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 マンションの部屋に戻っても、誰かがいるわけではなかった。スコッチが先に鍵を開けて、部屋の灯りを点ける。基本的に三人の中で二人以上が揃うことは稀だったので可笑しくはないが、スコッチといるこの空間に僅かな気まずさを感じていた今、ライでもいてくれれば雰囲気をぶち壊してもらえるのにと悔やんだ。

 帰りがけに買ってきた軽食をテーブルに広げてソファに座る。今日の彼がここまで穏やかそうなのは、何故だろう。裏があるのだろうか。やっぱりベルモットとの会話を聞かれていたとか――もしかしたら、スコッチ自身が疑われていることに気が付いたのかもしれない。
 
「……なんか、警戒してる?」

 彼はソファの上で両膝を抱えて笑った。それはスコッチの癖なのだと思う。いつもそうだ。――リビングにソファは一つしかないので、大抵は誰かが使っているのだが、ライは殆ど寝転んでいる。バーボンは行儀の良い男だ、使うにしてもきっちりと座るし、浅く腰かけることが多い。スコッチは、こうしてよくソファの上に足をのせて三角座りをしている。親指が、よく寒そうにもぞもぞと動いているのを見掛けた。

 スコッチに缶チューハイを手渡して、別にと肩を竦めた。
 いくら彼が格好良くたって好みであったって、一千万円には代えられない。今一度深く心に刻み、何とか自分の思考を取り戻す。

「ミチルさんも飲んだら」
「ん……いや、良いや。お腹空いてるから酔っぱらっちゃいそう」
「気にしなくて良いのに。オレもだ」

 まだ冷えている缶を軽く揺らし、彼はそれを呷った。私は苦く笑う。
「酔っ払って成功した覚えないもん」
 言えば、彼は意外そうに頷いた。どうしてそんな意外そうなのかと尋ねると、彼は数秒悩んだ。

「イメージの中のミチルさんって、しっかりした感じだったから。裏の世界でも一匹狼でずっとやってるし、誰にも正体なんて明かさないし……警戒心が強い印象があってさ」
「噂は噂でしょ。そりゃ、お酒に頼りたくなる時だってあるよ」
「分かるよ。だから、ほら」

 彼は私の空のままの手を指さした。結局飲み仲間が欲しかっただけか、口が上手いことだ。呆れながらも、その誘いを断ることは無粋な気がして私は缶ハイをもう一本取り出した。スコッチが買ったものなので、味は好みじゃないが。無邪気にも缶をこちらに寄せてきた男に、手に取ったそれをぶつけた。

 かつん、と汗を掻いた缶が涼やかな音を鳴らしていく。
 彼はもう公園ではないというのに、どこかぼんやりとした雰囲気で喉をゴクゴクと鳴らしていた。テレビはついていないが、その消えたテレビに映る自分を眺めるような視線だ。

「……最近仕事でなんかあったの」
「仕事? どうして」
「この間バーボンもボーっとしてたから。変なのって思ってさ」
「バーボンが?」

 スコッチは食い気味に聞き返す。恐らく例の事件云々が原因だとは思うけれど――ただ、ここでスコッチに言うのは余計な世話だろうか。言葉を濁して「まあ」と頷いたら、スコッチもハっとして声色に冷静さを取り戻した。

「悪い、珍しいと思ったんだ。アイツ、いつも澄ましてる感じだから」
「確かにね」

 レモン風味のチューハイを一口、それから広げられたポテトに手を伸ばした。程よい塩味を味わって、軽く指先を紙ナプキンで拭う。もぐもぐと咀嚼している間に、バーボンの姿が過った。そうしたら、自然と口角がゆるく持ち上がってしまう。彼の小麦の頬が赤く染まるのを思い出してしまった所為だった。

 そんな私の頬に視線が刺さった。振り返れば、スコッチの切れ長の目つきがこちらをジィと見つめている。何か冷たいものが頬に触れたと思って肩を揺らした。すっと口元をなぞるそれが彼の指先だと判断するまで、数秒の時間を要した。

 視線は鋭く、しかし寂しそうな色を浮かばせている。
 どうしてそんな表情をするのか分からない。分からないから、読めないからドキドキとしてしまう。乾燥して、少しばかり皮膚にひっかかる親指の皮。涙袋などまったくないすっきりとした眼差しがゆっくり細められる。
 それは決して情熱を孕んだものではなくて、警戒しているのか――でも何故だか瞳は揺れているような。

