By the way...


「わー、遅刻なんだけど! 起こしてよ安室さん!」
「十分起こしたよ。朝ご飯、サンドイッチにして詰めてあるけど」
「ごめんなさい、大好き!!」

 私のバタバタとした足音に、ハロの耳がぴくりと反応した。今日は編集長と打合せだからと口を酸っぱくして言われていたのに、昨日安室と観ていた映画に没頭した末がこれだ。(ちなみに、安室は観る前に何度も今日の時間を確認していた。余程信用できなかったのだろうが、正論である。)
 打合せなのでいつものように手軽な服で行くわけにもいかない。オフィス用に買ったブラウスとアイボリーのパンツ。ノーカラーのジャケットを羽織って、シルバーの腕時計をつけるのに少し手間取っていた。

「ほら、そそっかしいなあ」

 安室がするっとその端を取って、私の手首の大きさに合わせる。私は情けなくも礼を告げながら、寝ぐせをワックスで撫でつけて、最低限のメイクをした。いつもよりやや目力が弱いのは否めないが、まあ大人っぽいと言えば大人っぽいかもしれない。

「じゃあ、行ってくるね。安室さんは今日……」
「今日は登庁しないんだ。昼に一回出るけど、君よりは帰りが早いかも」
「じゃあご飯……!」
「はいはい、作っておくよ」

 よしっと両手でガッツポーズを作る。メニューを考えるのが嫌いなわけじゃないが、安室の作るご飯のほうが圧倒的に美味しいのだ。私が家庭のまあ並みレベルだとしても、彼の料理は隠れ家ミシュランレベルである。ガイドブックに載っても可笑しくない。

「行ってらっしゃい」

 私の髪を軽く撫ぜて、彼はそっとこめかみあたりに唇を落とした。私は顔を熱くしながら、いつものようにハグを返そうとしたのだ。――ていうか、普通いい歳の女に、口でないとはいえキスなんかするか? そう思うだろう。安室は、する。しかもしれっと、さも家族の触れあいかのようにする。
 彼の顔の良さで許されている――そうかもしれない。正直こんな甘ったるい顔で「キス? 普通するよ」なんて言われたら、最早それがこの世のルールなのだ。私も少し恥ずかしく思いながら、絆され続けて今に至る。

「く、顔が良いってヤバ……」

 悔しい、と顔を逸らしながら彼の首筋へ腕を伸ばす。その時に、偶々私が寝坊したせいでいつものモーニングルーティーンがズレていたのか、ハロがリードを持って駆けつけたのだ。いつもは私か安室が朝いちばんに散歩に連れていくから、私が出掛けるのを散歩に行くのと勘違いしたのだと思う。

 散歩に連れて行って〜とばかりに足元に突進してきた、ふわっとした小さな体を踏まないようにするために、私はつい体勢を崩した。「わ」とその足元をぐらつかせたとき、安室が手を伸ばしたのは見えた。慌てた表情が鮮明に見えて、私もハっとして伸ばしていた腕を彼の首筋へと急がせた。


「――ッ……え」


 そして、沈黙。
 ごくん、と生唾を飲む音だけが響く。そっと体勢を直されて、ぱっぱっと服の皺を伸ばされる。彼はニコニコっとわざとらしく笑うと、私の背を押して「行ってらっしゃい」と告げた。ふらふらとした足取りのまま、私も「行ってきます……」とサンドイッチの詰まったランチバッグを手に部屋を後にする。

 こつん、とパンプスが踵を鳴らした。
 指先が自然と口元へ持っていかれる。先ほど触れた感触と熱は、まだ残っている。ぶわっと頬が熱くなって何も考えられなかった。思ったより固かったな、とか。フレンチトーストの甘い味がした、とか。

 いやいやいや、事故だし。事故チューって奴だから!

 そう自分に言い聞かせはするけれど、一度高まった熱は全く引いてくれない。どうして、と五月蠅い鼓動が響く頭で考える。だって、安室と私は家族のようなもので、だから普通にキスとかハグとか、一緒に寝たりとか――……。恰好いいっていうのも、ミーハー心で言っていただけであって。

「そ、そうだよね……?」

 自分に言い聞かせるも、返事はない。ただ、よく考えれば私が沖矢昴に恋のような感情を抱いていたのは――もしかしたら。顔色をぐるぐると変えながら、私はその場にしゃがみ込んだ。


「「うわあぁぁあ〜……!!!!」」


 唸り叫んだ声は、何故か無駄なハーモニーを奏でる。もう片側は、扉の向こうから聞こえたような。

 人生って、難しい。愛する家族がいたとして、仕事や夢があったとして――二十年かそこらで完結するような単純なストーリーなんかじゃない。それでもこうやって、日々感情を動かして、誰かと触れあって、私たちは生きていくのだろう。

 それにしても、この顔では会議どころじゃないのだけど――。
 甘く柔らいだ安室の笑顔を思い出すと、どうしようもなく胸の奥が締め付けられてしまって、私はもう一度唸りながら立ち上がった。今日から、どうやってお風呂入れば良いんだろう。当面の問題は、それである。


prev Babe! next
Shhh...