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 ――息を切らして、公園のトイレに駆け込んだ。
 どうにか高鳴る鼓動を押さえ込み、なるべく静かに呼吸を整える。途中で羽織っていたバックプリントの白いパーカーを脱ぎ捨ててきたから、多少は目を眩ませることができた――と良いのだが。しかし、トイレに逃げ込んだのはもしかしたら得策ではなかったかもしれない。

 事の発端は、つい数時間前に遡る。
 我ながら少々欲をかきすぎたと思う。近くにあるアイドルのライブチケットが思いのほかはけたものだから、良い気になって売りつけすぎた。もちろん、現物など手元にあるわけがない。架空の口座を作る手口は慣れていたし、この手の詐欺は横行しやすいので他の件に埋もれやすい。流行りには敏感なほうじゃないが有名なアイドルらしく、チケットは中々の値段で売れたのだ。

 ただ、同じライブチケットの前金詐欺をシノギにしているヤクザに、口座に待ち伏せられていたのが運の尽きである。これが警察でなくて良かったと思うべきか不運だと思うべきか。
 しまったなあ。やっぱり大金になる前に手を引くべきであった。背後に何もついていない単独犯にとって、引き際を間違える時ほど痛いことはない。
 仮に今逃げ切れたとしても、私が女であることは確認できたであろうし、今後の活動にも関わってしまう。

 
 心の内では溜息をつきながら、今はひとまず先ほどの厳つい男たちをどうにかしなければ。トイレの壁から僅かに視線を覗かせる。女子トイレは真っ先に探されるだろうから、男子トイレに入ったのはわざとだ。あまり清掃されないのか、正直顔を顰めたくなるほど嫌な臭いが充満していたが、背に腹は代えられない。

 公園に人気はない。
 まだ追いついていないのか、撒けたのか――。いや、油断して姿を見せるのはまずい。居心地は悪い場所だが、もう少しだけ隠れていようか。

 それにしても、本当に汚い。昨今、都会の公園でここまで汚い公衆トイレがあるだろうか。ある程度は清掃されているだろうに、糞尿の匂いは鼻をつくし、撒き散らしたような汚れが床にこびりついていた。恐らく嘔吐の跡だ。

 おえ、と声を零さずに舌を軽く出す。
 さすがに地べたに座ることは憚られて、中腰のままでいたのだが、キラリと何か眩いものに目を取られた。

「……?」

 鏡だ。
 そう、可笑しいところは特にない鏡。外の明かりを反射して、視線を刺した。そういえば、ここまで床は汚らしいのに、手洗い場は妙に綺麗だ。清掃されていないのであれば同様に水垢も、他の汚れもひどいように思うのに、綺麗に拭き取られている。

 それが妙で――否、妙なのはこのトイレかもしれない。
 このトイレの中だけ、意図的に汚されているような。何のために。
 見つかりたくない、何かのために――そうされているような気がした。何かって、何。匂いをつけてまで誤魔化したいものなのだろうか。

 狭い空間の中で、隠せる場所など限られている。視線が個室のタンクに向いた。私も空き巣防止によく使う場所だ。

 足音を消して個室に歩み寄る。そうっと外したつもりだったが、否が応にも音は鳴ってしまった。固い無機質が擦れる音。重たい蓋が持ち上げられると、タンクの中にビニール袋が入っているのが見える。
「うっ……」
 開けた瞬間、一層強くなった悪臭に眉を顰めた。「なにこれ」、声を抑えられないままにタンクを覗き込もうとしたとき、ガタン、と大きな音が鳴った。

 ――その音は、私がタンクの蓋を落とした音だ。
 幾重にも個室の中に音が反響する。塞がれた口と鼻に、息が詰まった。視界を下ろすと黒い手袋がぼんやりと映る。体格と手の当たった感じは、男のようだと物語っている。しかし、先ほど私を追ってきた厳ついヤクザに比べると、線が細い。

