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 握った手のぬくもりは、何とも生ぬるく、生気がなく、彼が幽霊だというのにも納得がいった。彼は少しだけその吊った目じりを見開き、殆ど口を動かさずに「良いのか」と呟いた。尋ねたというよりは、独り言に近いような気がする。

「置いてかないって、言ったから」

 足元が落ちていく感覚がある。この世界に残すものは沢山ある。けれど、わけもわからずに向こうに行ってしまったあの時とは違う。今は、私があちらに踏み出すのだ。それに、何より――。

「待ってるって、言ってたから!」

 私には大切なものがある。母や友人、仕事に夢。
 彼にも、大切なものがある。守らなければならないものがある。
 それでも、彼は待っていると言った。私も、置いていかないと言った。その大切なものを置き去りにして、多分お互いに自分たちのためだけに言った言葉だ。それは安室にとって、最初で最後の我儘だと思った。なら、私はその手を取りたい。

「――そう」
「それに、ママは再婚したし、小雪ももう大丈夫だし……思い残すことはないっていうか」
「良いよ、そんな風に言わなくて。はは、そうかあ。ゼロにもそんな子ができたのか」

 彼は嬉しそうに言うと、そっと私の頭を抱き寄せた。ぽん、と大きな手のひらが頭を抱えた。安室の手つきによく似ていた。多分安室が貰った優しさだ。そう思うと、少し泣きそうだった。

「あいつのこと、よろしくな」

 諸伏は一つ笑うと、それから、と思い出したように付け足した。

「あの子の――小雪さんのこと、ありがとう。君に任せて良かったよ」

 落ちていく彼の顔が、次第に時を戻すように幼くなっていく。青年の姿に変わった彼の纏う制服に見覚えがあった。私は「アッ」と驚きに声を零した。
「アインシュタイン!」
 そう叫んだのを最後に、彼の姿は消えてしまった。最後まで、ニコニコと優しく微笑んでいた。そうか、彼だったのか。私をあの時あの世界に送ったのは! そして、きっと彼は――。

『人生とは、自転車のようなものだ――』
『自転車を止めてくれたから』

 私は浮遊感にバランスを崩しながら、ついつい笑ってしまった。なんてことだ、彼は、小雪を救うためにそうしたのだ! 安室じゃなくて、あの世界じゃなくて、ただ一人――あの世界でガムシャラに止まることのできなかった少女を。自分をあの世界から追い出した、たった一人の魂を。


「確かに、安室さんの言う通り……めちゃくちゃお人好し」

 
 笑いながら、私はもう姿のなくなった姿に向かって「ありがとう」と呟いた。本当に、どこまでも人が好い男だ。それでいて、そのためだけに人を向こうの世界に巻き込むだなんて、なんて自分勝手なのだろうか。けれど、そんな彼だからこそ小雪を救いたいと思ってくれたのかもしれない。そう考えたら、自然と笑ってしまった。


「……これ、大丈夫だよね?」

 視界が夜空に切り替わる。晴れた夜空には、星が瞬いている。視界だけ見ればプラネタリウムにでも飛んできたような美しさだが、相変わらず私の体は落っこちている。数年前は大丈夫だったけれど、なんだか不安だ。そもそもこの世界に来たことだけでファンタジーなので、数年前と同じように無事に着水できたら良いのだが――。安室が話していた、生存可能な高さのことを思い出すと、ぞわっと背筋が逆立つ。というか出来たらもっと安全な方法で送ってほしかった。

水面に叩きつけられて死ぬとか、絶対いやだ。恐らくこの先数十年語り継がれるだろうオカルト伝説になってしまう。いや、仮に水面に無事落ちたとして、実はあちらの世界に戻って数年間泳いだことなどない。安室が前のように助けてくれるわけでも無し、行けるだろうか。

「おっ、溺れて死ぬのもやだ〜っ!」

 ひえっと声を上げるものの、落下しているものは抗うことなどできない。そのうち景色は近くのビルを映し、夜空を映し返す海を映した。星がまるで目の前にあるかのように、波に打たれて揺らぐ。――綺麗だ。思わずその煌めきに目を奪われてしまった。空はこんなにも暗いのに、まるで太陽の下にいるみたい。キラキラ、と輝いて、揺らいで、私の視界を黄金に染めていく。


「――っと! 君は本当にじゃじゃ馬だな……」


 ふわっと私の視界を奪った金色が、呆れたように笑った。潮の香りが濃くなる。私の体を、その暖かな手のひらがしっかりと抱きとめている。私は目の前に広がった光景を見て、益々目を見開いた。先ほど見た星空より、よっぽど綺麗だ! 堪らず、そのまま彼の首に抱き着いたら、僅かにバランスを崩して安室が後ずさる。

