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「えっ」

 リビングのソファに寝転んで焼き鳥を頬張っていた頃、一つの声が転がり込んだ。
 なんだかデジャヴを感じる。ついぞこの間、同じようなシチュエーションがあったような気がするのだが。櫛を抜いてゴミ袋に放り振り返ると、手に持ったレジ袋をキッチンに片しながら、男は驚いたような態度で私を見つめていた。
 まるでコンビニでも行った帰りのようなルーティーンであるが、ビニールの中から飛び出た注射針が見えたことには口を噤むべきだろう。
 
 ぺろっと捲れたタンクトップの裾を直しながら上体を起こすと、スコッチは猫のような目つきをパチパチと瞬かせた。そこまではバーボンの表情とよく似通っていたが、立ち直りの時間はスコッチのが何倍も早かった。
 彼はすぐに顔に笑みを貼り付けて、黒いウィンドブレーカーを脱ぎ捨てゴミ箱に突っ込みながら、私を見ると肩を軽く竦めた。

「いや、髪……」

 ちょいちょいっ、とスコッチは自らの襟足あたりを指さした。ああ、私は納得して頷く。つい先日、エクステのモニターを受けてきたところだったのだ。スコッチに綺麗に切り揃えてもらったボブヘアは、今はウェーブのかかったロングヘアになっている。まあ飽きたら外せば良い話だったし。

「似合ってるけど、やっぱり前の髪形気に入らなかった?」

 どうやら自分の所為ではないかと未だに根に持っているようで、彼は罪悪感を感じたように眉を八の字にした。がたがたと冷蔵庫から取り出した缶ビールを二本。一本は私のほうに手渡しながら。

「ありがとう。うーん、気に入らなかったわけじゃないけど」

 彼の腕は確かだったし、短い髪形が嫌いなわけでもない。
 ならば何故かと問われると――実際、答えは一つ。バーボンが案外拗ねた子どものように長いほうが好みだったなどと言った所為だ。
 
 私もそれなりに女としては生きているので、見た目の良い男が長いほうが良いと言えば、「うーん、そうかな〜」なんて心が揺れるものである。それに、彼のあの拗れたような機嫌の損ね方は可愛かった。
 それが満更でもなくって、ついついエクステをその日のうちに検索してしまった。まだバーボンには見せていないけれど、見せたら再びあの日のように驚くのだろうか。

 ――甘く蕩けるように垂れた目つきも良いが、彼の気の強さや頑固さを象ったようなあの大きく吊り上がった眉を殊更に気に入っていた。

 あの眉が、ピクっと動揺して顰められたりだとか、不機嫌そうに片眉を吊り上げたりだとかすると、隠した下心がついついほくそ笑んでしまう。

 そんな諸々とした感情を語るには言葉が足りず、私は「バーボンがね」などとあまりに簡略した言葉で理由を完結させた。スコッチは口元をムっと歪めて怪訝そうに首を傾げた。

「バーボンが?」
「うん。長い方が好きだったんだってさ」
「それならストレートのほうが良いぜ」
「え、嘘! 先に言ってよ」

 折角可愛くしてきたのに。不満げに零すとスコッチは苦笑いして「どうやって」と言った。確かにそれはそうなのだけど。毛先を弄りながら一つため息を零したら、スコッチは自分の持っていた缶のタブを開けた。

「でも似合っているのは本当。自信持っていいさ」
「スコッチって、誰にでも可愛いって言いそうだからなあ」
「えぇ……バーボンじゃなくて?」
「バーボンはお世辞と本音が分かりやすいから良いの」

 もちろん、だからと言って嘘が下手だというわけではないだろうが、話していると彼はおべっかと素の言葉を使い分けているのがよく分かる。表面上は胡散臭くニコニコと微笑んでいるが、実のところにあるのは少々初心で頑固な男のような――私にはそんな風に見て取れるのだ。

 スコッチはどかりとソファに腰を掛けると、ビールを軽く傾けて「ふうん」と頷いた。
 彼はその涼やかな眼差しを細めて、視線だけをこちらに遣る。スコッチの視線は鋭い。特に、その口元に笑顔が消えたときは、心の中を見透かされるようなゾっとした悪寒を走らせる。

