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「続いてのコーナーです。世界で注目されているアカデミー脚本賞にノミネートされた日本人――誰かお分かりですね!」
「最近は映画監督と結婚したことにも注目されました。ドレス姿がとても素敵です。数年前、突如文学界に表れた彼女ですが、脚本を手掛けるのは今回が初めてとのことですね」
「はい、デビュー作では世間を騒がせましたが、それから暫く新作がなく――そこへ今回の映画があったこともあり、話題性はバッチリです! なんと、その影響でデビュー作も重版が決まったとか!?」
「僕も実はまだ拝読したことがなくて、先日一気に読み切ってしまいました。いやあ、良い話ですよね。なんというか、この先を生きる勇気をくれるというか……」
「ああ! 丁度今速報が入りました。え……脚本賞受賞です! アカデミー脚本賞を受賞しました!!」
「素晴らしい! いやあ、めでたい……。『芹那』、もう一人の自分の姿を描いたという、自身の在り方と鏡をテーマにした処女作から数年、なんと初めての脚本でアカデミー脚本賞を受賞です!」



「うっそお……マジでとっちゃった! すごーい!!」

 私は机から乗り出して、テレビの画面に食いついた。画面には白い肌が映える薄青のドレスを着た女性が、恥ずかしそうにトロフィーを受け取っている。目を輝かせてぴょんっと跳ねる。するど背後に立っていた男が大きくため息をつく。

「良いから、先生はもう少し危機感を持って。〆切まであと二日ですけど」
「うるさいなー、喜ばしいモンはしょうがないでしょ!」

 自らの担当にベっと小さく舌を出すと、彼は呆れたように「子どもかよ」と零した。手元にあるパソコンには、まだ打ちかけの文字が残っている。

 ――今年、私は二十六を迎える。
 なんとも奇妙なことに、私たちはこちらの世界では一日しか時が過ぎておらず、階段から落ちて気絶していたところを病院に運ばれたそうだ。目を覚ましたら母親がコンビニ弁当を投げ出して駆け寄ってくれて、良かったと何度も手を握られた。ちなみにコンビニ弁当は私が目を覚まして腹を空かせていないかと買ってきてくれたらしいが、病院の先生に病院食があるからとドクターストップが掛かってしまった。そんなそそっかしいところも、私が以前知っているままだ。

 現在、とある編集者で多言語の駆けだしライターをしている。主には取材ライターをしているが、時折グルメや美容に手を出すこともある。私が知ったことを誰かに伝えるために文章に直していくのは、案外嫌いじゃない。
 小雪は、なんと今や日本では知らない人がいないほど有名な作家である。あれだけの熱量を文章へ向けられる人だ。彼女の文章は彼女のように儚くどこかエゴイストで、しかし人を惹きつける。曰く、これからもずっと、失わせてしまった人の命を考えるべく作品を書き続けたいと言っていた。一年前まではずっとその過去を引きずっていたが、つい最近入籍し、少しだけそのことを消化できてきたらしい。

「あ、そういえばこの記事。社長さんすごく喜んでました」
「本当? 良かったあ〜。じゃあより良い記事を書くために、〆切一日くらい……」
「駄目ですよ。もう、すぐつけあがる……」

 私は私で、そこまで名が知れているわけではないものの、それなりにやっている。自分の記事には自信を持っているし、それを考えることの出来る自分の思考のことも信じている。
 担当が「じゃあまた明日進捗見に来ますから」と目を鋭くして玄関へ向かう。それを喜々として見送ってから、さあ昼飯にしようと冷蔵庫を開けた。――何もない。しまった、昨日卵も使い終わったのだっけ。卵かけご飯すらできないじゃないか。
 ついでに買出しに行くか、と私は買い物袋を片手に車に乗り込んだ。ちょうどその時、電話が鳴る。私はスマホをハンズフリーにして、セットしてから電話に出た。

