どうしてあんなことをしてしまったのだろう。
今になって思い返せば、とんだ失態だ。少し離れたネットカフェで、収まりの悪い椅子をリクライニングさせながら顔を歪めた。スコッチに感情を荒げてしまったこともそうだが、バーボンにも見られてしまったこと、そして最も都合が悪いのは、ベルモットがカメラ越しにそれを知る可能性があることだ。
「あ〜…………」
やっちゃったなあ。そんな怒ることでもなかったのに。
後悔に背もたれを軋ませながら、蹲るように体を横に向けた。馬鹿だ。今から帰ってスコッチに誤魔化しが効くだろうか。
「……無理だよね」
――自分のことが分からずに、人のことだけ理解できやしないよ。
まるで自分は分かっているとでも言いたげだ。今までも得体が知れないような感じがしていたけれど、今日の彼は様子が可笑しかった。普段より急に穏やかであったり、急に冷たかったり。もしかしたら私以外の何かがあって、八つ当たりに近いものだったとか。
はあ、と溜息を零した。無理矢理に目を閉じて、眠りにつく。
その日は久々に幼いころの夢を見た。あんなことがあった所為だろうか。
近所に捨てられた漫画雑誌を拾って、河原で寝転んでいた記憶だ。印象深く覚えている。私が、初めて人に騙された日だった。それまで何かとずる賢く生きてきたというのに、それを利用されて、まんまと自分の稼いだ金を人に渡してしまった。十を少し過ぎた頃だっただろうか。
その悔しさだとか、虚しさだとかをごまかすように漫画を読んでいた。漫画はところどころ雨のしみで滲んでいて、気になる漫画の見せゴマが読めなかったことに少しばかり腹を立てていた。
――嘘だ。
本当は、騙された自分に腹が立った。
けれど認めてしまったら惨めな気がして、ひたすらそれを隠すように雑誌で顔を隠していたのだ。鼻をすすったらバレてしまうから――こんな人気のない場所で、誰がという話だが――涙も鼻も垂れっぱなしだった。
自分はまだ馬鹿なのだ。まだまだ足りない。もっと、もっと強くならないと。誰かに搾取されないように。
「……大丈夫?」
そう声を掛けてきたのは誰だったか。
声で判断する限り、少年らしい気はする。顔がひどい有様になっていたから、雑誌を顔から離さないままに私はあしらうように言い捨てた。
「放っておいて。今良いとこだから」
「さっきからページ進んでないよ」
「……」
沈黙を貫いた私に、誰か分からない少年が傍らに腰かけた気配がした。ランドセルを背負っているのだろうか、腰かけるとガチャっと金具が擦れる音がする。その音を聞いて、内心がっかりした。
こんな暗い時間に、こんな場所で年端もいかない少年がいることに、どこか期待していた。無意識だったけれど、もしかしたら自分と同じような境遇かもしれないと。だからその音を聞いて、結局あっち側の人間なのだと諦めたのだと思う。
けれど、日が沈んでも、開けた空を蝙蝠が飛び交うような時間になっても、彼は離れていかなかった。涙や鼻水は拭うことのできないままかぴかぴに乾いてしまって、私はおずおずと雑誌を離す。暗くなったから、街灯もないこのあたりでは向こうからも見えづらいとタカを括った。
数時間ぶりに見た空は影っていた。当たり前だ。都会の片隅だったので、いくら街灯がないとは言え満点の星空というわけでもなく。雲が月すらも隠していて、くすんだ空模様だった。遠くに見える街の灯りと、それが水面に跳ね返る光だけが周囲を僅かに照らしている。
少年の方を一瞥したけれど、確かにそこに小さな黒い人影が座っている――ということしか判別できない。髪色も肌も、顔だちも、何もわからなかった。彼は私の視線に気づいたのか「起きたの?」と笑いながら尋ねた。
それから他愛もない話をした。
どこの学校かと聞かれたから、行っていないと答えた。少年はその話を聞くとひどく吃驚した様子で、けれどそのあとハァと長い溜息をつき「良いな」と私を羨んだ。
わけがわからなかった。
