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 頭が痛む。朝っぱらから、ライに足蹴にされながらシボレーを取りに行かされた所為だ。散々私には運転をさせないだとか言っていたくせに、とんだ手のひら返しである。結局全員がほどほどにへべれけに酔っ払ってしまって、泣く泣く徒歩で帰路についたのは言うまでもない。(だからって、何で私が怒られるんだ)

 彼に懐の拳銃を使わせたくなかったので大人しく従ったものの、心の底では怨み言が止まらなかった。このまま飲酒運転で捕まったらどうしてくれるつもりだ。駐車場に車を停めて、額を軽く押さえながらマンションへ戻ろうとしていた。

「……アイス食べたいな」

 二日酔いの朝は、冷たいものを食べたくなる。
 私は小さく欠伸を零しながら、ふらふらとスーパーに向かった。いつもならストロベリー味が好きだけど、こういう日はスッキリとしたミント味にしよう。ミントグリーンのパッケージに目をつけると、欠伸と共に持参しているスーパーのレジ袋に放った。こういう大型スーパーの袋はいくつかストックしてある。案外堂々としていれば気づかれないものだ。

 ご機嫌に鼻歌を歌っていた所に、どこからか視線を感じた。頬を刺すような視線に、まさか誰かに気づかれたかとすっ呆けた表情で顔を上げる。私と同じように顔を青くしていた男は、目が合うとハァと小さく息を零す。

 てっきり咎められるかと思ったが、彼はふっと眦を和らげて笑った。マンションから近場のスーパーだったので、偶然会うことは別に可笑しくない。涼やかな黒髪が、スーパーから零れる冷房を受けてさらっと揺れた。
 いまいち表情の読み取れない笑顔のまま、彼は普段通りに「今帰りか」と話しかけてきた。気づいているのか、気づいていないのか。分からなかったけれど、どこか気まずさだけを残して私も曖昧に笑っていた。

「買い物?」
「ああ、冷たい飲み物が欲しくてさ」
「分かる。やっぱり二日酔いは冷たい物だよね」

 そう笑ったら、彼は意外そうにしながら何度も頷いた。猫のような目つきが丸く見開かれている。

「だよな! 良かった、いつもバーボンに可笑しいって笑われるんだ」
「バーボンに……?」
「ああ、酒飲んだらあったかい味噌汁なんだってさ。意外だろ?」

 まあ滅多に酔っ払ったりしないけどな。スコッチはそう付け足しながら、スーパーのシールが貼られたメロンソーダの蓋をぺきりと開けた。メロンソーダ、そのチョイスに自然と口角が僅かに持ち上がってしまう。なんだ、メロンソーダって。子どもじゃあないのだから。

「……今笑ったろ」
「だって、昨日はあんなにお酒飲んでたのに」
「オレの中ではそう決まってるんだよ。美味いぜ?」

 彼は口をつける前のペットボトルをそのまま差し出してきた。彼が手にしているとグリーンの飲料水も美味しそうに思えてくる。炭酸の小さな粒が、涼し気に目の前を泳いでいく。不思議と喉が鳴って、私はおずおずとそれを手にする。
 「毒なんて入ってないよ、見てただろ」スコッチが笑う。別に毒物を気に掛けていたわけではなく、こうして一つ距離を縮めるたびにほんの僅かにドキドキとしてしまう心が憎いのだ。色恋は御免だと心に決めているものの、好みの顔に笑顔を向けられて少し浮かれる気持ちだけは分かってもらいたい。誰も聞かない言い訳を心の中でツラツラと並べる。

 スコッチへの感情は、奇妙な気持ちだ。
 顔は好きだ。人付き合いも良いし、別にコミュニケーションを取ることが嫌いなわけではない。彼と話していてちょっぴり浮かれる部分もあれば、同じくらい彼を危惧して見ている私もいる。
 闇組織の一員でありながら不思議なほど穏やかで、胡散臭くて、何を考えているのかが全く読み取れなくて得体が知れない。そんな彼のことを、本能では拒んでいる。近づいたら一千万円が遠のくと、長年犯罪に手を染めてきた私の危機感がサイレンを鳴らしていた。


