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 触れた指先は冷たくて、中指の指の腹が固くなっているのがしっかりと肌に伝わった。言葉にならないまま、ドクドクと鼓動が鳴って、顔に血が昇っていく。声も出ない口元をパクパクと間抜けに開閉していると、その手が私のショーツまでずり下げていく。

「な、にっ……」

 下半身を曝け出して、怒りよりも何よりも只管に困惑した。彼はいつもの凛とした眼差しでチラリと私を伺い見てから、口元だけで「ごめん」という形を作って見せた。私がそれに尋ね返す前に、体がぐるっと引っ繰り返る。便器に手をついて、何とかバランスをとっていると、両足を抱えられた。

「ね、ちょっと、スコッチ……」

 かちゃ、と背後から金属の音がする。汚いトイレの床にベルトが落ちるのを見て、ようやく彼が衣服の前を寛げたのだと理解した。これは、まさかとは思うがまさかなのだろうか。ドラマや映画でよくある、追っ手をキスシーンでやり過ごすような――。

 心の半面では成程と納得している自分がいたが、その半面動揺している自分もいた。普通に下半身を丸出しにしているの、恥ずかしすぎるし。私が目を白黒とさせている間に、荒々しい足音が近づく。スコッチは羽織っていたパーカーを私の頭を隠すようにして被せた。


「なんだ、コイツ……くせっ。こんな所でヤってんのか」
「頭いってんだろ、ほら。早く探せ」


 その声色は聞き覚えのあるもので、すぐにあのヤクザたちのものだと分かった。ぎくりと体が強張る。スコッチはそんな私の下半身に、スリっと彼の肌を寄せてきた。
 ――当たっている。何がとは言わないが、確実に当たっている。挿入のフリではあるものの、腰を打ち付けるたびに私の太ももの隙間を行き来している。男たちは一通りトイレの中を探し回り、それからスコッチに声を掛けた。

「おい、ここに女が隠れてなかったか」
「さぁ? 暫くの間このへんに近寄る奴はいなかったけど」

 素知らぬ声色で彼は言ってのける。どうやら男たちは顔の隠れた私が気になるようだった。それもそうか、女を探しに来ていて、このあたりにいた女は私だけだったろうから。そのパーカーを外してみろと言うヤクザの男に、スコッチは不機嫌そうに応えた。

「なんで邪魔されなきゃいけないんだ。こっちは楽しんでる最中だっていうのに」
「やましいことがないなら良いだろ、早くしろよ」

 そんなやりとりを聞きながら、私は腕を震わせた。今の私の体勢は、小便器の淵に凭れた手とスコッチが持ち上げた下半身だけで支えられている。つま先は、ほとんど地面についていなかった。いや、先ほどまではついていたのだ。恐らく、スコッチが男たちとのやり取りに集中している所為で必要以上に腰を持ち上げてしまっているのだと思う。

 理由はどうあれ、自重を支える私の腕はそろそろ限界を感じ始めていた。せっかくスコッチが庇ってくれたところ悪いが、やはり人間の筋力には限界があるのだ。言い争う男たちの声をBGMに、私の腕の耐久力はゴリゴリと削られていった。

 必死に踏ん張っては見たが、それから五分も経たないうちにズルリと腕が陶器の上を滑り落ちてしまった。

「うっ……!」

 上半身が滑り落ちた――ところまでは良かったのかもしれない。なんとか頭をぶつけずには済んだし、打った頬はまだ少し痛むものの重症ではないだろう。
 しかし、問題はその匂いだった。
 ただでさえ酷いと思っていた、下水を色濃くしたような匂いが一気に鼻を通り抜けて肺を満たす。それほど綺麗な環境で生きてきたとは思っていないが、それにしても酷い匂いだ。
 それを間近で嗅いだのがいけなかった。最初は空で嗚咽だけが漏れたが、もう一度大きく体が揺れる。


