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 目の前の、馴染みのない男の顔を見上げる。
 当たり前だが、顔つきは丸々違う男のものなのに、やけに控えめな呼吸が彼女らしいとさえ思う。私は彼女に銃を向けながら、そっと口を開いた。辺りは静寂に満ちていて、私の声も、小雪の呼吸もよく響く。そんな私たちを見守る赤井と安室の、僅かな動悸さえ鼓膜を揺さぶりそうだ。

「小雪ちゃん」
「……何? 今更、私の世界を滅茶苦茶にしといて……」
「本当は、してほしかったんでしょ」

 小雪は解せないように眉を吊り上げた。私はつきつけた銃を握りしめて、深呼吸をする。小雪が私のことを殺すことができなかったのは――元の世界に帰すことができなかったのは。きっと、やろうと思えばできたはずだ。何度も何度もその機会はあったのに、きっと彼女の本心が無意識に掛けてしまったブレーキなのだ。

「この世界に異世界人が来ることは知ってた?」
「そんなわけないでしょ、なんでこんなに沢山来ちゃったのか分からないって前も……」

 ――言ったよね、という言葉を小雪は飲み込んだ。きっと自分でも言葉にしている途中で気が付いたのだ。ぱしっと口を塞いだ手のひらは、ブロック塀で擦ったのか血が僅かに滲んでいる。


「じゃあ、どうして出口を作ったの」


 言葉にすれば、彼女のものではない瞳がゆらっと揺らいで見えた。
 出口とは、そもそも誰のためのものか。そんなもの、考えたらすぐに分かることだった。だって、この世界は彼女の作ったものなのだから。私たちは何らか意図しないもので迷い込んでしまっただけであり、そもそもの出口とは小雪が自分のために考えたもののはずだ。

「本当は、ちょっと怖かったんじゃない? 知らない世界で、自分ひとりで皆を助けようとすることが。本当は――向こうの世界に未練がないなんて、そんなことないんじゃないかな」

 ほんの少し言葉端を柔らかくして告げると、彼女は張り詰めていた呼吸を、ゆっくりと吐き出した。ふぅ、と控えめに吐き出されたため息は、紛れもなく小雪のものだ。私はゆっくり、構えていた銃を下ろす。そしてなるべく遠く、赤井が立っているほうに向かって投げ捨てた。銃って、案外重たいのだ。今ももう手がしびれてしまっている。

「出口は、これじゃないよね」

 私は小さく笑って、ポケットから小瓶を取り出した。中にコロンと、玩具のようにカプセル剤が転がる。――きっと、私に出口だとそれを差し出したのは、いつか帰りたかったんじゃないだろうか。向こうの世界の人が他にいなくなってしまった世界で――自分が、消してしまった世界で、唯一の拠り所である私に、心のどこかで助けてほしかったのではないだろうか。

 自分の一文で、人の命を左右する世界ってどんな気分だろう。
 それは例えば神様みたいなものかもしれないが、私たちは神様じゃない。話の終わりを間近に感じて焦る小雪の心情は、理解こそできなかったが、同情することはできた。


「……最初は、楽しかったんだ。思う通りに話が進むし、私の好きなキャラクターが皆生きているでしょ。でも、どこでやめたら良いか分からなかった。私が書くのをやめてしまったら、また誰かが死んでしまうかもしれない。予想していないところで命を落とすかもしれない。……折角、生かすことができたのに」
「でもそれは小雪ちゃんの所為じゃないよ」
「なんで? 私が、私が上手く設定できなかったせいだ。もっとしっかり最初から書き込んでおけば良かった、あとからどんどんボロがでるの。辻褄が合わなくなって、それを合わせるためにまた話を書くの。――なのに、予想できないことが起こるから、頭いっぱいで……」

 
 くしゃっと諸伏の細い黒髪が掻き上げられる。私は彼の擦り切れた手を取った。その大きな手のひらを、そっと自分の胸元に当てる。きっとキャミソールだから、その体温は感じ取れたはずだろう。

「生きてるからだよ。皆、生きてる。それぞれに感情が合って、願いがあって、そうやって生きてるから。守らなくて良いんだ。そうやって、生きていくんだから」
「でもそれで死んじゃったら……!」
「大丈夫だよ。私たちだって、いつ死んじゃうか分からないでしょ。でも……ほら、生きてるもん」

 鼓動の音を聴かせるように、黙ってトクトクとなる胸の音を互いに感じた。彼女は、諸伏の宵が明けるような瞳の色からはらっと涙を一つ落とした。私は小さく笑ってから、一つ瞬くと目つきを鋭くする。その手首をギュっと軽く摘まんだ。