『もしもし、白木さん?』

 電話の相手は、小雪だ。私はアクセルを踏み出しながら、一番に「おめでとう」と口にした。彼女は照れ臭そうに礼を述べる。
「すごい。速報にも流れてたよ……本当におめでとう」
『ありがとう。……卒業した時、白木さんが私を出版社に引っ張ってってくれたおかげだよ』
「あはは。ちょっと背中押しただけで、全部小雪ちゃんの力じゃん」
 実は、小雪は自分の作品を自信なさげに自分で消化するのみで、どうにも勿体なくて私が就職希望の出版社に持ち込む際、一緒に彼女も連れて行ったのだ。

『……あの時、すごく勇気をもらった。自分を卑下しちゃいけないって、それはまだやってないだけだって……言ってくれてありがとう』

 ――それは、と私は言いかけてやめた。
 暫く黙った私に、小雪はクスっと笑う。あの小ぶりな唇が柔く微笑むのは、電話越しでも伝わった。

『安室さんの受け売りだって言うんでしょう。良いの。私にとっては、白木さんが言ってくれたことがすべてなんだ。きっと、貴方だってそうでしょう?』
「……うん」
『私、きっとこれからも忘れない。きっと、いつか同じように立ち止まる人がいたなら、私が手を引いてあげようって……そう決めてるの。貴方の受け売りだって言ってやるんだから』

 なにそれ、と笑ったら、小雪も得意そうに鼻を鳴らした。本当に、入籍してからずいぶん明るくなった。きっと今の家族は、彼女をよく愛してくれる人なのだ。誰かに愛してもらえているというのは、それだけで強い自信になることを知っている。

『白木さんは、良い人いないの?』
「その話なら切るよ」
『だって、お母さんも再婚したんでしょう』
「はあ、ママと同じこと言う」

 重たくため息をつけば、彼女は再び楽しそうに笑う。私もつられて小さく口角を持ち上げた。駐車場に止めるバック音が聞こえたのか、小雪はそろそろ切ると切り出した。私もスーパーにつくところだったから、それに応えて通話を切った。

 幸せそうで何よりだ。五月、空は高く青く、広々としている。車窓越しに見ると、安室の瞳の色とよく似ていた。

「どこにいても、愛してる……ね」

 その言葉が、私を強くしてくれる。元気でいるだろうか、怪我は、病気はしていないだろうか。自分の想うままに――生きれているだろうか。安室も同じように、私のことを考えてくれていると良いと思う。否、きっと考えてくれている。


「だって、家族だもん」


 ふ、と空を見上げて小さく微笑む。車から出ると、少し強い風が髪を撫でつけていく。ううん、と大きく伸びをしたときに、ワンっと高い鳴き声がした。思わずそちらを向いたら、黒い豆柴がこちらに向かって吠えている。飼い主が困ったようにその小さな体を抱えた。

「ごめんなさい、いつもは吠える子じゃないんだけど」
「いえいえ、私ものんびりしてたから……?」

 ワンワン、と何度も吠えるものだから、申し訳なくてそそくさとスーパーへ入ろうとした。のだが、ふとその黒々とした瞳が私ではなくて、私の背後あたりに向かっているような気がしたのだ。

「やあ」

 私は後ろをを振り返る。落ち着いた大人っぽい声色に、聞き覚えがあった。ずいぶんと凪いだ微笑を浮かべる男だ。驚いて、買い物袋を落としてしまった。男はそれをヒョイと拾い上げて、ニコニコと歩みを進めるので、慌てて背中を追いかける。

「小雪……じゃないよね」
「そこのスーパー、安い?」
「そこそこ」

 私の言葉を意にも介さず尋ねかけるので、素っ気なく返したら男は「ふうん」と相槌を打った。その顔には見覚えがある。涼し気な目つきと、整っているが吊り上がった眉。ツンっと高い鼻先に、薄っぺらな唇。輪郭を似合わない無精髭が囲んでいる。

「ごめん、頭痛くなかった?」
「頭……?」

 彼がまた脈絡もなく首を傾ぐから、私は生返事で「まあ」なんて答えてしまう。頭、ってなんだろう。さっきも背中くらいはぶつかったけど、頭なんて掠めてもいないし。向こうの世界の話――でもないだろうし。何せ彼自身とは面識がなかったから。