人を羨んだり妬みはすれど、羨まれたことは人生で一度もなかったのだ。食うものもまちまちで、金もなくて、人に騙されるような馬鹿で。一体どこが良いのかと、純粋に疑問であった。
「僕はね、学校でいじめられてるんだ」
「いじめ……?」
「うん、気持ち悪い奴ってよく言われる。でも学校に行かないと、家の迷惑になっちゃうから……学校には行かないと」
表情は窺えなかったけれど、声色は笑っているように思えた。空元気とでも言えば良いのか、とてもじゃないが嬉しそうな笑い声とは異なった。
「君は良いな。あんな時間から河原で漫画読めるんだろ?」
「……拾った漫画だよ」
「でも最新号だ。僕も漫画が読みたい。買ってもらうのも申し訳ないし、拾い読みなんてしたらすぐチクられる」
「でも、食べ物も、着る物も……全部自分でやらなきゃいけないもん」
そんなぬくぬく育っておいて、よくもまあ。返した言葉は皮肉のつもりだった。けれど、少年は私の言葉を聞くと一層声色を輝かせた。「良いな」という羨みが、「すごい」という尊敬に変わる。
「君は強い人だ。すごいなあ」
厚い雲から、星が一つ瞬いたのが見えた気がした。もちろん、そんなわけはない。私が勝手にそう感じただけだ。彼は大きく伸びをして空を見上げると立ち上がった。
「もう行くの?」
勝手に言葉が零れ落ちた。チカチカと目の前が光ったような気がして、心臓が五月蠅く鳴る。そんな気持ちは初めてだった。顔が熱くなるのを堪えられないまま、私は彼を見上げた。
「うん。こんなに遅くなったら怒られるから」
笑うと、彼は私の手に何かを握らせた。私より少しだけ大きな手。手に取ったそれは、紙製の何かだろうか。柔らかい。ここでは何も見えないままだ。
「女の子だろ? こういうの、好きだと思って」
「……見えないよ」
「あ、そっか。ごめん」
――じゃあ、明るくなったら覗いて。
少年はそう言うと、中身も大して入っていないだろうランドセルを鳴らして踵を返した。その時にようやく、彼の足音がしないことに気づいた。いじめられているって、言ってたなあ。もしかしたら暗くなるまで時間をつぶしたのは、そういうことなんだろうか。
まだ五月蠅い胸の鼓動を押さえ込みながら、手のひらに丸め込まれたそれを見る。朝になれば分かるかな。朝になれば――。その日は大事にそれを持って帰って、蹲って眠った。どうしてか、朝明けるまで、手のひらの中身を見ることはしなかった。そうしないと、手からぽろっと逃げ落ちてしまいそうな気がしたのだ。
―――
――
―
「……朝?」
私は薄く目を開ける。ずいぶん長いこと眠っていたような気がした。スマートフォンを見ると、まだ午前四時前だ。朝といえば朝だが、どうりで少し肌寒いわけである。
懐かしい夢を見た。
今の私からすれば、そんなこともあったなあ、というくらいだ。あの時もらった物は、果たしてどうしたんだったっけか。後日少年を再び会うこともなくて、ただ、そのもらった何かは大切なものだったような気がする。当時の私にとっては初めて人から、無償の好意として受け取った物だったからだ。
大人になるに連れ、持ち歩かなくはなったけれど、子どもの時はそれこそ肌身離さず持っていた。誰かに大切にされているような、そんな――くだらない気持ちになったから。
「馬鹿みたい」
結局、そうやって思い込んだ末の結婚詐欺である。
人を無償で信じるなんてとんでもない。私に今必要なのは、お金を稼ぐこと。自分の身を守ること。利用できる人間は利用すること。
――自分の事が分かってないんだ。
「……分かってるよ」
分かっているよ、そんなこと。
人に同情したことなんかない。誰かに情けをかけてやったことだってない。一人で生きてきたのに、そのたった一人――自分のことだけは、どうしてこんなにもままならないのか。
いっそ自分の感情や知恵を金で買えるのであれば、そんなに安い買い物はないのにと、氷が溶け切った水のようなアイスコーヒーを啜りながら思うのだ。