「はは、痛い痛い……」
「会えた……本当に会えちゃった……」
「おや、夢だとでも?」

 彼は彼らしく、自信に溢れた笑みを浮かべて軽く肩を竦めた。私はブンブンと首を横に振り、今度こそ笑う。こんな時に言う言葉は一つだけ。何故なら、彼は私の家族だから。私が帰りたいと願った場所だから。


「ただいま!」


 あの日からその言葉だけが言いたかった。
 行ってきますと貴方に言ってから、ずっとずっとそう思っていたの。私が笑うと、安室は穏やかに、しかし少しだけいつもより声を大きくして「お帰り」と笑った。波の音だけが響く、静かな夜。まるで満月のように輝く彼の髪は少しだけ濡れていて、抱き着くと冷たかったことを覚えている。





 やはりこちらの世界とあちらの世界では、経つ時間がチグハグになっているようだ。こちらでは、あれから一年しか時間が経っていないのだと言う。安室の話では、丁度一年経ったこの日に、何となしに思い出に浸って海辺に居た時、私が落ちてくるのを見て駆けつけたようだ。

「ふうーん、思い出に浸ってたんだあ……」
「……悪い顔。そんな子に育てた覚えはないんですがねえ」

 ぎゅう、と頬を抓り伸ばされる。私のニヤニヤとした笑みはそれで収まることはなく、寧ろ益々にやけを増長させてしまった。何て可愛いことを言うのだろうか、彼は。大切にされているなあなんて自惚れながら、私も諸伏とのことを話した。安室は「そうか」と穏やかに頷いた。その表情は、諸伏と同じく清々しくも見える。

「安室さんは今も警察官?」
「まあ、そうだね。お陰様で昇進して、あまり自分で動くことは少なくなったけども……」
「おお〜。お偉いさん! 私ももう社会人になったよ」

 そう告げると、彼は驚いて「社会人!」と、今日一番の声を上げる。その驚愕は時の経つ早さなのか、子どもに見られているのか分からない。できたら前者だと嬉しいのだけど。

 空いた時間を埋めるように、安室と話をした。仕事の話や、小雪の話。安室も、松田たちや梓の話、それからこれは意外なのだが、赤井の話までしてくれた。既に組織のことも小雪のことも目的を達して、彼はFBIを若くして引退したらしい。何してるんだろうと言えば、苦虫をかみつぶしたような顔で「どこぞで野垂れ死んでるのでは?」と漏らしていた。相変わらずではあるが、今まではタブーであったその名前を自ら出すほどには、彼のことを認めているのだろうと思う。

「こっちでは、何の仕事をするつもりだい?」
「うーん……やっぱり文字を書く仕事が良いかな。結構好きだったし、まだまだ勉強途中なんだ」
「そう、君がそう思うならそうすると良い」

 安室はそう笑って私の髪を軽く撫でつける。私も笑って頷いた。
 彼が笑うだけで、私の一日は幸せだ。これからその笑顔も日常の一部に変わっていく。何となく、ぼんやりとした日を過ごすこともあるだろう。ただ一つ違うのは、彼は私が一番幸せにしたい人だということだ。
 彼が笑えば嬉しいし、これからもその幸せを共に過ごしたい。それは紛れもなく私の我儘だけれど――それも良い。私の人生の幸せは、いつだって彼と一緒にあると思いたい。


「明日はフレンチトーストが食べたいなあ」
「……良いから早く風呂に入ってきなさい。潮でベタベタだ」
「確かに! ねえ、私があがるまで寝ないでよ」
「分かったから。ハロ、遅れてすまない。ご飯にしよう」


 他愛ない会話を交わしながら、私はふかふかのタオルを持って風呂場へと足を向けた。横目でテレビ台に飾られたイルカのクリスタルが光るのを捉える。タオルも、食器も、今まで私が持っていた荷物も、前のまま部屋を当然の日常のように飾っていた。
「本当に待っててくれたんだね」
 それが嬉しくて、私は背後を振り返って安室を呼んだ。彼はハロの餌を用意しながら、鏡のような瞳で私を見た。


「ありがとう!!」


 安室は何のことやら、とすっ呆けながら、僅かに耳の淵を掻きながらにこやかに「どういたしまして」と返す。その安室透≠轤オい笑顔は、嘘をつく時や隠しごとをする時にするのだと、私には実はお見通しなのだ。



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Shhh...