 男は手慣れた手つきで皮手袋を嵌めた指先を口の中にねじ込んだ。あっという間にその手のひらまでねじ込まれて、噛みつく前に生理的な嗚咽が零れた。舌の奥をぐっと押さえられると、声にならない声が漏れる。

 ――クソ、せめて金的くらいしないと。

 冗談でなく、本能的にまずいと思った。本当なら思い切り噛みついたところだが、この皮手袋越しにどれほどの威力を与えられるか分からなかったし、呼吸はどんどん浅くなって手足が痺れてきた。まだ意識があるうちに抵抗しなければと、心の奥底にある生きたいという欲求が叫んでいたのだ。

「……ッ!」

 肘を振りかぶって、後ろに立つ男の胸あたりに打ち込もうとしたとき、急に彼の力が緩んだ。私をぐっと捉えていた腕はするりと抜けて、口の中にあった手がゆっくりと引き抜かれていく。唾液が黒い手袋に引いていくのを見送る。ケホ、と大きく咳き込んだ。


「ミチルさん……?」


 聞き覚えのある声色に振り返ると、彼は手袋を外しながら「やっぱり」と呟いた。
「ス、コッチ……」
 喉を押さえて、まだ余韻の残る咳を零しながら彼を見上げる。安堵したような、そうではないような。

「ごめん、苦しかったよな。まさかこんな所にいると思わなくて」

 大丈夫だった――。
 なんて心配するような声を掛けながら、彼は手袋を外した指先で私の頬を軽く擦った。ツンとした眦は不安げに垂れていて、先ほどまで人の口に手を突っ込んでいた男とは思えない。
 ようやく彼に口を塞がれていたのかと実感が湧いたら、ぐぐっと開かれていた顎が次第に痛んできた。本当に遠慮なしに突っ込んだのだろう、外れるかと思った。(寧ろ、外さんという勢いだったようにも思う。)

「ここ、どこだった?」

 ヤクザに追われるまま走ってきたので、だいぶ近所から離れてしまっていたのは確かだ。私たちの住むマンションより、もう少し都心寄りの街だとは思う。
「マンションから三時間くらいはするんじゃないか? 徒歩で来たの」
 私が車を持っていないのを知っているから、そう尋ねたのだろう。「まさか車」、スコッチの頬が引き攣った。どうしてそこで嫌な顔をするのか分からないが、歩きだと答えると安心したように露骨に胸を撫でおろした。

「にしたって、どうして男子トイレに……」
「それは――」

 苦笑いして言い訳をしようとした時、彼がハっとしたように入口を振り返った。少し遅れて、私も誰かの足音を聞き取る。荒々しい足音に、背筋に冷汗が浮かぶ。
 
 しかし、逃げ場はなかった。
 入口側から彼らが入ってきているのは分かったし、反対側に通気口はあるが今からでは間に合わない。万が一逃げたとしても、外に見張りがいる可能性だってあるだろう。

 ――どうしよう。

 困惑のまま、ついスコッチを見上げてしまった。
 彼に助けを求めるなんてお門違いだとは思ったが、他に何も策が思い浮かばなかったのだ。スコッチでなくても、他の人物だったとしても、視線を送っていたかもしれない。そこに立っていたのが偶々彼だったという話だ。
 しかし、見上げてすぐそれを悔いた。
 彼に私を助けるような義理があるだろうか。スパイ容疑を掛けられているのだ。いっそのこと、このまま私など殺されてしまうか売られてしまったほうが良いのではないだろうか。

「……こっち」

 ぐ、と彼は私の手を引いた。
 私を小便器のほうに連れていくと、遠慮がちに私を一度見つめる。それから――その手が、私の穿いていたショートパンツをするりと下ろし始めた。冷たい指先が、腰に触れると、顔に熱が昇っていくのが自分でもよく分かった。それはもう、愚かしいほどに。