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 かれこれ一時間半、目の前の携帯とにらみ合っている。

 黒いスマートフォン、誰のものかは分からないが、リビングに無造作に置かれていた。私のものでないことだけは確かだ。携帯電話なんて情報の巣窟を置き去りにするなど、どれだけ詰めの甘いことか。最初はそう思ったものの、いや、もしかしたら逆に私の指紋を採取するつもりかも――とか。何らかの罠があって置かれているのかも、とか。
 そういった危惧が頭を過って、しかし捨てきることもできなくて、そうこうしているうちに時計はグルリと一周半。
 もしこれが単純に彼らの忘れ物なのであれば、かなりの情報源ではないか。
 パスワードは分からないが、物さえあれば何度でもチャンスはある。ならば、これさえ入手してしまえば――。ただ、これがもし罠だったら。罠ではなくても、私が持ち去ったことがバレてしまえば。スコッチやバーボンならまだしも、ライだったら眉間に一発入るような気はする。

 唸りながらも、その携帯を睨みつけているときに、玄関から誰かが入ってくる気配があった。私は思わず、パっと携帯を手に取ってしまう。そしてそれを見られるのはまずいと、パンツのポケットに押し込んだ。ぱたぱたと軽い足音がして、住人のどれでもない荒々しい開け方でドアが開いた。

「ミチル! ちょうど良かった、飲みに行くよ」
「きゃ、キャンティ……」

 予想外の来訪に、私は再び携帯を出すこともできずにトレーナーの裾をサっと伸ばす。幸い彼女は然程勘が鋭いほうではなかったので、私がたじたじとしているのも気に留めていない様子だった。

「いつから合鍵持ってたの」
「いーや、こないだライからスッてやった。普段鍵持ち歩かないから気づかなかったんじゃないかね」
「わぁお……そういうところ好きだけど」

 彼女は手癖の悪そうな指先をヒラヒラと動かして見せた。確かに、彼はよく財布を置いたり車のカギを置いて出たりと、何かを携帯することへの執着が乏しいようだった。
 なら、もしかしたらこの携帯は――。
 そこまで考えているのを、キャンティの細いが節々の目立つ指先が遮った。ぐっと私の手を引き寄せて、彼女は「早く、良い酒出す店知ってんだ」とご機嫌に口角を上げる。断ることもできないまま、私は僅かに心残りを残しながら外靴を履いた。

 
 キャンティが連れてきたのは、マンションから大分離れた場所にあるダーツバーだった。確かに彼女の言う通り、こういった店にしてはずいぶんと高級な酒が揃っている。そんな酒をポンポンと出してくるものだから、訝し気に首を傾ぐとキャンティがこちらにコッソリと唇を寄せた。マットリップでしっかりと象られたリップラインが美しい。

「ここの店主、裏の事業を握られてんだ。組織の人間には逆らえないのさ」
「あ〜、そういうこと……」
「だから気にしないで飲みなよ。奢りで良いからさ」

 奢り、って――店長のね。苦笑いを零しながらも、懐が痛まないなら有難い。私は棚の上にあったジョニーウォーカーを注文して、足を組み替えた。店主も兼職しているらしいバーテンダーは私の注文を受けて、最後の希望が絶たれたように肩を落としていた。

 それから彼女と会話を楽しみながら酒を進めた。
 その時には既に携帯のことが脳から置き去りになっていて、互いにそこそこへべれけになっていたと思う。生あくびを零して、チェイサーをゴクゴクと飲み干す。
 ふわふわと浮かれた心地でキャンティの渾身の下ネタに爆笑していた。スナイパーって、なんでもライフルに例えるものなのか。分からないが、それをライに置き換えて想像してしまい、二度目の爆笑を迎える。

「あっはっははは!! 無理……跳弾は無理ィ……」
「だろォ? まあ先の曲がり方は直せないからね、ハンディだと思わなきゃ」
「ぶふっ……そうだね……あはは……」

 お腹を抱えながら笑っていたら、尿意を催してきた。下腹部がムズムズっとして、私は彼女に断って席を立つ。ヒールを履いていたから、おぼつかない足取りでカウンターに寄りかかりながらだ。これではまるで赤ん坊の歩行練習である。それがまた、酔っ払った頭には可笑しくて笑ってしまった。

