27

 雨が降っていた。
 ベランダでくすねた煙草を噛んでいると、その跳ねた水滴が脛を濡らす。髪を掻き上げながら、先日稼いだ現金の枚数を数えた。本当だったら預ける場所があれば良いのだが、金銭面に関しては誰も信用ならない。せいぜいコインロッカーに集めて、大切に保管するしかないのだ。

「いや、いっそライとかに預けてみようかな」

 ライは決して良い奴でも悪い奴でもなかったが、ここ数か月で彼が金に然したる興味を示さないこといは理解しているつもりだ。ただ、約束を守るような義理のある男とも限らないか。小さくため息を零したところで、窓が開く音がした。札束をベルトと腹の間に突っ込んで振り返る。

 くすんだ空には見合わない煌びやかな色が視界に入った。眩い髪色に、すぐに誰なのかは分かった。「なんかあった?」と尋ねると、バーボンは穏やかに首を振る。特に用はないということだろう。世間話でもしにきたのだろうか。

 歩み寄るバーボンの姿に、何気なく隣を空けた。私の咥えている煙草を見ると、珍しいと目を丸くした。

「うん。ちょっとね、嫌がらせで……」
「僕にですか」
「違うよ」

 軽く手を振って笑えば、彼はほんの少し安堵したように「良かった」と微笑む。そういえば、彼は煙草を吸わないのだったか。思い返しながら煙草の先を詰ってみる。ベランダに黒い焦げ跡が残った。

 彼はその焦げ跡を一瞥してから、手袋越しに手すりをなぞる。ベランダは濡れていただろう、白い布地に僅かに褐色の指先が透けた。普段は温かそうな肌が、冷え切って見える。
「寒い?」
 つい、そのままに尋ねてしまった。バーボンは驚いたように私を振り返り、ゆっくりと首を振る。どうしてと尋ねるように彼は瞬いた。いや、違うかもしれないが、丸くなった瞳がそう語っているように見えたのだ。

 どうしてそう思ったのだろうか。
 自分でもよく分からないが、彼がそんな表情をしたので一度考えてみる。考えた挙句、あまりに単純な理由に辿り着いたので、言うか迷って、やめた。くだらない理由だ。やっぱり濡れた手が冷たく凍えて見えたものだから、そっと彼の手を取った。するすると白い手袋を脱がせると、小麦色の肌が白い境から覗いていく。

 触れた手のひらは、やっぱり冷たかったけれど、震えてはいなかった。それがやけに可愛そうで、濡れた指先を服の袖で拭う。

「……どうも?」
「なんで疑問形なの」
「いえ、急にどうしたのかと思って」
「うーん、寒そうだったから……」

 私がぼんやりと応えると、バーボンは「違うって言ったのに」、なんて可笑しそうに笑っていた。

「そんなに寒そうに見えましたか? 寒さには強い方です」
「そうなの。なんか……ホラ、肌の色がさ」

 手のひらをなぞって告げると、勝気な眉がピクリと動いた。彼の感情が出やすい部位だ。瞳や表情はそのままポーカーフェイスを保ったままだったので、恐らく無意識だろうと思う。

「変ですか」

 淡々とした口調で、視線を僅かに落としてバーボンが尋ねた。
 私はぎょっとして彼を見上げる。彼らしくないと思った。確かに節々で可愛げはあるものの、バーボンは基本的には感情をセーブするのが上手い。ライやスコッチに比べて悪い意味で感情の起伏をさせることはなかったし、今の口調はまるで不機嫌な子どもだ。

 その口調に、近頃聞き覚えがあった。
 私もついこの間、スコッチに似たような口をきいた覚えがあった。あれは、自分の感情が表に出てしまうのが嫌だったのだ。それを何とか抑えようと思ったら、つい抑揚のない発音になってしまった。

