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 玄関を潜ると、リビングの灯りが零れていて身構えた。
 あれからマンションには帰宅するようになったものの、スコッチを見掛けることはなくなった。それは果たして偶然であるのか故意であるのかは私には判別できない。後ろ手にチェーンを掛けて、恐る恐る玄関の電気を点けると、乱雑に脱ぎ捨てられた大きな革靴が並んでいる。ホ、とついつい安堵の息を零してしまった。この脱ぎ方に、サイズ――まぎれもなくライのものだ。


 以前あんなふうに飛び出てしまったものだから、どんな顔をして良いのか分からない。いや、本当は分かっている。正解は、何事もなかったようにヘラっと笑って誤魔化すことだ。だけれど、それができるか分からない。表情を保てる自信がなかった。

 こんなことでは、詐欺師失格である。
 そんなこと、以前スコッチ相手に怒鳴り上げた時にだって分かっていた。分かっていてもそうなってしまったのだから、今度だってどうなるか分からないじゃないか。

 私は溜息を重たく零して、伸びてきた前髪を掻き上げながらリビングへ向かった。ちょうど仕切りを開けた時、私の欠伸と部屋にいた誰かの声が重なって、ついつい「ハァ?」なんて不機嫌な声が上がる。

「んん……」

 明らかにライの声ではなかった。
 彼のハスキーな声色とは違う、女の声が部屋を満たす。まさかとは思うが女を連れ込んだのか――否、百歩譲って女を連れ込んだのは良いとしても、主寝室を占領しているくせにどうしてリビングを使う。明らかにモラルがなっていない。(私がモラルとか、ちゃんちゃら可笑しいか――)

 私のリビングだ、返せ(ちなみに私のものではない)、そう声をあげたくてズカズカとリビングの奥に進もうとしたとき、首根っこをグっと掴まれる感触があった。ぎゃっ! 驚きのあまり体を跳ねさせたら、私をぷらんと掴んだらしい大きな手の持ち主が「よお」と声を掛ける。
 聞き馴染んだハスキーな声、それが鼻を擽ってすぐ、彼の癖のある煙草の香りがした。

「ライ! 彼女連れ込むなら自室にしてよね」
「彼女じゃない」
「セフレでも同様なんだけど」
「だから、違う……」

 ライは説明することも面倒なようで、咥え煙草をしたままの不明瞭な発音で「帰ってくるなら言えよ」と呆れていた。とんでもない言いがかりだ。四人の部屋であるし、何だったら他に住む場所のない私の部屋である。そうと断言しても過言ではない。

 ライは私をゆっくりと地面に下ろすと、キッチンに置かれていた灰皿に煙草の頭をにじりつけ、最後の煙を長く細く燻らせた。

「疲れただの酒持ってこいだの、ダダこねて今ようやく寝たんだ。静かにしてくれないか」
「そんな、子どもじゃないんだから……」

 子どもではない。ソファに寝転んでいるらしいシルエットは、どう見たって成人女性のものだった。私が言えば、ライは肩を軽く竦めて「似たようなモンだ」と言った。その頬が僅かに赤いのは、何かでぶたれた痕だろうか。

「ソイツ酒癖が悪いんだ、頼むから起こすな」
「ふうん……」

 結局その人影が誰なのかは分からなかったが、ライの知り合いということだけは確からしい。本当に彼女じゃないんだろうか、先ほどは女を連れ込んだのではという疑惑にむかっ腹が立っていて気にならなかったけれど、よくよく思えばライの女だなんて興味が湧く。とんでもない美人? それとも物好き? 吸いつくされた吸い殻たちをゴミ箱に片付けにいく背中を見遣ってから、そろそろとソファへ近づいた。

 フローリングなので裸足だと、僅かにペタっと張り付くような音がする。
 その足音を聞いてなのか――それとも、タイミングが悪かったのか、ソファに寝転んだ女は僅かに唸った。確かに女の声だとは分かったが、酒で喉が焼けているのか、ほんの少しハスキーさが目立つ。


「……わぁ」


 彼女の姿を視線に捉えた時、感嘆に声が漏れてしまった。声は出すまいと思っていたので、完全に無意識だ。私がそう零した声と共に、ぐいっとソファに引き寄せられた。胸倉が掴まれていると気づくまで、暫く間があった。ジャキ、重たい銃器が持ち上げられる音と共に、拳銃などは比にならない厳つい銃口が私のこめかみに当たる。セーフティを外せていないのは、ライの言う通り彼女が酔っ払っているからだろうか。

