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「うぅ……」

 私はぞくっと背筋に走る寒気を、布団を引き寄せて慰めた。東都に戻ってきたころには、赤井の宣言通り発熱しており、すっかり腕や肩も透けているというのにひたすら気怠さだけが体を襲った。もしかしたら、あと少ししかこの世界にいられないかもしれないのに、どうしてこんなタイミングで。

「そんなに睨んだって仕方ないよ。食べれるかい?」

 安室は苦笑いしながら、卵粥をベッドサイドに置いてくれた。風邪を引いているわけではないから、喉の痛みとかはないのだけど、不思議とするする胃に入るものだ。彼はベッドの淵に腰を下ろすと、私がそれを頬張るのをゆっくりと待っていてくれた。

 皿が空になったころ、ふと携帯が震えた。私のものと、安室のものがほぼ同時に。視線を合わせて通話ボタンを押せば、同じように捲し立てる口調が電話越しに聞こえた。

『もしもし、白木さん?』
『おい、ゼロか! お前今まで……』

 私の携帯からは新出の声が、安室の携帯から響いたのは松田の声だった。どうやら、安室だけでなく周囲の人間も何かを切っ掛けに記憶を取り戻したようだ。本当だったら直接会いに行きたいところだが、重たい体が中々そうさせてくれなかった。
「うん……うん。ありがとう、先生。大好きだよ」
 せめてもの惜別の言葉として、そう送る私の顔を、ちらっと安室の視線が遮った。はて、と首を傾げて彼を見上げると、安室は軽く後頭部を掻く。

「いや……君は寂しいかもしれないが、良かった。最後の君を独占できて」

 ふ、とその口元が自然と微笑む。
 ――いや、嬉しい。素直に嬉しいのだが、ちょっとだけ恥ずかしい。
 まさか安室から――自分の幸せよりも、その他大勢の幸せを選ぶような男から――そんなエゴ真っ盛りな言葉を受け取ることになろうとは。嬉しいような、それを受け取るのが私であることがものすごく恥ずかしいような。
 柄にもなくもじもじと布団の中で足の指同士をくっつけたり離したりを繰り返した。

「ね、安室さんも一緒に寝ようよ」

 その指先を引くと、彼もまた同じようにベッドに倒れ込んだ。ブロンドが、はらっとシーツに散らばる。人形のパーツのような透き通った瞳は、瞬きをするたびに私の姿を僅かに映す。


「松田も萩原も班長も、君を心配してたよ」
「本当に? なんか照れくさいかも」
「怒ってた。ちゃんと説明しろって……特に班長なんか、萩原に宥められててさ」

 はは、とその眉が下がって、力が抜けるような笑い声が零れる。私もそれにつられるように笑った。大きな手のひら、親指が頬をスリスリと撫ぜる。

「君といると、妙な気持ちだ」
「……それって、良い意味?」
「分からないよ。君といる僕は、紛れもなく君といる時だけの僕なんだ」

 不思議だ、穏やかな表情で彼は語る。確かに、今まで記憶をなくしていた降谷と、今の安室ではどこか雰囲気が異なる。もっと大人びているような、はたまた幼いような――そんな彼がごちゃまぜになったような。どちらが素なのだろう。きっと、どちらも彼自身なのかもしれない。


「私、安室さんのことを置いていくわけじゃないから」


 その幼いような表情を見ていたら、急に胸がざわついた。彼は、私が離れたことでまた孤独になってしまわないだろうか。穏やかな目を見つめて言うと、安室は目を丸くした。それからゆっくりゆっくり目つきが柔く細められるのが、私にはスローモーションに見える。

「大丈夫。元々、君の世界に帰る方法があれば送り出す覚悟はあった」
「……寂しいね」
「ああ、寂しい。けど、決して僕らが会った意味がなくなるわけではないし、僕も君ももう一人じゃない」

 安室の手のひらは、いつもと違って少し冷たい。否、私の体温が熱いのだ。どちらにせよ、その体温が心地よいことだけは確かだった。

「……ぐずっ」

 私は一度鼻を啜った。小雪といるときは、彼女のことばかり考えて実感が湧かなかったのに、下手に別れの時間ができてしまったぶん彼と別れたくないという我儘が溢れてしまう。涙をこらえるように下を向いた私の頬を、彼の手が優しく引き上げた。

「大丈夫。今はもう少し眠ろう」
「……でも、それで起きたらいなくなってたらどうしよう」
「そうかもしれない。でもそれは別れじゃないさ」

 その瞬きが、次第に緩慢になっていく。その意識が微睡んでいるのが分かる。彼のそんな様子を見ていたら、私も少し眠たくなってきた。欠伸をかみ殺しながら、私はその手のひらにすり寄った。

「どういうこと?」
「いつまでも待っている。例えもう会えなくても、僕は君を待っているから」

 眠たそうな動きで、彼はそっと私の頬にキスをした。私も、それに応える。
「だから安心して眠りなさい」
 微笑むと、安室は瞼を下ろした。そのうちすうすうと穏やかな息が響き始めて、私もつられるようにして目を閉じる。彼の吐息が、鼓動が、体温が。私の傍にある。きっといつまでも忘れない、誰よりも大切な人の温もりだ。ひどく落ち着く。眠ってしまうのは勿体ないような気もした。