「う、ぉえっ……」


 そのまま床に吐しゃ物をぶちまけた。
 ――最悪だ。これは最悪としか言いようがない。私がそのまま口の中身を吐き出すまで、大の男三人が私を囲んで見守っていたのだ。しかもそのうちの一人は下半身を丸出しの状態で。最低、最悪、どうしようもなく情けない。
 男たちはベチャベチャと床にぶちまけられた吐しゃ物を見て、流石に引いたのだろう。「あとは好きなだけ楽しんでな」などと声を掛けて、足早にこの場を去っていった。
 
 正直ものすごく泣きたい気持ちにもなったけれど、この際開き直るしかない。命あっての物種というやつだ。生きているだけ良しとしようじゃないか。

 スコッチは暫くしてから、ゆっくりと自らの体を離し、私の体を引き起こした。さすがに悪いと思ったのか、パーカーを被せたまま衣服を整えてくれる。彼が見ていないうちに、汚れた頬はパーカーで拭っておいた。もう既に汚れてしまっているし、構わないだろう。

 私がパーカーをはぎとって顔を出すと、彼は申し訳なさそうな顔をして乱れた髪を撫でつける。

「ごめん」
「いや……こっちこそごめん。吐くつもりはなかったんだけど」
「ナイスアシスト。おかげで疑われなかったよ」
「わざとじゃないっつの」

 口の中の気持ち悪さを感じながら、悪態づいた。あまり口を大きく開けたら匂いそうで、つい口元の動きも小さくなる。これ以上情けないところってあるか――というのは、そうかもしれないが。

「さっきの奴らは?」
「……ちょっと、仕事で」

 まさか詐欺中にヤクザの縄張りに入ってました、などとは言えなかったので言葉を濁した。スコッチは少し解せない風であったが、すぐに眉を顰めて呆れたように溜息をつく。彼は軽く肩を鳴らしてから、個室のタンクにあったビニール袋を回収した。中身は――どうやら重みがあるような、そこそこ大きな袋だった。

「仕事の邪魔してごめん」
「まあ、ミチルさんに見つかるような場所に隠したオレもオレさ。仕事先は選ばなきゃな」

 彼はその大きな荷物を持っていたバックパックに詰める。異臭が鼻をついた。糞尿とは違う、もっと生臭い香りだ。その中身が何なのか――というのは、私には聞けない。聞いたら、もう一度嘔吐を繰り返す羽目になる気がした。

 荷物を背負いなおしてから、スコッチは溜息をついて私を手招いた。送るよ、と言う男に、今だけは甘えることにする。まだ何処に先ほどの男たちが出歩いているか分かったものではないからだ。

 公園に出ると、空気が新しくて心地よい。
 少々冷たいとは思ったけれど、それすらも今の私には救いの風だった。大きく息を吸い込んで伸びをする。

「ミチルさん」

 スコッチが私を呼ぶ。私が振り返ると、彼は伸びた前髪の向こうからこちらを見据えていた。


「……命を守ることができない人間が、悪事を働いちゃ駄目だよ」


 私のすべてを見透かしたように、スコッチは静かに告げた。何も言葉を返せないままでいたら、彼の冷たいまなざしがゆっくりと逸らされる。

「それで後悔するのは自分さ」

 ――まるで、悪ガキを諭す大人のような口調だった。
 私が悪で、彼が正義。そう言われているような気がしたのだ。彼もまた、得体の知れない悪を抱えているというのに。どうしてそんなことが言えるのだろう。どうして、私のような小悪党にそんなことを言うのだろう。

 彼が真の悪人ならば、放っておけば良いのだ。
 私利私欲に走り自滅する女など――さして親しくもない女など。しかし彼はゆっくりと諭すように私に語る。けれど、彼は善人ではない。それは、その鞄に詰められた袋が語っている。きっと中身は私が知るものより、もっと臭うだろう。こんな場所に、暫く放置されていたのだから。

「……スコッチって、変な人」

 否定も肯定もできないまま、私はただ一言そう零した。私の言葉を聞いて、スコッチは「えぇ」と苦笑いを浮かべるのだ。