17


 ソファから、長い脚が投げ出されている。
 そもそも自室はよっぽど広くベッドもあるだろうに、あえてリビングで寝る理由があるのだろうか。冷蔵庫から取り出したアイスを片手にその姿を見下ろした。何というか、別にそのソファを使うわけでもないのだが、彼がそうやって寝転んでいる姿を見ると妙に部屋が窮屈に思えるのだ。

 邪魔だなあ、と思いながら横を通り過ぎようとしたら、ごとんっと重たい音がした。驚いて振り返れば、彼の寝るソファの傍らにドラマでしか見たことのないフォルムが落ちている。この間、体に触れたときに固い無機質なものが服越しでも膨らんでいたのを覚えていた。
 長い黒髪がソファから流れていて、その隙間をかき分けるように手を伸ばした。恐ろしさ半分、ちょっとした好奇心半分だ。いくらなんでも、素人がちょっと握っただけで暴発するようなことはないだろう。いつもは懐にしまい込んでいるようだし、きっとセーフティロックを掛けているに違いない。

 無駄にアクション映画だけはよく見ていた所為で身についた知識を過信しながら、私は黒く重たい塊を拾い上げる。格好いい。本当に映画やゲームの中に出てくる装備みたいだ。

「すっごい、ダイハードみたい……」
「みたいじゃないぜ」

 大きな欠伸が傍らから零れて、私は危うく手に持った拳銃を取り落としそうになった。それを見かねて、長い腕が伸びる。ぱしっと私の手にあるそれを奪い去ると、溜息をつきながら異常がないか見回しているようだ。

「べ、別に奪ったわけじゃないよ?」
「起きてた。起き上がるのが面倒だっただけだ」

 のそりと、大きな体躯が持ち上がる。彼はくるりと拳銃の引き金に指を通して、それを一周回して見せた。おお、と素直に感嘆の声が上がる。ニット帽のない額から、はらっと黒い癖毛が零れた。

「ダイハードで使っているモデルと同じだ」
「へえ……ライでもアクション映画なんて観るんだ」
「でも? 人をサイボーグとでも思ってるのか」
「良いね、多分話の中盤で味方になって死ぬけど」

 確かに人の心とか分からなそうだし、中々にしっくりとくる役回りだ。ぱちんと指を鳴らして興味深く頷くと、軽く蹴られた。体つきに見合うような大きな足だ。私は蹴られた後だというのに、その足の大きさに感動して「うわあ」だなんて声を零してしまった。

「デカっ! サイズいくつくらい?」
「十一インチ」
「インチ……」

 それ何センチ、と尋ねる前にライが「二十九」と素っ気なく答えた。その足をソファの上で胡坐をかいて、ぐるりと丸め込む。すごい、安直に言えばライの感情に乏しい眉が軽く顰められた。
「そうでもないだろ」
「あー、確かに外国ならそうなのかも……足が細い所為かな」
 確かに向こうの血が混ざっているなら大きくもあるかもしれないが、筋肉質な割りにすらっとした体つきをしていたし、やけに大きく感じるのはそのギャップかもしれない。ついでに言うと、足の指があんなに長いのは初めて見た。人差し指にはまっているトゥリングが、よく映えていた。

「かわいい〜、それ」

 ソファの前にしゃがみこんで、ツンっと人差し指を突く。ライは不機嫌そうに髪を掻き上げて、ぴぴっと足で私の手を払った。普段は大きくゆったりとした黒ヒョウかなにかに見えるのに、その時ばかりは気まぐれな黒猫のようで、私は面白がって指先にデコピンをかましておいた。

 何度かその不毛なやり取りを繰り返していたら、ライは足の指からリングを取り外すと私のほうに投げてよこした。

「うわ、何」
「やる。いちいちチョッカイかけるな」
「別に欲しくてやってたワケじゃないのに」
「じゃあそれで遊んでろ。俺は仕事だ」

 ころんと手のひらの上で転がったリングを摘まんだ。仕事だ、と言いながら再びソファに横になるのを一瞥しながら、試しに足の指にはめてみる。人差し指や中指だと太く感じるけれど、親指にはめると流石に少しばかり窮屈だ。