 笑いながらフラフラと姿勢を直そうとした時、カシャン、と何かを落とした音がする。
 最初は気にせずに歩こうとしたが、酔っ払った頭が答えに辿り着いた数十秒後。ふらつく足がようやくのこと四歩ほど進んだ時だ。
 ――その音の正体に気づいて、一気にアルコールが意識から飛んで行った。
 足取りはまだふらついてはいたが、意識は完全に醒めてしまった。慌ててバっと振り返ると、キャンティがその音の正体を手に取り眺めている。まだ頬を赤くしている彼女は、携帯を一通り眺めまわすと驚いたように私を見た。

「――……コレ、アンタのじゃないよね」

 彼女は知っている。私に支給された携帯電話がどのようなものであるかを。そして、恐らく飛ばし携帯でないことも気づいていた。そのスマートフォンは最新機種で、飛ばしとして中古で購入するにはあまりにコストが掛かりすぎていたからだ。
 キャンティはパっと歯を見せて笑った。彼女の笑顔はあまりに無邪気で、どうしてか私にとっては残酷にも見えた。


「やっぱりねぇ! 見込みある女だと思ってたんだよ!!」


 彼女は喜びを表し、私の背を叩いた。上機嫌な口ぶりと酒の回った吐息が口から次々に零れだしていく。

「それで、どいつのだい? ライ、バーボン、スコッチ?」
「そ、れは……まだ分かんなくて……」
「まあ、良いさ。さっそく中身を覗いちまおう。こんなもの、組織の奴らに言えばちょちょいっと……」

 ニコニコと話を続けていくキャンティに、私は曖昧に頷いた。これで良いのか。これで――一千万円。何て短い仕事だったのだろうか。私は彼らの誰が裏切り者かも分からないまま、単なる棚ぼた状態で。なんという幸運だ。


『命を守ることができない人間が、悪事を働いちゃ駄目だよ』


 どうして彼は、あんなことを言ったのか――。
 スコッチの表情が過った。彼のものかも分からないのに、これを渡してしまったらその答えが知れないような気がした。私はぐっと押し黙って、キャンティの手元にあった携帯をさっと奪い去った。


「――は?」


 初めてだった。その蝶の入れ墨を恐ろしいと思ったのは。彼女の瞳孔が私の本心を貫く。まるでスコープで覗かれているような気分だ。私は精一杯に、ヘラっと酔っ払った笑顔を浮かべてみせた。気取られるな、震えるな。

「ごめん、実は餌にして泳がせてる最中でさあ……もうちょっと待っててよ」

 キャンティの性格をよく思い出せ、考えろ。
 彼女は――短気で好戦的。一度身内の輪に入れた人間にはそこそこ甘く、大して敵対している者には一切の容赦がない。酒の肴にすらするくらい生死の概念も軽く、バーの店主への対応や組織のメンバーへの愚痴を見る限り弱者を見下して楽しむ節がある。
 自然と、片側の口角が引き攣るように持ち上がった。どんな顔をしていただろう、自分には分からないが、上手く笑えていることを信じたい。


「こういうのは、待ち伏せしたほうが面白いじゃん」


 ドクドクと緊迫した空気に鼓動が鳴った。指先が強張っている。――そうだと言え、今すぐ、言え!! 心の中の願いは表に出ないうちに、沸々と体を滾らせた。胸が熱くて吐きそうだ。
 彼女の沈黙が何時間にも思えた。ようやくのこと沈黙を破ったキャンティは、笑ったまま「それもそうだね」と言った。そして、大きく伸びをしてから新しい酒を注文する。

 私は携帯を静かにポケットに仕舞い直し、先ほどよりやや早足にトイレへ駆け込んだ。そしてもう一度スマートフォンをぎゅうと握りしめて、大きく息をつく。ハァ、と重たい吐息が零れた。

「クソッ……」

 クソ、クソ、クソ!! なんだって私がこんなこと。
 今まで自分の利だけを考えて生きてきたのに。一度信じた男に叩き落された時の絶望を思い出せ。たかが一時の感情で、また同じことを繰り返す気か!
 沸き上がったのは怒りだった。それは、自分に対する怒りだ。なんで、なんで私はスコッチのことを考えると、こんなにも感情にセーブが効かない。どうして。そんな疑問が憤りに変わる。

 早くこの携帯の持ち主を見つけなければ。そう思いながらも、私は静かにスマートフォンをトイレの便器に落とした。きゅっとレバーを引き、水を流す。ズゴゴ、鈍い音が配管から響いた。

「うぅ〜……」

 一人トイレの前に蹲り、私は頭を膝に押し付けた。なんでこんなことをしてしまった。なんでだのどうしてだの、後悔だけが渦巻くのに。携帯を流してから、ああ、オシッコし忘れたなあ――なんて漠然と思い出した。