「いらない?」


 首が傾げられる。眩い朝日に、その流れた髪が僅かに透けた。黒髪ではあるが、恐らく生まれつき少しばかり茶がかっているのだろう、日に透けると尚更色素が薄く見える。逆光になったそのシルエットの中で、頬とツンとした鼻にだけメロンソーダから反射した灯りが落ちていた。

「……いる」
「はは、良かった」
「負けた気分になるわ」

 何にだよ、スコッチが肩を揺らした。その仕草や表情は朝の陽ざしによく映えるのに、真っ黒なTシャツとスキニーが浮き上がっている。スーパーの冷蔵庫で冷やされたメロンソーダは、触れると水滴が滴っていた。ペットボトルを傾けて中身を煽る。昨日飲んだ酒に入った炭酸水とは違って、人工的な甘味が一気に口の中に広がっていった。

「あまっ」

 私はぱっとペットボトルを下げて顔を顰める。
 分かっていたことだったが、メロンソーダってこんなにも甘かっただろうか。顔を歪めた私のことを、スコッチがカラカラと揶揄うように笑う。
「そりゃそうだ、メロンソーダだからな」
「そうだけどさあ〜……」
 なんて文句を垂れてみる。スコッチは悪かったと、悪気の無い笑顔で謝って見せた。そのヘニャっとした人当たりの好さそうな笑顔に、私はそれ以上何も突っ込むことができないままだ。

 ――あ、でも頭痛は引いたかも。

 十中八九、別にメロンソーダのせいではないだろうが、不思議と先ほどまで重たくガンガンと鳴っていた頭の痛みは和らいだように思えた。こめかみを軽く押さえてみる。あんなにも鬱陶しく目の奥を刺してきた日差しも、今は目覚まし代わりの清々しい灯りとして捉えることができた。

「でも、水は欲しい」
「なら家に帰ろう。水道水ならあるだろ」
「スコッチ、飲料水ちゃんと買ってるでしょ。知ってるんだから」

 拗ねたように言い返したら、その吊り上がった眉が意地悪そうに潜められた。
「――で?」
 で、と来た!
 私は益々拗ねた表情を隠すこともなく、顔を思い切りぶすくれさせながらついっと明後日の方へ逸らした。しかし今から財布もない中スーパーに戻るのも億劫で、彼のほうをチラリと見上げてから呟く。

「水、一本くれない?」

 口を尖らせて、被っていたキャップのつばを僅かに下げた。スコッチはわざとらしく考え込んでから「しょうがないな」と頷いて見せる。最初からくれる予定であっただろうに、わざわざ遠回しなことばかりするのだから。

「じゃあ、オレにも口直しに一口くれよな」
「うわ、やっぱり見てたんじゃん」
「綺麗な手際だったよ。お見事」

 パチパチ、と二度叩かれた手の音が路地に響き渡る。見ていたクセに、私の気まずそうな態度を黙っていたなんて、本当に良い性格をしているものだ。人好しなのか意地が悪いのか、本当に掴めない。

 彼のことを怖いと思う。
 得体のしれないものは恐ろしい。近づきたくない。現実主義な根っこの部分はそう叫ぶ。

 彼のことを魅力的だと、思う。
 怖くて得体のしれない――私には掴みきれないものを、ついつい目線で追ってしまう。飛べない魚が空に憧れるように、闇を知らない子どもが悪事に惹かれるように。

「……最悪」

 私にできる一つの抵抗は、そう小さく呟くことだけだ。願わくばそんな想いがこれ以上抱えきれないことになる前に、他の男を見つけなければならない。明日にでも、ライに媚びを売りに行くか。ちょっとくらい可愛げを見せておけば、懐に入れて一晩くらいは抱いてくれるかもしれない。
 都合の良い男にするなと、再びパシリにされる未来が浮かんだものの、そっと見ないフリをしておいた。