30

 
 空気が冷たく澄んできた、そんな夜だった。
 別に空気中の成分はさして変わらないだろうに、冷たいほうが綺麗だと感じるのは先入観なのだろうか。空が高い、なんてよく言うものだが、本当に高いかどうかは分からない。それと似たようなものか。

 するっとショーツをつま先から抜く。頭を洗うのは面倒だったので明日に回したくて、髪の毛は緩くヘアバンドでまとめた。シャワーを浴びながらクレンジングで化粧を落とす。バーム型のクレンジングは、最近使ったもののなかでは気に入っている。手のひらで滑らかな感触を押し広げながら、ぼんやりと自らの体を見下ろした。

「……」

 下腹部に手を添える。
 先ほど焼肉弁当を食べたばかりで、薄っすらと膨らんでいた。ふと気にかかった。この間スコッチに脱がされた日、そういえば朝飯に丼ものを食べていたような。お腹が出ているの、見られたかな。そう思うと少し恥ずかしくて、顔の油分を落としながらあの日の朝飯を抜かなかったことを少しだけ悔いた。

「……いやいや、関係ないじゃん」

 というのは、誰にでもなく、自分の思考へのツッコミだ。
 正直もうこれ以上にないほど恥ずかしいところを見られたのだから、今更お腹がポッコリしてようとしてまいと。気になる人にデブだと思われたくないだなんて、そんな女子高校生の恋愛でもあるまいし。
 一人自嘲気味に笑いを零しながら体を洗う。泡立てをサボった、まだ液体状のボディーソープを適当に体に伸ばした。
 結局あの後、彼は私をマンションのエントランスまで送り届けると仕事があるからと別の場所に泊まったようだ。その日、やけに安堵したような――私の心の中では、少しガッカリしたような、自分でもわからないような感情の矛盾に苛まれていたのを覚えている。

 いや、だから何が残念だったのだ。
 別に彼に傍にいてほしいわけじゃないだろう。あんなに気まずく思っていたではないか。悶々とした想いを抱えたまま、浴室を出てタオルを広げた。それを胸元に巻き、冷たい飲み物が欲しくて冷蔵庫に向かう。足の裏がヒタリ、ヒタリとフローリングに少しずつくっついていた。

 冷蔵庫の中を覗くと、卵が数個にジュースが一本、二リットル入り。それから並んだ発泡酒の空き缶。数秒悩んでから、私はビールを一本取り出した。誰のものか分からなかったけれど。まあ、こんなもの三人の共同部屋に置いておくのが悪いのだ。グラスを持ってきてくすねた缶ビールを傾けると、細かな気泡を浮かべながら酒がキラリと反射した。

 一本ビールを飲み干すと、なんだか物足りなく思えてきて、確かスコッチのものだったろうか――、その酒をもう一本開けた。ゴクゴクと喉を鳴らしてアルコール特融の香りを楽しむ。
 フゥ、と長い息をついていたら、玄関から物音がした。重たい荷物を下ろす音。この少し乱雑さが感じられる足音には聞き覚えがある。

「ライ」

 私が振り返ると、ライは汗ばんだうなじを晒すようにして髪を掻き上げた。彼はげっそりとした表情で「暑い」とだけ零し、大きくため息をついた。こんな日に顔を赤くして、一仕事終えた後なのか、彼が暑がりなのか。(そりゃあ、そんな服と髪型じゃあなあとも思う。)ニット帽をかなぐり捨てて、ずかずかとリビングへ上がった。元から肌が青みがかっているせいか、その赤く染まった首筋や耳たぶがやけに印象的だ。

 私はバスタオル一枚を胸元に巻いているだけだったが、ライは何の反応を返すこともなく冷蔵庫を開け放つと、その扉の前で冷気を独り占めしていた。あんな使い方をして、後にバーボンの長時間説教ケースになっても庇ってやれない。

「あ、ねえ。丁度良かった、なんで冬の空って高いっていうか知ってる?」
「星の話を、俺が知っていると思ったのか?」
「思わないけどさあ……」

 ちょっと考えてくれたっていいのに、と拗ねながら私もおもむろにキッチンへ向かい冷蔵庫を一緒になって覗き込む。誰も自炊するわけでもないので、邪魔するもののない実にシンプルなキッチンだ。大きく欠伸を零してヘアベンドを脱ぎ捨てる。前髪軽く手櫛で整えた。冷気の前は、やはり寒い。


