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 ぐぐ、と背中を伸ばして公園のブランコに緩く腰かけた。日が暮れかけの公園には人もまばらで、スマートフォンを弄っているうちにその僅かな人気も消えていく。街灯がカチカチと点滅しながら周囲を照らし始めて、漸くの事時間がだいぶ経ってしまったことに気づいた。溜息をつく。

 あのマンションにベルモットの指示で住み込みはじめ、もうすぐ二か月にもなろうとしていた。まあもともと情報屋などではないし、情報が手に入らないのは当たり前なのだが。今日はベルモットへ経過報告の義務があった。三人にそのことを聞かれるのは気まずいので、こうして人気のない場所を訪れたわけだ。
 今朝がた口座から引き落とした三十万円は、百貨店の店員を装ってキャッシュカードに異常がないか調べると言い偽物を引き渡し、銀行からキャッシュしたもの。監視カメラには映っているだろうと思うので、エクステは外してしまった。以前スコッチに切り揃えてもらった毛先は少しだけ伸びて、私の輪郭を擽っている。

 暫くするとコール音があたりに響く。私はわざと数コール待ってからその電話をとった。もしかしたらこの様子さえ見られているかもしれないが、念を押して、である。あくまでベルモットと話す時には、こちらが優位に立つようでなければならない。実際に会った例の情報屋はプライドが高く、自分の仕事に対して自信を持っていた。それこそベルモットやバーボンに金にがめついと言われるほど仕事を選んでいるのだろう。

 だからこそ、渋々コールに応えたように見せかけるために間を置いた。気だるげに電話に出ると、ベルモットは向こう側でクスクスと笑っていた。

『Hi,調子はどう?』
「どうもこうも、ずいぶん可愛い同業者をありがとう」
『中々楽しんでるみたいじゃない。噂は聞いてるわよ』

 可笑しそうに私を揶揄う口調に、私はブランコを小さく漕ぎながら笑みを浮かべた。彼女には一つカマをかけなければいけないことがある。私はなるべくゆったりと、既に調べはついているのだという優越感を持った声色で含み笑いを零す。

「楽しんでる? 馬鹿言わないでよ。あんなモグラの巣窟に落とし込んでおいて……」
『あら――、案外早かったのね』
「で? これでテストは合格?」

 ぎぃ、とブランコの錆びた鎖が軋んだ音を立てる。ベルモットは「そうねえ」と勿体ぶったように頷いた。これを機に、ヒントの一つや二つ教えて貰えたら万々歳だ。息を呑んでその先の言葉を待っていると、彼女は悩ましそうに続けた。

『確かに、貴方の見張りに彼らを付けたのは、彼らをノックとして疑っている節がある所為――。そして、ノックでないという確証があるのならこの先利用しやすい優秀な腕があるからよ』
「なるほど。裏切り者も分かって、優秀な部下も手に入る。一石二鳥ってわけ」
『もちろん、一番の目的は組織内のお掃除よ。高い依頼金を払っているんだから、よろしくね』

 高い、の言葉をやけに強調するベルモットに、僅かに心が躍った。
 ――そうだ、この仕事が終われば一千万円。一千万円が手に入る!


 幼いころからの憧れだった。
 生まれつき貧しい生まれだった。殴られたり蹴られていたわけではないが、親は当然のように傍にはいなくて、唯一の身寄りは姉だった。大して面倒を見られていたわけでもないが、死なない程度には世話をしてくれていた。狭苦しいアパートの一室で、自分の体よりずっと小さなパンツとシャツだけで過ごした夏を覚えている。
 戸籍もなかったから学校には行かなかった。
 勉強なんて興味もなくて、別に羨ましいとも思わなかったが、通学路を歩く子どもたちの笑い声だけが響いていた。

 惨めだった。
 どうして自分がそうなのだ。私は食べる物一つに困っている中、彼女たちはランドセルを背負って今日のおやつの話に花を咲かせていた。惨めだ。畜生、畜生――! その憤りを忘れたことはない。

