23


 軋む背中を伸ばしながらネットカフェを出た。身分証なんてあってないようなものだが、律儀に代金は支払った。本当は隣で寝ている男のいびきが酷かったから擦ってやろうと思ったが、それすら億劫に感じただけだ。電子マネーで(口座は組織のものだが)支払いを済ませて店を出る。早朝の町並みは、なんだか妙な空気をしていた。私が出歩くのは昼間か夜だったから、慣れないほど冷たい外気に小さく身が震える。

 午前四時半。
 店もまだコンビニくらいしか開いておらず、道行く人もまばらだ。始発は動いていないから、恐らく昨晩から飲み明かした人であったり、夜職の帰りであったりするのだろう。ずいぶんと都心の風景なのに、ジオラマみたいに見える。

 ふと背後を振り返った。何気なく、先日降谷がこのあたりで立ち竦んでいたのを思い出す。背後を見上げればこれでもかというほど澄んだ青空があって、本当にそんな場所にビルなぞあったかと疑問に思うほどだった。彼は本当に、ここから今はないビルを見上げていたのだろうか。調べれば分かることかもしれない。
 周囲に人気もなくて、マンションに帰る気も進まなかったから、私はしばらくそこに立ち竦んでいた。

「おい」

 立ち竦んだ私に、煙たい空気を吐き出した男がいた。私は怪訝に振り返る。最初はナンパかと思ったのだが、真っ黒なオーバーサイズのTシャツにスウェットパンツ、スニーカーサンダルを履きつぶした男は不機嫌そうに私を見下げていた。先ほどまで煙草を吸っていたのだろう、残り香が鼻を擽る。

 私は「何」と一言聞き返した。別に喧嘩を売る気はなかったのだが、冷えた空気で閉じた喉から零れたのは低く掠れた声だった。男は眉を吊り上げて「アァ?」と威嚇するように唸る。

「邪魔なんだよ、そこ。道の真ん中で突っ立ってんな」
「……誰もいなかったから。別に良いでしょ」

 なんだ、このチンピラ。最初は黒い服装に警戒したけれど、恐らく組織の人間とは違う気がする。顔だちは悪くないが、どうにもミステリアスさの欠片もない冴えない男である。普段から美形ばかり見慣れている所為だろうか。後で金の一桁でもぶんだくってやろうか。

 そう考えながら顔を逸らす。行く当ては決まっていなかったけれど、喧嘩をして大事になっても困るのは私だ。彼の傍らを通り抜けようとしたら、手が何かにぶつかった。小さな舌打ちが響く。
 思わず彼を振り返ってしまって、その落ちたものを目で追った。


「……花?」


 このチンピラが、花。それも、一輪ではなく小さな花束だ。腹の内で可笑しく思いながら、彼が再び睨みを効かせてくる前に足早にその場を立ち去った。今日の青空によく似た、珍しい青い花束だった。

「変なの」

 振り返った時の、少しばかり猫背な歩き方は、やっぱりどう見たってチンピラそのものだったけれど。もしかしたらバーボンと同じように、彼もまたあの事故の被害者であるのかもしれないと思った。まあ、良いや。そんなことを気にしていたって、一銭の得にもならないのだから。


 さて、この後どうしようか。どうにもこうにも、とりあえずお腹が空いた。気が滅入るのはきっとその所為だ。お腹を擦りながら、コンビニの棚の陳列を見て、また街を歩いてを繰り返して一時間ほど。ようやくのこと街は眠りから目覚め始めて、人影も増えてきた。スーツを纏ったサラリーマンたちがこちらを鬱陶しそうに見ている。
 規則正しいサラリーマンから見れば、私は飲んだくれて朝帰りしているだらしない若者に見えるのだろう。(案外、トンチキなことを言っているわけでもないか。)


「――ッミチルさん!」


 その視線から逃れるように踵を返したところで、腕をグっと掴まれた。私は驚きのあまり体勢を後ろに崩してしまって、手を引いた人物はそんな私の体を軽く受け止めた。触れた手首から、ジンジンと熱い熱が伝わってきて、そこから火傷してしまいそうだと――くだらないことを思った。

