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 ぎゅうぎゅうと抱き着いた体の力を強めていると、どうやら安室が小雪と赤井の視線に気づいたらしく、一つ咳ばらいをした。小雪の顔は諸伏そのものであったし、気恥ずかしさもあったのか、珍しく複雑そうな顔をしている。何さ、今更減るものじゃないのに。私は手を離すつもりがなかったので、その咳払いも聞かないフリをしていた。安室が「こら、離れなさい」と優しい甘ったるい声で宥める。

「……なんか、満更じゃなさそうな顔してる」
「鬼の公安も身内には甘いモンだな」

 小雪は興味津々とこちらを覗き、赤井は明らかに表情に「帰って良いか」という色を浮かべていた。小雪は、以前から赤井と面識があった所為だろう。少しおどおどとした様子で彼を見上げている。赤井は居心地悪そうに「その顔で止めろ」と視線を逸らした。

「私は……その……」
「構わない。謝罪の気なしに謝られるのは嫌いだ」
「ごめん。まだ……貴方達を人間として考えられるかって言うと、分からなくて」

 言葉を濁した男の姿を、私はちょいちょいと手招いた。小雪は私の合図に気づいたらしく何となしに近寄る。その体を、私は安室と共に巻き込むように抱きしめた。
「白木さん」
「良いから」
 にこりと笑って、暫く抱きしめていたら、彼女は落ち着いたように「あったかい」と零す。そう、安室の体温は暖かい。それは、私が一番よく知っている。夜の風に冷えた体を、ちょいど良い体温で溶かすのだ。

「……ヒロ」
「あ、えっと……」
「いや、分かってるんだ。分かってるから、少しだけ」

 安室はほんのりと目じりを和らげて、控えめに抱き着いた小雪の手を、私と一緒にきつく抱いた。小雪の――否、きっと、諸伏の手を。小雪もそれを分かっていたのだろう。小さな声で「ゼロ」と呼んだ。彼女もまた、安室のことを諸伏の中から十数年と見てきて、感じるものがあったのかもしれない。それは決して、真っ赤な嘘ではなかったと、私は思いたい。

「……あの人は、ずっと貴方のことだけを考えてたよ」

 小雪は静かに安室へ笑いかけると、「この体も返さなきゃね」とずいぶん落ち着いた様子で回した腕を解いた。私は名残惜しく、中々安室から手を離すことができなかったけれど、ようやくそっと隙間を作る。間に吹き込む風が冷たいと感じた。

「本当に良いの?」
「……良いんだ。寂しいけどね」

 安室を視線を交わすと、彼も柔く笑って頷いた。大丈夫だ。きっと、私が考えていることも、伝えたいことも、安室が一番分かってくれているはずだ。そのカプセルを手に取ると、安室が肩を引き寄せて、頬に軽く唇を落とした。

 その感覚が衝撃すぎて、私は一気に頭に血が昇っていくのを感じる。
 いや、親愛のものだと分かってはいるのだが、とても別れ際のノスタルジックな気持ちにはなれなかった。手のひらが私の頬を、少しばかり強めに撫ぜた。

「どこにいても愛している」

 にこ、と鏡のような瞳が笑う。私は恥ずかしさを覚えながらも、その頬にキスをした。相変わらず毛穴一つない、綺麗な肌だ。今まで散々に伸ばされてきたが、私の肌よりよっぽど伸びるんじゃないだろうか。


 その手が離れて、私は小雪と顔を見合わせた。
 カプセル剤を同時に口の中に放り込む。中身はただの固い――薬の感触もしない――プラスチックのようで、飲み込むまで苦戦した。こくっと喉を通して、数秒。すぐ隣に立っていたシルエットが崩れ落ちた。

 それから、十秒、数十秒――。いつ来るかと身構えていたが、どうにも私の体に変化はない。まさか、やっぱり半分ではまずかったのだろうか。私を囲む赤井と安室の視線も次第に「コイツまさかやったんじゃないか」という疑心のものに変わってきた。