「ねー、これサイズ合わないよ」

 寝転んだ男の髪をするっと掬いながら文句を垂れたものの、男から反応は返ってこない。無視を決め込みはじめたらしい。試しに手の親指にはめてみた。先ほどまで誰かの足にはまっていたと思うと僅かに抵抗はあるけれど、まあ匂いもしないし大丈夫だろう。そのうち、スウスウと穏やかな寝息をたてはじめた男の髪を弄りながら、小さく鼻歌を歌った。

 外はまだ日が高く、彼の活動時間ではない。
 本当に寝ているかは別として(いや、恐らく――絶対寝てはいないだろうが)、暫く起き上がることはないだろう。ここ暫く生活していて、彼が根っからの夜行性なのは把握済みだ。
 確かに、彼の真っ黒な服装と長い黒髪は、日が高いうちは際立ってしまうと思う。髪色が暗いせいか痛みが分かりづらいけれど、指先で弄ると案外枝毛や切れ毛が多くて乾燥していた。勿体ない。ここまで真っすぐ伸ばしているのに。

「オイルかなんかつければ良いじゃん」
「……妙な匂いのモンつけるなよ」
「ライのワックスも匂いつきだったけど」
「勝手に使ったのはお前か」

 目を閉じたまま彼はボソボソとしゃべり始めた。しまった、図星を掘ってしまった。曖昧に笑ってごまかしながら、まとめあげた髪を横に流してやった。閉じた瞼は深く窪んでいて、自然と影が落ちる。何もしていなくてもシャドウが入っているみたいだ。

「――ライはさあ」

 ちらりと、先ほど懐にしまい込んだはずの拳銃へ視線を向けた。

「人を殺したりしてるの?」
 
 尋ねても、その長い眉も裸足もピクリと動かすこともなく、淡々とライは「ああ」と言った。拳銃はどう見たってモデルガンでもなかったし、あの使い慣れようから想像はできていた。
「そっか」
「今更怖気づいたのか」
「んー、バーボンやスコッチもそうなのかなーって思って」
 想像はできていたけれど、本当は動揺していた。
 彼が目を閉じていてくれて助かった。声色こそ繕ったものの表情をコントロールできた自信はない。――だが、ライは少しの沈黙を返した。先ほどのようにハッキリと頷けば良いのに、そうはしなかった。

「さあな」

 代わりに返ってきたのはそのセリフだった。
 その奇妙な返答に、私は違和感を覚えながらも言及することは恐ろしくて、さらに沈黙を返してしまった。

「……お前、殺しに慣れてないだろ」

 ライはゆっくりと瞼を薄く持ち上げた。睫毛が白い肌に影を落として、隙間から翡翠色が覗く。私のほうは見ていない。薄っすらと朧げに天井を見上げているだけだ。ギクリとした。空気は揺らさないまま、目を瞬く。
「さあね」
「スコッチに聞いた。髪を切らせたんだってな」
「……うん。そうだけど」
「人の命を扱ったことがある奴が、そんな簡単に首を晒すか」
 言われると、何も反論はできなかった。もしかしたらスコッチもそんな違和感を覚えていたのかもしれない。

「……情報屋だからね、そういうのは直接やらないの」

 苦し紛れに返した言葉が、ライにどう聞こえたのかはさだかじゃない。しかし、ライは「そうか」と小さく返事をする。どうやらこれ以上深くは掘らないつもりらしい。再び寝息をたてはじめた男に、借りが一つできてしまったと溜息をつく。

「……こう見えてケッコー甘いよね、ライってさ」

 そう額を突けば、彼は眉間に浅く皺を寄せた。それ以降、返答が返ってくることはなかった。