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「おえ〜……」

 ふらつく足取りで帰路につく。
 あれからというもの、歓迎会という名目で三日三晩キャンティに連れまわされたのだ。楽しくなかったわけではない。彼女とはうまが合ったし、連れて行ってくれる飲み屋はどこもお酒が美味しかった。だが、何せ酒癖が悪いし、相当に酔っ払っているのに中々開放してもらえないのには参ってしまった。
 胃の中がムカムカする。何度も吐いては飲むを繰り返した結果、食道が焼けつくように痛んだ。頭もぐらぐらと鈍痛が襲っている。今は四日目の朝、キャンティに仕事が入ったらしく、ようやく迎えらしい無口な男に引きずられていった。
 
 以前ライたちと飲んだときなど比ではないくらいにアルコールが消化できておらず、どこでも良いから横になりたかった。アスファルトに寝転ばず、マンションまで帰宅したことを褒めてほしいくらいだ。

 ここまで気持ち悪くてもキャンティのことを嫌だとは思わないのは、彼女がひどく分かりやすい人種であったからだ。
 キャンティは、良くも悪くも分かりやすく悪人であった。他人のことなど如何でも良いと言わんがばかりの自由奔放な性格で、しかしながら感情がないわけではなく、自らとその周囲の人間には目に見えるほどの依怙贔屓をした。その心情は掴みやすかったし、私にも共感できる部分があったので、そこが気に入っていた。
 御しやすいとは違うけれど、分かりやすい人は好きだ。まあ、それはそれとして短気な彼女を宥めるのは中々に重労働ではあったが――。

「うっ……」

 マンションのエレベーターに乗っていると、その浮遊感に胃の中身が引っ繰り返りそうになった。殆ど喉の半ばまで競り上がったものを無理矢理飲み込んで、よろよろと扉を出る。視界がピントがズレたようにぼやけていた。
 あと少し、はやく布団のなかで眠りたい。トイレに駆けこんで腹の中身を全部ぶちまけてスッキリしたい。早く早くと急く気持ちとは反対に、足は緩慢にふらつきながら進むことしかできない。

 エレベーターからふらふらっと廊下を進んだところで、携帯が鳴っているのに気が付く。唸りながら電話に出ると、向こう側からは男の声がした。私の組織から与えられた連絡用の携帯電話は、番号を知る人間など限られている。そのうちの男となれば、同居人の三人の誰かである。

「もしもぉし……」
『――……? ……』

 向こうで喋っている言葉が、痛む頭の中ではうまく聞き取れなかった。「誰だよ」と、どこに向けるわけでもないツッコミが挟まってしまう。

『……にいるんですか』

 今度は語尾だけ聞き取れた。その丁寧な話し口調に、私はその人物を一人思い浮かべる。口角をゆるりと持ち上げながらその場に座り込んで、小さく笑った。

「バーボンだ」
『……あのね、さっきから僕の話聞けてます?』
「聞いてる、聞いてるぅ〜……おえっ……気持ち悪い……」

 冷たいマンションの壁に頬を擦り付けて嘆いたら、彼は焦ったように「ちょっと待ってて」と言うではないか。もしかしたら迎えに来てくれるのか。有難い。残り十メートルだか、そんな短い距離が私には途方もない距離だった。

「あー……はよ来てえ〜お願い……お願いします……」

 懇願を残して、次第に思考も虚ろになってきた。受話器の向こうからはまだ誰かしらが喋っているような気配もあったけれど、今の私にはもう何が何だか。手に持っていた携帯電話が重たくなってきて、私はそれをスルっと取り落とした。落ちた時に、廊下に大きく反響したように聞こえたのは、本当にそうだったのか――それとも、私の頭に響いたのか。

 気持ち悪い、でも眠い。

 瞬きがゆっくりと間を置くようになり、小さな欠伸が口から零れる。ああ、いけない。こんなところで眠ってしまって、吐いたら喉に詰まらせて死んだとか。そんなお笑い草な死にざまは嫌だ。――でも、幸せかもしれない。いっそ、そんな風に馬鹿みたいに死ねたら、幸せなのかも。