 私はもぞもぞと膝を丸め込んで、彼から受け取ったビールを開ける。あれ、いつもの銘柄ではないのだと思った。冷蔵庫で冷やされているのはたいてい何時も同じ銘柄だった。バーボンは酒は嗜まないと言っていたし、ライはウィスキーボトルをたんまりと買い込んでいるのを知っていたから、多分スコッチのものだと思う。たまにくすねていたので間違いない。

 ――ふと、そのビールが汗を掻いていないことに気づいた。

 あれ、今冷蔵庫から取り出したよね、多分。
 取り出したところを見たわけではなく、冷蔵庫を漁ってからすぐに持ち出してきたのでそうだろうと思い込んでいたけれど。生ぬるい液体が喉の奥を滑り落ちていった。それが妙な作用を生み出したように、背中にうっすらと汗が流れていく。

「……スコッチ?」
「ん?」

 彼は、気まぐれそうに瞳を細める。
 ビニールから飛び出ていた何かの注射針が脳裏に過った。いや、そんな、まさか。
 非現実的だと思いもするのだが、スコッチの意味深そうな笑顔を見ていたら不安になってきた。毒とかじゃあないよね。それもまずいが、自白剤でもまずい。彼らにはまだ隠さなければいけない事実がある。

 ビール缶を持つ手が小さく震えるのを、スコッチは黙って見つめていた。
 
 その沈黙が数秒――否、数十秒。
 彼がようやくニコリと愛想よく笑って、肩を揺らしながら笑い声を上げた。

「悪い、冗談だ。冷蔵庫がいっぱいで外に出してたんだよ、忘れてた」
「あ、そ……」

 からからと笑うスコッチに、私は膝を抱えながらぐびぐびとビールを呷る。悪趣味な冗談だ、ため息交じりに呆れた私を見て、スコッチは目じりに浮かんだ涙を指で払いながら謝った。

 彼は片膝をソファの上に立てて、ほんのりアルコールの回った赤い頬を預けながら、先ほどとは打って変わったリラックスした微笑みを浮かべる。頬や耳もそうだったが、ツンっとした鼻先が赤くなっている。それがどうにも可愛いと思えて、不機嫌が直りかけた。ずいぶんと単純な脳である。

 彼は似合わない無精ひげを手のひらでなぞりながら、私の名前をふと呼んだ。酔っ払いの言葉だ。それがすぐ分かるくらい、低い声色が虚ろな色も浮かべている。

「バーボンのことが好き?」
「……は? どうしてそうなるの」

 話が飛躍していないか。好きなんて感情、そんな簡単に生まれちゃ困る。私がぎょっとして返したら、スコッチはどこか安堵したような雰囲気で笑っていた。先ほどまでのツンとした雰囲気とは全く異なる、ふにゃっと脱力したような雰囲気。本当に怖い男だと思った。
 組織らしく腹黒いのかと思いきや、時折ただの青年のように穏やかで心優しい一面を見せる。そんなわけはないのに。彼の心根がまったく見えてこない。

 得意なはずだった。
 職業柄――というか、そういうことが得意だから詐欺師になった、というほうが正しい。幼いころから人の視線や表情を読み取るのが上手かった。仕草や言葉づかいで、彼らがどんな人間なのか大抵のことは想像できた。
 それは私にとって、天性の才能だと言っても良い。バーボンやライ、ベルモット相手でも――もちろん食えない部分はあったけれど、それでも読み取れる部分はあった。

 スコッチは違う。私には彼の心がよく分からない。
 こんな組織に所属していて、恐らく黒い事は山ほどこなしてきただろうに、老人や迷子に声を掛けるような――まるでメリットのないボランティアじみたことをする。
 私にカマをかけるようにしたと思いきや、すっかり馴染んだ風に脱力して酔っぱらっている。

「そんな惚れっぽくないんだけど」
「だよなあ……」
「なんで溜息」

 言えば彼は、さして冷たくもないビール缶に頬を寄せた。

「――良かった、って思ってさ」

 その足の親指が、私が抱えた足のつま先をチョイっと突く。どういう意味、それ。ほんのり顔が赤くなるのはアルコールのせいだ。そうに違いない。――そんなに惚れっぽくない、はずだから。