『この世を回すのは、知恵と金なのさ』

 姉の言葉が頭を過る。その時に、私の中に一つの生きる道が見えたのだ。
 私がこんなに惨めなのは、金がないからだ。馬鹿だからだ。知恵さえあれば、金さえあれば、私もあっち側でいられるはずなのだ。

 単純な話だ。あっちとこっちの世界、誰が見たってどちらにいたいかなんて一目瞭然だったろう。私も、あちら側にいたかった。日々の暮らしを危ぶまれることなく、ただ能天気におやつの心配でもしていたかっただけなのだ。

 
「……」

 
 そのために、例え罪のない誰かを踏み台にしても構わない。善で飯は食えない。その通りである、姉が正しいのだ。私はベルモットからの通話を静かに切ろうとした。その時である。

 ぽん、と肩に手を遣られて、私は思わず携帯を取り落とした。幸いベルモットは既に通話を切っていたようだったが、ツーツーと虚しい電子音が辺りを満たす。慌てて振り返れば、彼は呆れたように携帯を拾い上げた。番号は非通知であったが、私の慌て様からある程度の察しはついていたかもしれない。

「スコッチ……」
「こんな暗い場所で、どうしたんだ」

 彼は静かに笑うと、隣のブランコに腰かける。ギッ、金具が嫌な音を立てた。公園の入口には、じきに遊具を立て直す工事の報せが張り出されていた。年季が入っているのだと思う。ただ、錆びついた音は私の心の音にも似ていたような気がする。

 暗い場所で――なんて白々しいことだ。

 こんな場所に訪れるなんて、きっと私の居場所が分かっていたに違いない。相変わらず食えない男である。ただ、それを言及するのも格好がつかないような気がして、私は一度鼻を鳴らしただけだった。

 すると、意外にも彼は慌てて首を振った。苦笑いを浮かべて、その人差し指を上に向ける。はら、と枯れた葉が足元へ落ちた。大きな木だとは思ったが、「それが?」と彼の方を見直せば、スコッチはブランコを軽く揺らしながら笑う。

「好きなんだ、桜の木」

 ――彼は、低く穏やかな声色で言った。
 それは決して嘘には聞こえなかったけれど、それはそれで気味が悪いと思った。人を殺す男が花を愛でるのか――。そうも思ったが、よく考えれば私も人を騙しておいて動物は好きだ。
「そんなもんかな」
 木を見上げる。緑が過ぎた桜の木は、今はただ色づき葉を散らすだけだ。彼が言わなければ桜の木だということにすら気が付かなかったかもしれない。

「でっかいだろ」
「まあね……」
「桜の木の寿命って、人間と同じくらいなんだよ。大体七十とか、ご長寿なら百とか。そう思うと他人事って思えなくてさ」

 それについては共感できなかった。
 木は木だ。人ではない。命はあるとしても、感情も知能も存在しない。案外メルメンチックな男なのかと考えていたら、スコッチはぼんやりと空を見上げていた。その表情が、昨日のバーボンの顔と重なった。


「ちっぽけなモンだ。どんな年でも、どんな春でも、桜は毎年葉をつけて、散って、つぼみを膨らませて咲くんだ。金だとか、人だとか……執着してる自分が馬鹿らしく思えて、ボーっとできるのが好きなんだ」


 まるで幼い子供に物語でも聞かせるような穏やかな口調だった。いや、まあ、物語なんて聞かせてもらったことはないのだけど。だからこそ、ちょっとだけ恥ずかしかった。まるで自分が子ども扱いされている気分だ。

 けれど、彼の話すことは新鮮で、嫌味な感じはなかった。私も試しに桜を見上げてみる。スコッチが見上げていたように穏やかな気持ちにはなれなかったが、葉が一枚一枚と落ちてくる空を見ていると、ぼうっとできる気持ちは分かるような気がした。

「さ、帰るか」

 彼はひょいっとブランコから降りると、私のほうに大きな手を差し出す。いつもだったらピョイっと飛びつくのに、それは本当に子どもになったみたいで、おずおずと乾燥した手のひらに自らのものを重ねた。