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 しゃんと伸びた背筋を、街中で見掛けた。バーボンだ。
 彼の姿は相変わらず夜の街にも馴染むことなく周囲の視線を集めていたが、どうしてか妙に伸び切った姿勢の良い背中が目についた。普段の紳士らしい物腰より、少しばかり気難しそうな顔色だ。

 ――白、着てるの珍しいな。

 組織の方向性(――?)というのもあるかもしれないが、やはり彼らは黒を好んで纏った。ライは言うまでもなく真っ黒な装いであったが、スコッチやバーボンも全身とまでは言わないが、メインには黒を据えて他の服を選んでいたように思う。もちろんグレーやらキャメルやらを選ぶ姿も知っていたが、それでも白は初めて見た。
 普段のブロンドは近寄りがたい気高さを思わせるが、白いシャツを腕まくりしている姿には、その金髪はさわやかな雰囲気を醸していた。

 私はパタパタとその背に駆け寄った。
 思えば、どうして自ら彼に近づいたのかはよく分からない。この間見掛けた時は、こちらからわざわざ近づくこともないかと踵を返したのに。そのことに気づいたのは自然と彼の背を叩いた後で、振り返ったバーボンのにこやかな表情に複雑な感情で笑い返した。

「バーボン、珍しいね。こんな昼間から」
「そうですか? あいにく僕は*骰s性ではないので」

 という言葉は、恐らくライのことを皮肉ったのだと思う。相変わらず仲が良いのだか悪いのだか。動いた後なのか、彼の額にはじんわりと汗が滲み、綺麗な金髪が小麦の額に張り付いていた。私がぐっと背伸びをして、その金色を指先で払ってやる。
 バーボンはパチンっと長い睫毛の音を鳴らした。
 次の瞬間、カカっと彼の頬が血色づいた。私が払った前髪を、自らの手でぐしぐしと直しながらアイスグレーの視線が逸らされる。自然と、口角がニヤニヤと持ち上がってしまった。

「何恥ずかしがってんの〜」
「ちょっと、黙ってて……」

 本当に、そういう反応をしている時のバーボンは可愛いとしか言いようがない。確かに美形で、紳士的な物腰は王子様らしいとも呼べるけれど、私は今の年相応らしいバーボンの姿が好きだ。(――まあ、彼が一体いくつかなどは分からないが。せいぜい二十そこそこじゃないかと思う。)

 この後ついでに夕飯でも奢ってもらおうか、彼の手を取ろうとしたとき、ふと彼の立つ場所に違和感を覚えた。何かがあったわけではない。何もなかったのだ。先ほどは、何かを見上げるように立っていたように思うのだが、試しに視線を持ち上げてみても見当たるのはビルやマンションのみだ。

「どうかしましたか?」

 隠すつもりはなかったし、バーボンも私の視線には気づいていただろう。それでも触れてこないのは、彼の触れてほしくないという心の声の形だ。そうは思っていたけれど、気になった。今は何もないが、ついこの間までそこには何かがあったような、そんな気がした。潰れてしまった店の名前が思い出せないような、記憶に靄がかかっている。

「ん? んー……なんだったかな」

 いまいちスッキリせず、じっとその場に留まっていたら、バーボンが腕をぐいっと引いた。どうやらここを通る人がいたらしい。五十代ほどの女性だった。彼女が手に持った質素な花束に、私はようやく「ああ」と声を零した。女性が、チラリと視線だけこちらを一瞥した。

 ――そうだ、思い出した。
 ここに、よくこうして供え物が置かれていたのだった。きっと事故現場か何かだろうと勝手に思い込んでいたけれど。今の様子を見ると、だいぶ撤去されてしまったのだろう。それでもこうして誰かが訪れるあたり、大きな事件だったのだろうか。