「そういうのはアイツらのほうが詳しい」
「本当に? バーボンはともかく、スコッチがそんなこと知ってるかな……」


 想像して少し笑ったら、ライも口角を小さくニヤっと引き攣らせた。今の、もしかして少しウケたのか。本当に、笑いのツボだけは似通っている男である。
 冷蔵庫が開け放しのアラームを鳴らした頃、ライはようやく大きな図体を起き上がらせてシャワーを浴びてくるとキッチンを後にしようとした。ならば私もついでに着替えようか、腕を大きく上に伸ばした時だ。


「ライ? 帰ってるか――……」


 誰かの声が転がり込んだ。それと同時に、私の胸元を覆っていたバスタオルがハラっと解れて落ちる。誰の声色なのかはすぐに分かった。バーボンは、こんな風にライに断りを取るような男ではない。
 がちゃりと開いた扉に視線を送る。私は顔を赤くするところにまでも追いついておらず、ただ「あ」だの「え」だのと繰り返した。その困惑している間、体を隠すことも忘れておおっぴろげに曝け出してしまった。

 すぐに「ごめん」と笑ってごまかそうとしたのだ。
 まあ、スタイルは悪くない方だと思っているし、目を汚したというまででもないだろう。むしろ若い女の裸をタダで見れたことに感謝してほしいくらいである。――なんて、強気に誤魔化しては見たが、今の私はただの痴女だ。


「う、うわぁあっ!」


 しかし、それはスコッチの叫びで掻き消されてしまった。
 私はキョトンと目を丸くして何度かパチパチと瞬く。目の前にいる男は、確かに今までと変わりようのないスコッチ本人である。彼は吊がちの眦を益々吊り上げて、顔や首を真っ赤に染めて三歩ほど後ずさった。

 しばらく、理解するまで裸のまま固まっていた。今の、スコッチの声か。
 聞けばどう考えても彼の声色だったし、目の前で処女のように顔を真っ赤にしてドキマギと肩をこわばらせているのは紛れもなく彼自身だ。いや、何だって、そんな――そんな――。

「どうしたの、童貞みたいな反応して」

 私が意地悪に笑ってそう告げると、背後でライがブフっと噴き出す気配があった。
 だって、実際にそうなのだもの。どうして――。この間なんて上半身の裸と比べ物にならない場所を見ただろうに。あれを見た後で、どうしておっぱいの一つや二つであそこまで奇声を上げるのか。

「……違う、別に何でも」
「フーン……」

 視線を床に落として首を振った男に、私はズイっと歩み寄った。少し前のめりになって、彼の目つきを覗き込むようにする。
 ――なんで、なんで! なんでこんな……。
 すっと手を伸ばして、彼の頬に親指を触れさせる。ふに、と感想しながらも柔らかな肌の感触。

「なんで急にそうなんの!? 可愛い〜!!」

 ついに本音が堪えられず、思うがままに叫んでしまった。そんな可愛い反応、本当の童貞みたいじゃないか。つい先日まで、あんなに大人っぽくあったのに。私のことをまるで子どもみたいに扱っていたのに、今はスコッチのほうが思春期の子どもみたいだ。
 まさか本物の童貞でもあるまいし、以前下半身をおっぴろげにした割りに、今更すぎやしないか。

 きっと何か、彼が意識してしまうような切っ掛けがあったに違いない。スコッチが頑なに視線を逸らすので、彼が答えるまで着替えないことにでもしようか。そんなことを考えていたら、それすら読み取ってしまったのか、スコッチはもにょもにょと口を小さく動かした。しょうがなし、といった風に呟く声を逃さないよう耳を澄ませる。冷たい空気に、鼻を啜った。

「――ってなかったから」
「え? なんだって?」
「その、だから、この間見た時……毛が……が生えてなかったから、ビックリしたんだって」
「それだけで?」

 毛――というと、ああ、なるほど。ちょうどデリケートゾーンのムダ毛の話らしい。そうか、パイパンに耐性はなし、と。いるのだかいらないのだか、そんなメモを脳内に残した。私は「なんだ」と息をついて目を丸くした。彼の性癖を一つ掴めたら、これからそれを武器にしてやろうと思ったのに。さすがに常時パイパンを晒して歩くわけにもいかないしなあ。
  
「ふ、フフ……」

 スコッチの答えが更にツボに入ってしまったのか、ライも震えながら目じりに浮かんだ涙を払っていた。スコッチは彼を咎めるように名前を呼びかけたが、その真っ赤な顔で何を言おうが今や焼石に水、というやつだ。その丸っこい頭をかいぐりながら考えていたら、彼はいよいよ観念したように「服着てくれ」と私に懇願したのだった。