 彼も――バーボンも、もしかしたらそうなのだろうか。
 容姿に嫌な思い出があるのかもしれない。生まれがどこかは分からないものの、彼の容姿は日本人にしてはあまりにかけ離れているが、かといって異国に馴染む容姿かと言われるとそうではない。色素の濃度は肌も髪も同一で、基本的には肌か色濃ければ髪も濃く、肌が色薄ければ髪も薄い。極めつけにそのブルーがかった瞳、私もそうだから知っているが、薄くブルーがかかった瞳は白人の血を色濃く残しているものなのだ。
 だからこそ、彼の容姿はどの国にも馴染まない。いろいろな国の特徴を少しずつ搔い摘んだみたいだ。それがアンバランスで美しくもあり、人の目を惹くのだろうが、集団から浮いて見えることも確かだった。

 私は――そんな集団に属することすらなかったから、分からないけれど。

 ふと、思い出すのはかつての河原で交わした、少年との会話だった。
 あの時の少年が言っていた。学校でいじめられていると、気持ち悪いと言われるのだと。普段ならば同情など持たないだろう。そんな美形に生まれたのだから十分じゃないか、我儘言うなと思っていたと思う。
 ただ、今日の雨がやけにその手を冷たくさせるから、いつかの少年の言葉を思い出してしまったから。
 

「肌の色がさ、あったかそうだな〜って思ったの」


 つい、そんな彼をフォローするように言葉を継ぎ足してしまった。
 別に言うつもりはなかった。あまりに単純な言葉で馬鹿らしかったし、こんな言葉を口にすることで相手を惨めにしてしまうんじゃないかとも危惧した。そんな危惧を払うように、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

「なんか、すごいあったかそうだったから。雨に濡れたら、寒いだろうなって……そんだけだよ」

 自分が綺麗ごとを並べているみたいで恥ずかしかった。
 綺麗な人間ではない。そんなことは自分が一番よく分かっている。彼の容姿を変じゃないとかは言ってやれなかった。まるで正義の味方みたいな言葉は出なかったけれど、それでも十分私の羞恥心は煽られた。

 そわそわと彼の手のひらを親指でなぞって気を紛らわせる。意外にも手のひらは固く、彼が今まで沢山の武器を握ってきたことが分かる。結構よく喧嘩をするのだろうか、指の節は皮が厚い。

「それと、僕の手を触ることに関係は……」
「ん? ん〜、なんかほら。セラピー……」
「セラピー……」

 バーボンは私の言葉を復唱してから、ぶはっと噴き出すように笑った。
 笑った所為だろうか、手のひらの体温がみるみるうちに温まっていくのが、触れた指先から伝わる。


「ふふ、ははは。君、本当に変な人ですね」
「だって、ほら。ここ押したら戻ってくるから」
「戻ってこない人のほうが珍しいです」


 さらりと反論されると、確かにその通りかもしれない。指の付け根あたりの肉の膨らみをぐにぐにと押しながら納得する。戻ってこなかったら、それはそれで恐ろしい。バーボンは弄っている私の手を掴み返して、軽く握った。それからまだ灰色の雲を見上げて、軽く肩を竦める。

「確かに、少し寒くなってきましたね。中に入りますか」
「部屋の中で吸っていい?」
「却下です。というか、煙草吸ってなかったでしょう」
「まだあと一本あるんだよね」

 残った一本を取り出すと、バーボンは自然な手つきで煙草を一つ奪い去ってしまった。「あっ」と声が零れる。軽くフィルターを食んで、鼻を鳴らされる。別に吸いたいわけではなかったけれども。

「火、貰っても? これから仕事なので」

 ちょん、と口元をつついた人差し指は気障な手つきだ。しょうがないので、ポケットに入っていたオイルライターで先に火を点けてやった。手袋を外した指先は、もう冷たくは見えない。彼には雨は似合わないなあと、心の中で呟いた。
  
「ふ、ポケモンかよ」

 自分で勝手に、雨で弱る彼の姿を想像しながら含み笑いを零してしまった。私の妙な妄想に気が付いたのか、吸いなれない手つきで煙草を挟む指先は少しばかり苛ついたようにトントンともう片側の腕を打っていた。