「――誰?」
「おい……、ったく」

 女の気の強そうな、綺麗に整えられた眉が歪んでいる。ライはその音を聞きつけたのだろう、灰皿を片手に彼女の後頭部を軽くはたいた。ゴンっと鈍い音が響く。「ライ!!」、さすがの私も目の前で殺人現場は見たくない。彼を呼び咎めると、後頭部を擦りながら女がギっとライのほうを振り返る。

「何すんだい、ヤリチン野郎!」
「ギャアギャア騒ぐな、頭に響く」

 目を引くほどのオレンジ色が揺れる。私からしたら橙だけれど、海外では赤毛――というのだろうか。田舎のアンニュイな少女の色というか、太い髪質が蛍光灯の光には少しだけ黄ばんで見えた。
 彼女はその三白眼を瞬き、ようやく私の存在を認識したようだ。自らの手に持った銃器を見て、「アンタ、敵?」と尋ねてきた。それは私に聞くことか――。そう思ったが、ひとまず首を横に振っておく。

 ぱっとその細い指先が離れて、容姿を確認し――すぐに分かった。
 私は太いレザー調のチョーカーやラバーの手袋、そして最後に左目に描かれた蝶のタトゥーを捉え、思い当たる名前を口走った。

「……キャンティ?」

 尋ねると、彼女は事も無げに欠伸しながら「ああ」と応える。
 酒が入っているせいで、白い肌は僅かに朱色に染まっていた。今はぼやっとした視線だが、普段はもう少し明瞭なのだろうか。瞳は小さいが、見つめればアイスブルーが埋め込まれた宝石のようにキラっと光る。


「か、かわいい〜〜っ!」


 私は彼女の顔にズイっと自らの鼻先を近づけた。服装の趣味が合うとは思っていたが、まさか本人もこんなに綺麗な人だとは思わなかった。ライが顔を歪ませながら「嘘だろ」とぼやいているのを、キャンティはブラックカラーのネイルが煌めく足先で蹴りつけた。

 確かに、絶世の美女かと問われれば否である。
 決して整いつくした美人というわけじゃないが、表情をよく見せる髪形も、吊った眉に逆らうような大きく垂れた目つきも、それから美しいデコルテに、長い手足も。洋画にでも出てきそうな、独特の雰囲気がある。暗い色のリップは凛々しいものの、酒を飲んだ後だからか掠れ取れた口紅の下には日本人のそれよりややコーラル寄りの唇が覗いている。それもまた美しく可愛らしい。

「ミチルです、この間は服選んでくれてありがとう」
「ああ……成程。駆除員ってのはアンタか」

 そして私の姿を上から下まで見つめなおすと、その可愛らしい唇に得意そうな笑みを乗っけた。

「そのスタイルなら、もう少しサイズが小さくても良かったかもね」
「ううん、ベルトもいっぱいあったから大丈夫。ほんとに可愛い、ありがとう」

 気に入ってるよ、と今日着ていたスウェットのセットアップを摘まんでみせると、キャンティは案外素直に頷いた。ライの態度から、相当厄介な奴なのではと思っていたから、良い意味で予想外だ。

「よし、歓迎会ってね。飲みなおすよ」
「冗談だろ……」
「ライ、アンタ酒買ってきて。まずいのだったらショーチしないから」

 ジロリと睨みつけた後、ライは無視を決め込むことにしたらしい。ついっと踵を返す背中を見て、キャンティは苛立たし気に懐から取り出したベレッタを発砲した。

 ――発砲したのだ。
 住宅街には似つかわしくないような音が、私のすぐ真隣から響いた。鼓膜が痛い。

 それはもう、迷いなく鮮やかな手つきだった。ライには当たらなかったが、リビングの白い壁紙が焦げた。僅かな硝煙を見つめて、私はキャンティに視線を戻す。彼女は訝し気に自らの手に持ったソレを見直すと、首を小さく傾ぐ。

「サイレンサーつけろよ、ビッチ」

 ライは長髪を翻し、私に向かって小さく手を振った。まるで「頼んだ」とでも言いたげな背が、今日中に帰ってくることは――恐らくないような気がする。未だに「つけたと思ったんだけど」と引き金を軽く押しながら確認しはじめたキャンティに、私は何と言葉を掛けるのが正解なのだろうか。