 冷える足を手繰り寄せて、膝の間に顔を埋めた。
 ――コツ、コツ、近くの階段を上がる音がする。誰かが昇ってきたのだと思った。最初はゆっくりだった足音が、こちらに近づくにつれてやや急ぎ早なものに変わっていく。その足音が、まっすぐにこちらに向かってくるのは、顔を下げたままでも分かった。

 その冷たい足音が、私の傍でコツン、と止まる。
 もしかして、バーボンかもしれない。先ほど電話で状況を伝えた(――つもりだった、この時は)ばかりだし、何やかんやと世話焼きな青年のことだ。私がアルコール中毒で死ぬのは目覚めが悪かったのかも、なんて思った。

 けれど今の私には顔を上げる余力もなくて、すっと屈んだらしい傍らの気配を感じることしかできない。私の体を、誰かが抱える。首筋と膝の裏に触れた体温は温かい。私の体温より、少しだけ温かな手のひら。日向ぼっこをしてきた後のような温もりに、私は心の中でほくそ笑んだ。その温かさは、間違いなくバーボンのものだと分かったからである。やっぱりこういう所は優しいのだよなあ、感心しながら、どくんどくんと脈打つ鼓動と、私を起こさないようにしているのか、静かな足取りが心地良い。
 すん、と鼻を鳴らすと、冷たい香りがした。先ほどまで外にいたせいだろうか、風を浴びたあとの涼やかな空気だ。こんなに冷たいのに、手だけが温かいなんて、不思議な人だと思った。


「……ありがと」


 目は開かなかったけれど、小さく口をもごつかせて礼を述べる。
 私を抱えていた手が、ぴくっと震えたのが触れた皮膚越しに分かった。

 そこからの意識はぶつ切りで、そのあと部屋に帰ったような帰っていないような。次に目を覚ましたのは、部屋を夕日が強く照らすような日暮れだった。窓際に立てかけられたギターケースが大きく影を伸ばしている。

 漂うこおばしい香りに目を開けると、リビングのソファに横たわっていた。ブランケットが体にかけられている。さすがにここまで自分で世話できたという自信はないので、誰かが運んでくれたのは幻ではないだろう。

 欠伸を零しながらゆっくり上体を起こせば、キッチンからマグカップを持ってバーボンがこちらを見遣った。私の寝癖を見て、ふっと破顔する。

「良かったらどうぞ。ああ、僕も同じものを飲むから安心して良いですよ」
「うん……あったかー……」

 淹れたばかりらしいコーヒーを有難く受け取って、私はぼさぼさになった髪を撫でつける。体は水分を欲していたのか、温かいコーヒーであろうと関係なくゴクンゴクンと大きく喉が鳴った。四時間ほどは眠っただろうか、アルコールも少し抜けていて、まだ頭はぼうっとするものの物事の判断はつくようになっていた。

「驚きました、あんなところに倒れているから」

 バーボンは自分のカップに軽く息を吹き冷ますと、上品に唇を乗せた。私は苦笑いして頭を掻く。

「いや、あとちょっとが歩けなくてね、マジで……」
「一瞬、本当に死んだんじゃないかって心配したんですよ。ウンともスンとも言わないし」
「ありがと、命の恩人だわ」

 ひひ、と歯を見せて悪戯っぽく笑うと、バーボンは呆れたようにしながら二口目を含んだ。その表情は心なしか柔らかだった。

「まあ、今度からは気を付けて。俯せは危ないですから」
「俯せ? だったっけ、私」
「完全に。息ができなくなっても知りませんよ」

 ――確か、座っていたような気がしたのだけど。
 私は記憶を辿ってみたが、酔っ払いの記憶である。もしかしたら覚え違いもあるかもしれないし、バーボンがそんなに些細な嘘をつく理由すら思い浮かばない。私を見つけた彼がそう言うのだから、そうだったのだろう。ひとりでに納得して、私はコーヒーに舌鼓を打った。あっさりとした風味のコーヒーは飲みやすく、庭を見守る老人のようにホっと一息零すのだった。