 ざわ、と街路樹が風を受けてざわめいた。それが妙に不気味で、私は彼の足取りについていくことを戸惑った。

 彼はどこに向かうのだろう。スーパーはとっくに通り過ぎた。不安げに、しかしついていかないという選択肢はなくて、駆け足でその背についていく。スーパーの近くにある公園で、男が振り返る。

「ね、ねえ……! 諸伏さん、だよね」

 思わず声を掛けた。彼はブランコに軽く腰を掛けると、その鎖を小さく揺らして頷いた。
「景光だ。諸伏景光」
「景光さん……」
「君は白木さんだね。急に声を掛けて悪かった」
 彼は目じりを下げて、穏やかに笑った。涼やかな――黙っているとツンとしていて少し冷たい印象を受ける目つきをしていたが、笑うとずいぶん人懐っこい。顔はまったく同じなのに、小雪が喋っている時とはイメージが違った。

「で、でもなんで……その、貴方がここに」
「もう死んでるはずなのに! って顔してる」
「そう思ってるので……」
「正しく言うと、コッチ側に弾きだされたんだ。オレの魂ごとね」

 幽霊みたいなものさ、と彼は笑う。しかしその表情は決して恨みや寂しさに満ちておらず、ヘラっと人の好さそうな顔をしている。変な気分だ。自分の命が奪われたというのに、何を笑っているのだろうか。思わず小雪のフォローをすることすら忘れてしまった。

「でも、それももう終わりみたいだ。向こうで、しっかり弔ってくれたおかげかな」
「……安室さん、すごい謝ってました。その、諸伏さんのご家族に」
「ああ……きっと叔父さんと叔母さんだ。誰もアイツのこと恨んでなんかいないのに、律義な奴」

 まったく、と呆れたように、懐かしそうに諸伏が呟く。言葉と裏腹に瞳は優しく日差しを反射している。彼は、安室のものよりも角ばった、長い親指が特徴的な手のひらをこちらに差し出した。


「君には迷惑を掛けた。本当にありがとう」
「私、でも安室さんには助けられてばっかりで……」
「そっちじゃないよ。オレ、ゼロのことは信じてるんだ。オレがいなくなったって、心配なんかしちゃいない……。君は自転車を止めてくれたから」

 ――自転車。
 何の話だろう。聞いたことがあるような、ないような。記憶の筋を手繰り寄せていると、諸伏は見覚えがあるような透けた手のひらに視線を遣った。

「悪い、時間がないな。端的に言うよ。オレはもうすぐアッチの世界に帰るんだ。呼ばれている。あるべき場所に帰るんだ」
「……死ぬってこと」
「まあ、そうかも。でも、嬉しい。やっとゼロたちのいる日本に帰れるんだから」

 こっちの世界も嫌いじゃなかったけれど、諸伏は周囲を見渡した。近くでは、子どもたちが笑いながらサッカーボールを持って走りすぎていく。

「オレが、最後だ。この世界とあの世界を繋ぐのは――あの子が大人になって、あの世界を忘れていく。きっと生まれた歪もゆっくり見えないくらいの違和感を残して修復されていく。だから、オレが最後なんだ」
「景光さん?」
「君はどうしたい? この世界にはもう戻れないだろうが、君が望むなら最後の恩返しに連れて行かせてくれ」

 それは、あの世界に帰れるということだろうか。
 安室がいる世界に――もう一度、彼に会えるということ。けれど同時に、この世界を捨て去るということ。諸伏は気遣わし気に、しかし年上らしく、私に言い聞かせるように話した。その口調は、少しだけ安室に似ている。


「勿論、ここに残っても構わない。これは選択肢だから。君自身が選ぶんだ」


 その手のひらが透けていく。時間がないと訴えている。私は、自信を持って口角を上げた。私の中では既に決まっている選択肢だったからだ。――大丈夫。間違っていないと確信できる。否、仮にそれが悪かろうが良かろうが、構わないのだ。これは私の人生だ。私が生きた道なのだから。安室透が、愛してくれた、私の人生なのだから。


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