

 私は首を振った。彼が苦しんでいるのを見ると、私も苦しい。 
「思い出さなくて、良いよ」
 自然と涙が滲んでしまうのを堪えながら呟くと、小雪が私を振り返る。良いのだ、私の世界だとか、こちらの世界だとか、そんなことは良い。ただ、彼がそんな風に苦しんでいることが、何より嫌だ。

「何も思い出さなくて良いから!」
「誰だ、君は……。いや、知っている。知っているのに……」
「安室さん」

 どうしよう、彼の表情は苦し気なままだ。私が何かしても逆効果な気がする。戸惑いのままに、しかし動揺した小雪の力が抜けたことに気づき、その足を肩から退けた。上体を起こすと、一瞬その猫のような目つきと視線が合う。血の滲んだ腕が痛んだ。しかし、その足が私をもう一度追うことはなかった。


 ――その瞬間だった。耳を劈くような銃声が響いた。

 先ほどの諸伏の撃った音など、本当に小さな拳銃なのだと思い知る。「いっ」、声を零したのは小雪だった。しかし安室の手に握られた拳銃からは硝煙が立っていない。小雪は手を押さえて、顔を苦痛に歪めた。カラン、と何かが落ちた音に視線を辿らせれば、そこにはボールペンが転がっている。何の変哲もない、ただのボールペンだ。

 すぐにその音の出所を特定したのは、安室だった。私たちに向けていた銃口が、私たちの背後に向けられる。暗闇によく馴染んだシルエットは、夜目が効くようになって漸くのこと捉えることができた。

「……すまない。悪手だとは思ったんだが、ソイツが何やらこそこそしているのを見ていられなくてな」

 どうやら物陰に身を隠していたようだったが、安室の視線に観念したのだろう。こつこつと足音を鳴らし姿を見せた長身を、燃え上がるような怒りが睨みつけた。先ほどまで小雪や私に向けていたものとは比にならない。――敵意そのもののような。
「なんで……」
 その安室の怒りに、私は戸惑う。確かに因縁も恨みも知る感情だったけれど、彼の怒りはまるで三年前と同じだ。そうか、私との記憶がなくなったから――諸伏の死の真実について考えた時間もなくなってしまったのだ。

「何か書こうとしていたな? どうやら小説云々は本当の話だったわけか」
「あ、これ……? そんな、デスノートじゃないんだから……」

 手元に落ちたボールペンと紙片を拾い上げる。小雪は悔しそうに視線を逸らした。いつの間にか、銃をしまい後ろ手で書いていたのだろう。安室にばかり気を取られて全く気づくことができなかった。

「赤井……」

 表情を険しくした安室に、赤井は静かにため息をついた。私と小雪の間に、彼は庇いたてるように立ちはだかった。視線をこちらに向けないまま「怪我は?」と尋ねる。

「多分大丈夫……うわっ、すごい血出てきてる」
「明日は発熱するぞ。覚悟しとけ」

 ニヒルに笑うと、赤井は被っていたニット帽を取るとこちらに寄越した。肩を竦めて「ハンカチがない」と言う。どうやら傷跡に当てておけと言いたいようだが、ニットは傷口に引っかかるのでは――と臆病になってしまった。

「さて、降谷零くん。俺は前にも言ったはずだ、狩るべき相手を見誤るなと」
「――……お前が言うのか、赤井秀一」

 ぐっと奥歯を嚙みしめて、安室は腰を落とす。そのまま、彼の拳が赤井の右頬を殴りつけるまでは一瞬だった。しかし、赤井はすぐに体勢を立て直して彼の眉間を伸びた指先で狙い打つ。

 互いに距離が開いたときに、赤井の胴を蹴りつけたのは安室ではなく小雪だった。寸でのところで後ろに飛び下がったものの、フウと息をついた時、その呼吸が僅かに乱れている。


「君も気づいているはずだ、その男の違和感に」
「そんなことは知っている! だが、それとお前への恨みは話が別だ!」
「――そうやって、本当に大切な物を失ってもか!!」

 住宅街に、擦れた叫び声が響いた。その声が赤井のものだと飲み込むまでには、きっと安室も私も時間が掛かった。冷静で、いつだって鋭く獲物を狙うスナイパーだ。彼はまるで銃弾のように真っすぐで、固く冷たい男だった。そんな風に声を荒げるところは見たことがなく、それは安室も同じだったのだろう。


「取り戻そうと思っても、できないこともある。君は賢明な男なはずだ。過去ではなく、いつだってこの国の未来を見ていた。そんな君が――どうして自分の未来を見据えることができない? よく思い出せ、この俺に頭を下げてまで守ろうとしたものを、しっかり見つめろ!!」


 それは一瞬だった。赤井の言葉に呆然としていて、安室も赤井も、私もその注意が逸れてしまった。ぐっと首元に手が掛かって、こめかみに冷たいものが当たる。無理に立たされた所為で腕が痛んだ。
「赤井秀一か……」
 嫌なものをかみつぶしたような、苦い顔をして小雪は私を睨む。赤井が振り返って、ぐっと足を踏み出そうとしたが、私の姿を見て思いとどまったようだ。しかし、その音とは別にもう一つの足音が背後から聞こえた。壁を蹴って、小雪の頭に膝が入る。暗闇に映える金色が、街灯に照らされてキラリと靡いた。


prev Babe! next
Shhh...