 女性もまた、先ほどのバーボンと同じように上を見上げていた。そこには何もない。何もない場所を、悲しそうに見つめている。

「……行きましょう」
「あ、ああ。うん」

 促されて、私もバーボンと共にゆったりと歩みを進めた。
「誰か、知り合い?」
 どうしても気になってしまって、不躾とは思いながら尋ねるとバーボンは「いや」と一度否定した。しかし、すぐに否定した言葉を取り消す。諦めたように、一つため息を零した。
「見られてしまったから、嘘をついても無駄ですね」
 彼はそう肩を竦めて、懐かしそうに後ろを振り返った。
 眩しそうに目を細めると、青空がグレーの瞳に反射する。大きな鏡になったように、今日の爽やかな空模様が目の中に映りこんでいた。しかし彼の瞳には、空ではなく別のものが見えているようだ。

「……ビルが」

 私はぽつりと言葉を零した。バーボンがぴたりと足をとめる。
「ビルが、あったよね。マンションかホテルか忘れちゃったけど」
「……ええ、ある事件で取り壊しになってしまいましたが」
「そうだ。いつだっけ、すっごい人だかりになってた」
 最近の話ではない。少なくとも一年――否、二年以上は前だったように思う。今でもこうして誰かが訪れるほどには被害も大きいものだったのか。それほどの事件ならば、知り合いが巻き込まれていても可笑しくはないかもしれない。

「そっかそっか、なるほどね」

 私の中ではその時点で問題は解決していて、清々しい面持ちで踵を返した。――よくあるだろう。どうしても歌詞のワンフレーズが思い出せずモヤモヤしていて、喉の奥に小骨が突っかかったような。それが解消されて、ひとり何度か頷いて納得したのだ。

 バーボンはそこで引くのか、と拍子抜けしたように歩みを進めた私の後を追った。長い足が少し急いたようにタタっと音を立てる。私はそんな彼をニヤっとしながら振り返った。なんだか可愛がれる犬を拾ったような気持ち――というか。彼は私の表情を見ると呆れたように溜息をついた。

「気になりませんか」

 わざとらしく私にそう尋ねる。口元には、貼り付けたような笑顔が浮かんでいる。そんな強張った笑顔を浮かべるのならば、最初から話題に出さなければ良いのに。

 ――確かに彼のプライベートを探りたいのはある。
 私の一千万円という目標のために、彼の腹を探る必要は大いにあった。過去に死んだ人間に同情心があるわけでもなかったが――ならばどうして今口を挟まなかったのだろう。自分でもよく分からない。釈然としない、ぼんやりとした理由だ。

 けれど、強かな表情を浮かべて見せる、夜とは異なる雰囲気の青年にこれ以上必死になる気力は沸かない。もしこの所為で将来厄介な目にあったとしたら、未来の自分よ、本当にごめん。心から謝っておこう。

 私は彼の一言のためにつけたエクステを耳に掛けて、小さく八重歯を覗かせて笑った。珍しく焦りを表情に浮かべるバーボンは、やっぱり可愛い。


「それ、気にしてほしいってこと?」


 話をごまかすついでに揶揄ってみたら、バーボンは再び呆れながらも小さく目を細めた。どことなく、柔らかな雰囲気だった。風の強い日だった。青い空に浮かんだ雲はその風に、いつもより早く空を流れていく。そのたびに瞳を切り抜いたように、彼の目の中の景色も過ぎていった。

「おなかすいた。バーボン、財布持ってる?」
「普通持って出歩くんですけど」
「私ね〜、久々に洋食が良いな」

 良い店ないかな。その白いシャツを引く。爽やかな風は彼の汗を乾かしていくことだろう。彼はシャツを少しだけ気まずそうに伸ばして、袖のボタンをしっかりと留めた。捲っていたところ以外は皺ひとつないピシっと糊の効いたシャツで、定期的に彼がクリーニングを利用していることがよく分かる。几帳面なバーボンらしいことだ。

「……ふ、ふふ」

 腕を引かれるままにバーボンは小さく笑っていて、私もつられるようにして笑い声を零してしまった。彼がどうして笑っているのかは分からないけれど、綺麗な顔なクセして、その声があまりに少年らしかったのが可笑しかったのだ。