「でも、安室さんに苦しい想いさせたのは別! ちゃんと何とかしてよね」
「……良いな、白木さん。私は向こうに帰っても、居場所があるわけじゃないし」
「何言ってるの? 私がいるでしょ」

 きょとんと目を瞬いて小雪を見ると、彼女は「え?」と同じようにきょとんと目を丸くさせた。まるで鏡を見ているような表情に、少し破顔した。

「でも、だって……。安室さんは、ここにいるのに?」
「勿論、別れるのは寂しいし、本当は一緒にいたいけど。でもね、私決めてたの。安室さんが私にしてくれたみたいに……もし誰かが居場所がなくて一人で苦しんでるなら、私が今度はその人の居場所になるって。きっと、安室さんもそうだったと思うんだ」

 ね、と安室の方を振り返る。勿論彼には今までの記憶はないだろう。けれど、何かを思い出すように、彼も諸伏とよく似た瞳の色を揺らがせた。安室が私に、諸伏やエレーナにから受け取った何かを返してくれたのなら、私が誰かに託す番だ。
 それは、まさか小雪とは思わなかったけれど――いつかこの世界に同じ世界の人間がいると分かったときからそう決めていた。
 私は小瓶の薬を取り出すと、爪先でパキンと半分に割った。果たして半分に割って効力があるのかと疑うところだが、そもそもこれは薬でなくて、小雪の作った出口なのだから、きっと量は関係ないだろう。

 私は彼女にその半分を手渡すと、ふー、と肩の力を抜くように息をつく。それから、ちょっとだけヘラっと口角を持ち上げる。

 赤井には、甘いと思われているかもしれない。それでも、私は最初に出会った時に、彼女に怯えることのなかった自分の心身を信じたい。自分の思うようにして良いのだと、背を押してくれた――安室の信じる、私自身を信じていきたい。


「だからさ、一緒に帰ろ」


 私はまるで、授業終わりの下校を誘うような口調で小さく笑った。
 小雪は、涙を伝わせながら、薄っぺらな諸伏の唇をぎゅうと巻き込んで何度もうなずいた。「何度も怖い思いをさせてごめんなさい」、小雪は私に向かって何度も頭を下げた。薬を飲む前にそう話していたら、ザリ、と足音がする。


「……君は、コユキさんと言うのかい?」

 静かな声色は、怒りに満ちていることもなく、掴みどころのない淡々とした声色をしていた。小雪は居心地悪そうにして、うん、と悪いことをした子どものように返事をする。安室は、本当に僅かに、横から見て分かるくらいの差だったが、口角を小さく持ち上げた。

 ――あれ? 口調が……。

 ふと彼の口調に違和感を覚えた。いくら女性相手と言えど、降谷のものとは異なるような気がした。その金色が宵の中でサラっと零れる。彼は私にも旋毛が見えるくらいにしっかりと頭を下げていた。小雪が「え」と声を漏らす。

「彼らの命を助けてくれて、ありがとう」
「……でも、私」
「知っているよ。代わりに犠牲にしてしまった命のこと。それは君の罪であり、僕らの傷だ。これからも、忘れないでくれ」
「……うん」
「それから、信じて。僕たちは君の作ったこの世界で、しっかりと生きていく。決して腐敗させやしない。――なあ?」

 彼の視線が背後を見遣ると、白い煙が空へ昇った。その匂いは覚えがある。赤井は呆れたように煙草の煙を燻らせて、乱れた髪を掻いた。

「さあな。それなりに腐りもするだろうが許せよ。俺たちは創作物じゃないんでね」
「それは貴方の国だけにしてほしいな。日本はそうはさせないので」
「まったく、君。戻ったとたんに図々しいぞ」

 私はパクパクと、餌を求める魚のように口を開閉させた。戻った――って、赤井はそう言ったのか。私にだって確証できなかったのに、何で分かったんだ! 私と目が合うと、彼は今度こそ柔らかく微笑んで、両手を僅かに開いた。


「芹那」


 そう呼ばれた声に、いよいよ愛おしさが堪えきれず、私はカプセルを小瓶に押し込んで彼の元へ走った。――痛かった、怖かった、寂しかった、不安だった!! 心の底にあった、我慢していたものが全部あふれ出て、ただただ彼の体に抱き着いた。ああ、夜明けの空は寒かったのだなあ。彼の体温を感じて、初めて自分の肌が冷たくなっていたことを知る。二人分の体温はひどく心地よくて、これから訪れる別れを尚更際立たせてしまう。安室はすべてを知っているかのように、ポンポンと私の背を暖かく叩いた。



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Shhh...