 振り返れば、焦りを含んだ瞳が揺らいで、それからホ、と息をついた。驚きのあまり声を失う私に、彼はもう一度名前を呼んだ。ド、ド、と嘘ではない鼓動が、触れた彼の胸から聞こえてくる。

「……なんでそんな焦ってるの」

 口から零れた疑問に、彼は髪を掻き上げた。
 ――「バーボン」。一言名前を呼べば、彼は一度口を噤んだ。まさか、昨晩から追いかけてきたというのか。訝し気に見上げた髪はサラっと揺れて、日を透かす。朝の陽がずいぶんと眩く、私は目を細めてしまった。

「なんで……」

 バーボンは戸惑ったように、私の言葉を反復した。それからちょっとだけ視線を泳がせて、頬を僅かに染め、誤魔化すような咳払い。とてもじゃないが、ポーカーフェイスの欠片も見当たらない。瞳の奥にある瞳孔を、僅かに広げたのはこの距離でよく窺えた。


「死んでしまったかと、思って……」


 予想していなかった一言に、私は「へ」と言葉を零してしまった。間抜けな声色だったと思う。こんなメロドラマも驚きのシチュエーションだのに、吐き出された言葉はそれか。なんというか、そこでドラマチックな言葉が出てこないのは案外彼らしいというか――それとも意外というか、ハッキリとは判断しづらいところである。

「死んだ? 私が」

 自分でも、声が揺れたのが分かった。笑いを堪えた所為だ。
 彼は私を見つめて、至極真面目に「帰ってこなかったから」と返した。いやいや、そこは、何があったんですかとか、そういうセリフを吐く場面では。でも、そんな彼の真面目くさった一言に靄が掛かった心はパっと晴れた気がした。形の良い吊眉が不思議そうに歪んだ。

「ふふっ、あは、あーっはっは!!」

 私はついつい堪えられないままにゲラゲラと笑い転げてしまった。思い切り笑ったのに反り繰り返らなかったのは、バーボンが背を支えていてくれたからだと思う。彼はしばらく怪訝そうに黙っていたけれど、私の顔を見て小さく微笑んだ。

 笑っていたら、彼のシャツのボタンにピアスが引っかかって、後ろにツンっと引っ張られた。バーボンは慌てることなく、それを丁寧に直してから私の肩を掴み、そっと体から離す。



 それから小腹が空いたと、朝から開いているレトロな喫茶店に入った。店の中は出勤前の人だかりで、私たちの座席だけゆったりと時が流れているのは変な気分だ。
 バーボンは、昨晩のことに一度も足を突っ込もうとはしなかった。
 既にスコッチから聞いたのか、そもそも興味がないのか、優しさであるのかは分からない。バーボンなら、どれでもあり得そうなものだとは思う。

「へえ、ネットカフェですか」
「何その新鮮な反応。行ったことないの?」
「信用できないサーバーはあまり。誰かに利用させることはありますが……」
「正解かも。バーボン目立つから、多分ネカフェの店員でも覚えれちゃうだろうし」

 ライも然りだが、彼らがただのアルバイターやらでネットカフェを利用しているとは思いづらいし、堅気じゃなさそうな人間には店側のチェックも厳しい。仕事柄、架空のネットバンクをよく利用するので、私は常連客である。(もちろん、系列も店舗も変えるけれど。)

「なんか、意外だな〜」
「意外ですか?」
「クラブ行ったことなかったり、女と遊び慣れてなかったり、ネカフェ初心者だったり……。もしかしてバーボンって、品行方正青年だったりすんの?」

 笑いながら指折り数えたら、バーボンは片目だけをぱちっと開けてこちらを見上げた。そしてフっと笑いながら「君は不良少女のようですが」と肩を竦める。少女って歳ではないのだけれど、なんて彼を真似て肩を竦めて見せたら、バーボンは店員が運んできたコーヒーに角砂糖を一つ落とした。


「さあね。ただ……自由そうな君を羨みはします」
「自由? こんな監視されておいて……」
「現状ではなくて、生き方かな。きっと、強い人なんでしょうね」

 カップに形の良い上唇を乗せて、彼は微笑んだ。私には、彼やスコッチや、ライたちのほうが、よほど伸び伸びと美しく見えた。