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「えっ」

 驚いたような声が部屋に響き渡る。珍しいと思った。
 三人とも気配を隠すことには長けていたし、いつのまにか帰宅していることなどザラだった。それなのに今の声色は、まるで隠しきれず零れてしまったかのように部屋に転がった。

 テレビを観ながらコーンフレークを頬張っていた私は、スプーンを咥えて音のしたほうを振り向く。バーボンだ。真っ黒なハイネックのニットと、ベージュのパンツ。キャスケットを外して、ブロンドヘアがぽさりと癖を立てていた。

 彼の垂れた目つきが、パチクリと私の顔を捉えて瞬いていた。その大きなグレーの瞳に、私のきょとんと間抜けにコーンフレークを嚙み砕く表情がきらりと反射した。形の好い眉が困惑したように歪んでいる。

 常にポーカーフェイスをかぶせているバーボンにしてはこれもまた珍しいことで、私は益々目を丸くした。口の中に残ったコーンフレークをじゃくじゃくと噛み砕き飲み込むと、首を傾いだ。

「どうかした?」
「――あ、いえ……」

 まるでへばりついた喉を無理くりに広げたように、僅かに掠れた声をしていた。ようやくのこと彼の口元に、いつもの愛想笑いが浮かぶ。しかしその視線は相変わらず私の顔を捉え続ける。

 私は暫し沈黙を守ったものの、次第に気まずくなってきて視線を逸らす。その華やかな容姿に見つめられるのは満更ではないものの、少々気恥ずかしいというか。

「……あっ! この間買い物のお釣りくすねたのバレた……? ごめん。ちょっと出来心で」
「それは気づいていましたけど……」
「ウソ、本当に?」
「まあ……いえ、違います。そのことではなくて……」

 この間ジュースを買いに行く金を借りたときに、お釣りを少しくすねて返したのだ。気づかれないように大きいものは避けたのだけど、まさかそのことを根に持っているのではないか。
 そう尋ねた私に、バーボンはゆるゆると首を振って見せた。そして指先をふとこちらに伸ばす。一瞬、叩かれるかと思って身を竦めたけれど、その指先は私の襟足に伸びた。つい先日スコッチに切ってもらった毛先は、軽やかに首筋を擽る。


「髪、切ったんですね。少し見違えてしまって」
「あ、そのことか」

 確かに今までロングヘアだったのをばっさりと切ってしまったし、ブリーチで色の抜けた金髪も染め直したので印象は変わったかもしれない。そこまで反応が返ってくるとは思っていなかったのでご機嫌に髪の毛をふわっと手の甲で攫った。

「どう、可愛いでしょ」
「ええ。どうしたんですか、何か心変わりでも」
「ううん、いや、ちょっと……。本当はこんな短くするつもりはなかったんだけど」

 いきさつを話すと長くなるような、考えながら言葉を濁した。「ちょっとした手違いで」――、なんて、なんの手違いなのだか。曖昧な言葉を並べながら、私はそうだと切り出した。


「これ綺麗にボブにしてくれたのスコッチなんだよね。バーボンの髪も切ってるって言ってたけど」
「スコッチが――?」


 再び、その表情が歪んだ。
 眉が顰められて、グレーの瞳の奥に静かな炎が灯っているような気がした。ジィ、と見つめられた場所から火が移ってしまいそうだ。その視線は私の首を擽る毛先を眺めて、愛想笑いをぎこちなく固めさせた。

 あれ、何かまずいことを口走っただろうか。

 そう思ったものの、バーボンはすぐに微笑みを取り戻したので、私も特に気にしないことにした。この間、見知らぬ男に対してもそうだったけれど、彼の警戒心をむき出している時とそうでない時の空気はガラリと変わる。
 どの人間にも多少はあるだろうが、それが顕著な男だというか。時折ギクリとすることがある。

 彼はすっと私の傍らに腰を下ろした。
 細身の体に見えたけれど、隣に座るとソファがぎしりと傾いて、彼の体の大きさを知った。彼は改めて私の髪の先を眺め、柔らかく擽っていった。少しだけ、拗ねたような雰囲気があるのは普段の得意げな笑顔よりも表情が強張って見えるせいだろうか。


「……このくらい、僕にだって切れるのに」


 まるで手伝う機会を逃した子どものような言いぐさで、私は聞いてすぐにフっと笑ってしまった。もし今までの表情の違和感がその所為だとしたら、とんだ闇組織だと思う。まあそんなことはないだろうけれど。

「バーボン器用そうだもんね。あ! もしかしてロングのが好きだったんだ」
「……正直好みで言えば」
「そりゃ残念。また伸びるし」
「でも、その髪型もよく似合っています。これは本心ですから」

 ――やっぱり、バーボンの世辞は体に染みる。
 自分に自信がないわけではないけれど、人から可愛いだの似合っているだの言われるのは気分が良い。そういう痒いところに手が届くような言葉を掛けてくれる男である。私としては大変有難い。

「ああ、そうだ。君にお願いしたいことが」

 バーボンはようやく一つ思い出したように、毛先を撫でていた指をひっこめた。
「実は、今度の潜入捜査でワルツを踊るんです。練習相手になってほしいんですが」
「別にいいけど……私社交ダンスはわかんないよ。他の人のが良くない?」
「……僕にスコッチやライ相手に踊れと」
 バーボンは肩を竦めて皮肉っぽく鼻を鳴らした。
 他の女の人、という意味で言ったのだけれど、予想していなかった言葉に笑いが込み上げてきた。バーボンとスコッチとライが、わ、ワルツ――。

「あはっ、あはは! そ、そ、それ誰が女役やんの!?」

 腹を抱えて笑いながら、私は足をバタバタとさせる。誰が女役でも男役でも、とんでもない絵面である。全員体格も良いし、背も高いし、できたらライに女役をやってほしいところだ。あの仏頂面で長い髪を揺らしながらエスコートされているツラを思い浮かべるだけで笑いが止まらなかった。

「失言です。ライを引き合いにだしたのは間違いでした……」
「良いじゃん、お願いしたら踊ってくれるって」
「揶揄わないでくださいよ」

 私がソファにごろんと寝転んで笑っているのを一瞥し、バーボンは呆れたようにため息を一つ零した。そうやって拗ねた風になっていると、この間のクラブの時を思い出してやはり可愛く思える。胡散臭い笑顔の消えた、困ったような彼の表情は嫌いじゃなかった。つい、意地悪なことを言って困らせたくもなってしまうのだ。

「嘘、嘘。良いよ、バーボンが教えてくれるなら」
「もちろん。エスコートは得意分野ですから」
「そんな腹立つ得意分野ある?」

 にひっと歯を見せて笑って見せると、バーボンも肩の力を抜くようにフ、と微笑んだ。
「ではお手を」
 などと気障なセリフと共に寝転んだ体を引き起こされて、私はまた馬鹿みたいにケラケラと笑った。彼の手のひらは大きくて熱い。私のチンケな手など容易に包まれてしまうし、冷え性は指先は溶かされてしまいそうな気分だ。

 立ち上がった拍子に彼の足を思い切り踏んでしまって、バーボンは苦く笑いながら「こちらのダンスは苦手のようですね」と言うのだ。悔しいので、彼の気が済むまでその日は社交ダンスの特訓に付き合ってやることにした。後に下の階からクレームが届くのは、言うまでもなかったかもしれない。