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 ごっ、鈍い音がした。安室の見た目とは裏腹に中々筋肉質な太ももが、すぐ傍にある。いくら壁を蹴ったと言えど、彼がいた場所から小雪の立つ場所はそこそこの距離があった。勢いをつけた膝蹴りに、私は一瞬諸伏の首がゴキっと折れてしまったのでは――なんて冷や汗を掻いた。
 しかしもう片手に握った拳銃を握りしめて落とさないあたり、なんとか耐えてはいるようだ。顔を上げたとき、小雪は――諸伏の目つきは、心の底から苛立ったうようにピクっと下瞼を痙攣させていた。「なんなの」と零れた言葉は、小雪の本心であったように思う。

「ゼロ、お前の敵はソイツだろ……?」
「――……勿論。だけど、その子を離せ」
「どうして。会ったこともないただの小娘だぜ」
「分かってる!」

 安室の声色も、やや苛立たし気だ。自分の中の何かと葛藤するようにかぶりを振って、彼は長くなった前髪を掻き上げた。小雪は吊り上がった眉を顰める。
「オレと、この子どっちを信じるんだ。まさかこの子だなんて言わないよな」
 それに対して、安室は無言で返した。それは殆ど肯定だと言わんがばかりの戸惑いで、小雪の顔つきがますます苛立ちに満ちていく。はぁ、と一つ呆れたようなため息が傍から零れた。

 ふと、その表情が翳る。彼は口元に小さく笑みを浮かべた。微笑むようなものではなく、力なく嘲笑った。低い――諸伏を意識しただろう声色が、「ゼロ」と安室を呼んだ。


「やっぱりお前は、オレを裏切るんだな」


 ――私はそれを聞いた瞬間、銃口が私を向いていることも忘れて裏拳を思い切りその鼻面に叩きつけた。頭の中が真っ赤になって、その時に小雪がどんな顔をしていたかは全く覚えていない。ただ驚いたのだろう、彼女が拘束する手を解いたのは確かだ。私はそれを良いことに、その体をブロック塀に勢いよく押し付けた。噛みしめた奥歯が、ギチっと嫌な音を立てる。


「言って良いことと悪いことがあんでしょ!! んなことも分かんないのか、このクソ女!」


 先ほどの赤井のことをとやかく言えないほど、腹の底から怒りの混ざった声が溢れた。許せなかった。小雪は今、諸伏の体を利用して安室のトラウマを抉ろうとしたのだ。それが、何よりも許せない。安室がどんな想いで彼の死を引き摺っているのか。彼女も多少なりとそれを知っているはずだ。
 
『君の世界のアイツは、アイツのまま死ねたんだ。良かった、本当に良かった……』

 そうやって子どものようにポロポロと流す涙を、私は知っている。私たちの世界の勝手な都合で、安室のような強い人が親友の死に向き合うことを恐れてしまった。彼が前を向くことを、妨げてしまっていた。それなのに、まだ安室を苦しめるって言うのか。
 
「なんなの、もう……」

 ぽろっと零れたのは、私のものではない。目の前の猫のような目つきから、はらっと涙が滲んで零れていく。諸伏じゃない、小雪のものだ。その時、ようやく目の前の表情が見えた。ずっと言葉通り目と鼻の先にあったというのに、カっとなって景色が見えていなかった。

「私の考えた世界を、私の想い通りにしようとするのはいけないこと? 好きな人に生きていてほしいと思うのは、いけないことなの?」
「……小雪ちゃん」

 私が名前を呼ぶと、その目つきは私をキっと睨みつけた。男のもののはずなのに、どこか見上げるように睨みつけるのは、恐らく小雪自身のクセなのだ。彼女はその銃口をぐっと私の顎下につきつけると、安室たちに向かって叫んだ。

「銃をこっちに寄越して。言っておくけど、狙ってもここが白木さんと重なるのは分かっているから」

 暫く間があって、二丁の銃が足元に滑らされた。一つは安室のもので、もう一つは赤井のものだ。意外だった。赤井だったら、私の生死に関わらず目的を果たしそうなものだけれど。
 ――もしかしたら、安室と私に、赤井自身と明美の姿を重ねたのか。確か宮野明美の死に際も、拳銃によるものだった。他の人物の指示に騙されて――。だからこそ、あんな剣幕で怒鳴り上げたのかもしれないと思う。