 そんなはずは――。

 信じられず頬を押さえたときに、指先が僅かに向こう側の朝日を透かしているのに気づいた。もしかしたら、小雪とは違って肉体がある分、時間が掛かるのだろうか。結局その場で数分経っても私の体は消えなくて、気まずい気持ちと共にヘラっと笑った。

「なんか……まだっぽい」

 えへ、と誤魔化すように首を傾げたら、二つの音が響いた。一つは赤井の大きなため息で、もう一つは安室の笑い声だ。吹き抜けるような笑い声。次第に昇り始めた朝陽が、そのブロンドを煌めかせた。長い睫毛が、褐色の肌に僅かに影を落とした。


 それから、三人で諸伏の遺体を安室の車に乗せて長野に向かった。彼の遺体は小雪が入っていた所為か生きている人間も同様で、車に揺られていると本当に生きているのではと勘違いしそうになる。どうして赤井まで――と安室はぶつくさと文句を垂れていたものの、最後まで赤井の言うことを聞かなかったのは私なので、私からはあまり反論できなかった。安室は部下たちと何やら連絡を取ってから、その遺体を諸伏と書かれた表札の、大きな一軒家へ運んで行った。よくドラマで観るような、山の麓にある古風な家だ。さすがに見知らぬ人間がついていっては不味いと、赤井と二人車のなかで留守番をした。遠くからでも、グレーのジャケットが低く頭を下げている姿は目に付いた。


 思えば、赤井にはたくさん迷惑を掛けてしまった。
 最初からそうだけれど、彼は彼の思惑で動いているだけであって、それをとことん邪魔してきたのは私である。それについて謝ろうと思ったが、悶々と考えていたら一つ疑問が浮かんだ。
「そういえば、なんで安室さんのマンションの前にいたの?」
 後部座席で偉そうに脚を組んでいる男に話しかけると、彼は唇をもの寂しそうに撫でた。行きの車で、安室にきつく禁煙を言いつけられたからだろう。彼はチラっとクールな視線をこちらにくれてから、何も言わず首筋を軽く叩いた。

 ――首?

 すっと首元に手を遣れば、何やら固いものがカーディガンの襟に張り付いている。
「これ、まさか盗聴……」
「いや? 発信機だ。良い子ちゃんじゃないのは過去に学習していたからな」
「ご、ごめんなさい……」
 あはは、と小さく笑って過去のことを謝罪した。思えば、沖矢昴の正体をリークするなんて最悪な原作改訂である。しかし赤井はフ、とニヒルに口元を歪ませてから外を眺めた。視線の先には何もない。ただ穏やかな陽気に木漏れ日が揺れているだけだ。


「良いさ。それが生きるってことだ」


 赤井はどこか清々しく、窓の外を眺めた。差し込む日差しのせいか、いつもよりも目の下の隈がうっすらと和らいで見える。

「俺たちは生きてる――その通り。誰かを失うことも、恨まれることも、愛することも、すべては自分の物だ」
「そうそう。ライフイズビューティフルってやつ」
「そりゃあ、何の話だ」
「え、知らないの!? そっか、こっちにはないんだ。めちゃ良い映画なのに」

 何だ、それ――破顔した彼の表情は、いつもよりも少しばかり幼げだったように思う。この時、ようやくのこと赤井とまともに言葉を交わせた気がする。ムカっと腹が立つこともなく、私もヘラヘラと笑った。彼は私がこの世界に来なければ良かったと言うが、そんなことはない。きっと、意味があったと、今ならばきっぱりと言い切ることができそうだった。

 数十分後、車に戻ってきた安室が露骨に嫌そうな顔をした。多分、私が彼と談笑をしているのを見てカチンと来たのだろう。今すぐ車から降りろなんて無茶を言い出すのだから、私は益々笑いのツボを深く抉られたのだった。

 すぐにトンボ帰りで東都に戻ったものの、途中で食べたおはぎは美味しかった。胃袋から透けなくて良かった――と、生まれて初めて思った瞬間である。 


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Shhh...