「おはよ〜……」


 寝ぼけた声色が背後から掛かる。その声に、どこかホっとする自分がいるのも確かだった。振り返るとのそのそと冬眠明けの動物のように足をベッドから下ろして、いつも履いているスリッパをつま先だけでゴソゴソと探っていた。

「おはよう。おやつでも食べる?」
「やったー!」
「体調はどうですか」
「大分良いかも。体軽くなったし」

 おやつというワードに、ぱたぱたと軽い足取りが駆け寄った。ダイニングテーブルに座った姿を横目に、冷凍庫からストックしていたアイスをくりぬいた。今日のおやつは、少し贅沢にイチゴパフェだ。旬は過ぎてしまっているので、ジャムにしたものを使ってみた。フルーツそのものを使うよりフレッシュさには劣るが、甘味が濃縮されていて彼女が好きだろうと思う。

「わ、まさかイチゴパフェ!?」
「正解」
「最高……私安室さんの作ったおやつ本当に大好き。あ、勿論安室さんも……」
「おやつに付け足すんじゃない、おやつに……」

 腰に手を当ててため息をつくと、芹那はヘラっと力なく笑った。
 その脱力したような、へにゃりと顔の筋肉を緩めたような表情は、どうしてか僕の心の負の部分を削いでいく。こちらまで同じように目じりを下げてしまうし、何だか甘くもなってしまうのだ。

「飲み物はカフェオレで良いかな」
「勿論。あ、ねえ。でも今日はコーヒーにしようかな、安室さんも飲むでしょ」
「まあ、別に良いのに」

 同じもので良いと、彼女なりに気を遣ったのだろう。苦笑いしながらブラックコーヒーを持っていくと、芹那は僅かに渋く皺を寄せる。だから言ったのに、まったく。そんな仕草も、好ましいと思う。いつもは中々に奔放でルーズな性格をしているくせ、妙なところは臆病で卑屈的だ。人間らしさをそのまま煮詰めたような性格は、一見自分とは尤も対極にいるようにも思える。

「……そんなことなかったな」

 ふと、幼馴染を思い出して笑った。
 彼に散々「零は完璧なのに、変なところは抜けてるよな」と笑われたことを。――最初は同情だった。警戒こそしたけれど、それ以上に、世界に置いてけぼりにされた少女に同情した。昔、自分もそんな気持ちになったものだと感傷的になって、何だか厳しくする気も起きなかったのだ。
 しかし、僕が与えたものに対して、彼女の感情はずいぶんとストレートだった。優しくすればするだけ、背を押せば押すだけ、彼女は直線的に喜び自信をつけ、伸び伸びと育っていく。声を掛けただけ、その気持ちが僕に向いていく。多分、僕が一番それに気づいていた。見て見ぬフリはできなかった。今まで僕を支えてきた僕自身が――かつての幼い降谷零が、安室透が、彼女を捨てるなと振り切りそうになる僕の背を支えるのだ。

「美味しい! まじ胃袋なくならなくて正解!」

 へらへらと、スプーンを片手に少女が笑う。もう二十を越したのにと言うけれど、僕にとってはいつまでも少女のように思える。「家族になる」と告げた日、今までの不安も何もかも吐き出して涙を零した姿が重なる。そんな彼女が今こうして笑えているのが、僕の存在の所為だと良い。そうだと、嬉しい。

 口元が自然と緩んで、僕はその口元のクリームを指で拭った。芹那は顔をやや赤らめて恥ずかしそうに縮こまる。ちょうどその時、古くなったコーヒーメーカーが嫌な音を立て始めた。そろそろ買い替え時である。

 席を立って、コーヒーを注ぎにダイニングに向かう途中、背後から「安室さん!」と大きな声で呼ばれた。――「うん」、僕は声だけでどうしたのかと尋ねる。一際大きな声が、部屋に響いた。ハロの耳がピクリと動く。



「ごちそうさま!」


 
 ――カラン、と無機質な音がする。僕はばっと部屋へ顔を出す。そこには三分の二ほど食べ進められたパフェと、スプーンがテーブルの下に落ちていた。そこから導き出される答えは、あまりに容易な謎解きすぎて言葉にする気にもならない。

 僕はそっとパフェを覗き込んだ。ちゃっかり、その中に隠しておいたイルカのクッキーは食べていったらしい。何とも余韻のない別れに、僕は自然と笑ってしまった。寂しいのは、そんな笑い声に応えるように声を上げるもう一人が、部屋にはいないということだ。

 きっと彼女なら大丈夫。
 今までも、何度も僕から離れて自分で何とか進んできたのだ。きっと大丈夫。

「……大丈夫じゃないのは、僕の方か」

 僕は静かに、手に持った二つのマグカップを片付けはじめる。片方には、牛乳と砂糖をたっぷりと入れていた。それを僕が飲むことはないのだ。



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Shhh...