「笑ってる」

 ぽつりと、スコッチが零す。私の表情を見ているのだと気づく。不思議そうに小さく首を傾いだ姿は、警戒する物を観察する猫の姿に重なった。

「やっぱり、アイツのことが好きなの」
「だから、違うって……。可愛い人だとは思うけど」
「へえ」

 前も同じようなことを聞いてきたなと思い出した。言葉だけ聞けば嫉妬のようにも思える。もしかしたら私のことが気になってるんじゃないか、そんな風に。
 
 ――そうだったら良かった。彼が私を好いていて、バーボンへ嫉妬心を抱いていたのなら。そうだったら、私は彼の心を利用して、とことんつけ込んで裏切り者に仕立ててやったろうと思うのだ。

 だけど、違う。肌は冷え切っているし、瞳孔はキュっと小さく縮んだままだ。好きであったり性的興奮を覚えている人間の行動ではなかった。瞬きが多く、口の動きも乏しい。私に感情を見せまいと警戒しているからだ。

 なら、逆か。以前ロミオトラップと話題に出したことがあったけれど、私を利用しようとしているのか――。それにしては、あまりに距離の縮め方が急だ。

 ――何を考えているの。どうして触れるの。

 分からない。それが私の心を大きく揺さぶった。駄目だ、このまま落ちてしまったら、私はずっと負け組のままだ。こっち側にはいたくない、あっち側の世界に行きたい! だから急に子ども相手みたいに優しくしたりしないでくれ。ヒントも与えないまま態度を変えないで。

「……ミチルさんさ、頭が良いよね」

 唐突に、スコッチはそう零して笑った。私が何も返せないでいると、彼はそのまま言葉を続ける。
「今も必死にオレの表情を読み取ろうってしてるの、分かるよ」
「……それは、スコッチも一緒じゃない?」
「まあね。でも、表に出回っているものなんて嘘ばっかりだ」
 ぱちぱちと、その目が瞬く。バーボンのびっしりと濃い睫毛の縁取りとも、ライの真っすぐと長い睫毛の影とも違う。一本一本が細くて、密度はまばらで、けれどその睫毛が落とす影が彼の感情を隠そうとしているように見えた。

「もったいない」

 私の頬を、彼の手が緩く抓る。
「それなのに騙されるのって、なんでだと思う」
「騙されたなんて言ってない」
「ムキになった。当たりだろ」
 恐らく酒で失敗したということを掘り返しているのだと思うが、筒抜けみたいで嫌になった。ニヤリと笑ったら、その目つきや薄い唇も相まって人を誑かす狐みたいだ。さっきまで猫のようだと思っていたのは、今すぐに撤回しよう。


「君はさ、嘘を見抜く技術はあるのに、自分の事が分かってないんだ」


 彼は珍しく冷たい声色でそう言い放った。
 普段はいっそおぞましいほどに穏やかで、殊更女子どもに冷たくできない性格なのを見ていた。どこか嘲るような笑顔は私の感情を昂らせる。唇を小さく震わせて、噛みついた。

「何を知ってるって言うの」

 他の人間に言われたら安い挑発だと受け流す言葉が、無視できなかった。先ほどまでさんざん心を揺さぶられた所為かもしれない。そこまでスコッチの手の内であったなら、見事なものだ。

 その大きな手をバチっと音が鳴るほど勢いよく振り払って、歯を剥き出した。


「何を知ってるって言うの!!」


 まったく同じ言葉を、先ほどより声を荒げて繰り返す。スコッチは笑顔を引っ込めることはなかった。
「その言葉のままだろ。自分のことが分からずに、人のことだけ理解できやしないよ」
「……ッ」
 なんなの――なんなのこの男は!!
 さっき公園で手を引いてくれた、あの青年は一体どこへ消えたというのだ。私は困惑やら苛立ちやら憤りやらで、鼻息を荒くして立ち上がった。怒りのままにサンダルを引っ掻けて玄関を出ると、丁度帰宅時だったのだろう、バーボンが驚いたようにそこに立っていた。

 今の表情を他の誰にも見られたくなくて、私は何も言わず、ツイっと顔を逸らし横を通り過ぎた。