 アスファルトに落ちた拳銃を横目で確認すると、彼女はどこかホっとしたように息をついた。そのため息は、どこか違和感を含む。

 どうして、小雪は私を殺すことを躊躇うのだろうか。
 確かに自分の手を汚したくないこともあるのかもしれない。けれど、そうでないにしても、私を殺すタイミングは他にもあったのではと思う。三年前のように人を雇えば、それこそ銃で撃たれたらすぐだったはずだ。
 しかし、それどころか小雪は私に素性を晒したのだ。
 確かに彼女は安室や赤井のように徹底したポーカーフェイスをするわけではないが、それでも諸伏景光として彼を演じ続けたはずだ。それこそ、組織にいる時は赤井以外には怪しまれることもなく過ごしてきたのだから、話すだけでボロがでることなんてないだろう。

 ――出口。

 ポケットの中に入れた小瓶の感触を、ふと確認した。彼女はこの薬をそう称していた。苦しまずに死ねる薬だと。この世界からの出口だと。
 
「……」

 どのみち、このまま撃たれるだけなら。
 私は腕を痛がるフリをして、片腕を抱えた拍子に背後にチラリと視線を送った。その先には鋭いグリーンアイがこちらを見据えている。――そこでジワジワと実感したが、普通に痛い。そりゃあそうだ、腕が撃たれたのだ。痛いに決まってる! 先ほど思い切り小雪に詰め寄ったせいで、引き攣った傷は益々出血を増していた。

「いったぁ……」

 それは素直に零れた声だった。しかしまだ合図の一つも出していないというのに、赤井が何かを察したように喋り始める。

「おい、怪我の手当てくらいしてやったらどうだ。このままじゃ出血多量で気絶するぜ」
「この手を離すつもりはない。そのまま腕を組んで後ろを向け」

 最後の指示は、私ではなく安室と赤井に向いたものだ。赤井はどこかニヒルにふっと鼻から抜けるように笑った。小雪の視線が、赤井にチラリと向いて苛立つのが分かった。
 赤井は小雪が何か尋ねる前に、ペラペラと皮肉を語り始めた。

「いや? ずいぶんと可愛い脅しだと思ってね。俺がもう一丁持っていたらどうするつもりだ」
「――変わらない。こいつの頭が吹き飛んでも良いならな」
「悪いが、俺は現実主義でね。――スコッチ、前にも言わなかったか? 漫画やら何やら、そういう空想の話を信じる性質じゃないんだよ」

 赤井が動く気配があった。一瞬、銃口は私の顎へ食い込むように突きつけられたが、どうやら赤井への警戒が勝ったのだろう。小さな銃口の力が一瞬緩んだ――それを肌で感じて、私は思い切りしゃがみこんだ。

 足元にあるのは、先ほど安室が捨てたリボルバーだ。拾い上げるのと、赤井がフェイクで取り出したライターを小雪の顔面に向かって投げつけるのは同時だった。かんっとライターが鼻面に当たった拍子に、赤井よりも傍に立っていた安室が小雪の手に握られた拳銃をぱんっと弾きあげた。

 肩で息をしながら、銃を握りしめる。
 これって、撃ったらやっぱり反動とかあるのだろうか。小雪との距離は十センチと少し。さすがに外さないと信じたいが、自信はない。痛みと血の気が引いて震える腕を、もう片方の手で握りしめて支える。


「――撃て!!」
「――撃つな!!」


 赤井と安室の声が重なって響いた。分かっている、二人ともが真剣にそれぞれの真実を述べていることを。赤井の言うことは尤もだ。今彼女を撃てば、すべてが終わる。この物語は、正真正銘作者の手を離れていくことになるだろう。安室の言うことも分かる。まさか二度も、親友が死ぬ様を見たいわけがない。私だって、彼の苦しむことをしたくない。けれど――。

「安室さん」

 私は目の前を見据えたまま、固い口を開いた。息を呑む音は、多分安室のものだったように思う。


『これからどれだけ嘘を重ねても、どれだけ離れた場所にいても、芹那が望むのなら――僕は君の家族になるよ』
『だからいつでも、僕を信じて』
「――私を信じてね」


 きっと、誰かも分からない小娘のたった一言。私にとっては、いつかの彼への答えだ。記憶を失おうが、世界が違おうが、私にとってはただ一人の大切な人なのだ。

 
prev Babe! next
Shhh...