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 水没して故障した携帯電話を、そっとリビングに戻しておいた。
 あの後キャンティには頭を下げて謝ったし(彼女は吐くのではないかと心配するほど爆笑していたし――)、もうこの携帯のことは忘れよう。最初から見なかったことにすれば良いのだ。見ないフリは得意だし。

 肩の荷が降りた気持ちでぐぐっと腕を伸ばす。はあ、と溜息をついて自室に戻ろうと踵を返した時、丁度部屋から出てきたバーボンと視線がかち合った。彼は一瞬部屋を見回すように視線を這わせて、小さくニコリと笑った。

「おはようございます。こんな朝早いのは珍しいですね」
「昨日遅くまで飲んでたから」
「道理で服がそのままなわけだ」
「あー……そうそ……う?」

 ぱっと彼の顔を見上げれば、バーボンはしたり顔で微笑む。
 なんで私の昨日の服装を知っているのか。昨日は彼には会っていないのに。そう思いながらも軽く相槌を打った。もしかしたらカマを掛けただけかもしれないし、無駄に反応を大きくするのはやましいことを隠していると思われやすい。

 フランス人形かと思うほどびっしりと植わった睫毛から覗く瞳が、私の表情をジィと暫く見つめた。私は小さく笑顔を取り繕って、「ン?」と彼の表情を逆に覗き込んでみる。引いて駄目なら押してみよ、だ。

「何〜、私の顔が可愛いって?」
「……ええ、とても魅力的だ。二日酔いでも美しいですよ」

 ちゅ、とふっくらした唇が私の瞼の下に軽く触れていった。温かな体温がゆっくりと触れ、そして離れていく。気障なセリフを吐いているうちは、全く可愛くない男である。彼は挑発的に片眉を持ち上げて「隈もお似合いですし」なんて皮肉を言う。自らの指が、反射的に先ほどキスされた場所を擦った。

「今日は可愛くないほうのバーボンだわ」
「ええ、それは残念です」
「どの口が言ってんの」

 しゅん、と眉を下げて胸の前で手が組まれる。『ボクザンネンデス〜』みたいな顔をしているが、その態度に関しては大変腹が立った。私はぺち、とその頬を軽くはたいて彼の隣を通り過ぎようとする。

「……携帯」

 私がその横を過ぎる間際、ぽつりとバーボンが呟いた。
 振り返りそうになる衝動を堪えて、「携帯?」と聞き返す。私がゆっくりと振り返ると、バーボンは机の上に戻したばかりのスマートフォンを見下げた。

「いえ、誰のかと思って」
「……さあ、ライとかじゃない?」
「ははは、そうなら今のうちに叩き壊しておこうかな」

 そのあとキッチンへと歩みを進める彼の背中を横目で見送った。どんな表情をしていたかは分からないが、洞察力の鋭い男だ。先ほどまでなかったスマートフォンの存在には気が付いたのだろう。

 ――バーボンの物なのだろうか。

 ちらりとその背中を覗き見るものの、一向に携帯に触れる気配はない。数秒見つめてから、諦めて自室に戻った。

 相変わらずマットレス一枚の自室に寝転び、天井を見つめる。
 バーボンは賢く、頭の回る男であった。ライやスコッチより、どちらかといえばじっくりと敵を見定め、様子を観察するようなタイプだ。そうであったから、先ほどスマートフォンのことに直ぐ触れてきたのが意外でならない。彼のものであれば、それこそ放置したまま餌のように放っておくような気がするのだ。

 もしかしたら、それほど焦っていたということなのかも。

 組織のための携帯であってもまずいだろうが、彼が仮にスパイであった場合、それとは別に本職の携帯電話を持っているはずだ。もしもそんな物を置き忘れたとしたら、気が気ではないだろう。

「……本当にそうなのかな」

 なんだか妙な気分だが、考え事をしていたら眠気が瞼を重たくした。
 何度か瞬くうちに次第にゆっくりと緩慢な動きになり、最後には目を閉じながら考えた。どうしてだか真っ暗な視界のなかに思い出すのは、いつか出会った少年のことだ。君は自由だから良いと、強い人だと、私をそう称した知らない少年のこと。

 彼が今の私を見たら、何と言うのだろうか。
 やっぱり強い人だと目を輝かせてくれるのだろうか。それとも――失望するだろうな。そんなことを考えながら、私は意識をゆっくりと沈めていった。





 次に目を覚ました時には、窓のない私の部屋は少し蒸し暑かった。今日はこの季節には珍しく、気温が高くなると今朝のニュースで流れていた。羽織っていたパーカーとジャージを脱ぎ捨てて、Tシャツ一枚とルームウェアのボクサーパンツでリビングの窓を開けに向かった。
 日差しが眩しい、時計を見れば十二時を少し回ったころだ。道理で腹が減ったと思った。ずっと俯せのまま眠っていたせいで固くなった肩をぐるぐると回し、跳ねた前髪をテレビ前に置いてあったピンで留めた。

 どうしようか、お腹は空いたけれど外に出る気にもなれない。まだ少し頭が鈍く痛んでいたからだ。
「出前でも取ろうかな〜……」
 カーテンを開け放ってベランダ前に座り込んでいたら、玄関の扉が開いた。足音は静かだから、スリッパを使う人物だ。この時点で候補は二人に絞られていた。

「うわっ」

 私の後ろ姿を見た声で、その人物は特定された。
 彼は少し調子を崩したように首を掻きながら、私のほうにビニールをちらつかせる。――「食べる?」なんて聞かれて、私はリビングのソファに座り直した。

「なんでパンツのまま?」
「良いじゃん。ボクサーだし、セーフでしょ」
「セーフ……なのか。ソレ」

 解せないような反応のまま、どうやら買い出しに出ていたらしい近くのパン屋のサンドイッチを取り出した。卵とハムのシンプルなものだが、パンには軽く焦げ目がついている。

「バーボンはもう出かけたのかな」
「さあ……ああ、でも明日まで仕事だとは聞いてる」
「そっか、じゃあ入れ違いだったね」

 さっきまでいたのに、と言えばスコッチは苦く笑ってペットボトルの蓋をペキリと捩じり切った。ぷしゅ、と炭酸が空気中に零れる音が抜けていった。

「あのなあ、オレとアイツは別に友達じゃないんだから」
「でも仲良いじゃん」
「まあ、他の奴に比べれば任務とかよく被ったし」

 透明な炭酸水は、彼がぐっと煽るとその口元から逃れるように気泡を上へと逃していった。首はさほど太くなかったけれど、ぼこっと飛び出た大きな喉仏がゴクンと鳴る。

「アイツは……怖い男だしな」

 苦笑いしながらそう告げるスコッチの表情に、棘はない。
 私には向けられている、冷たさだとか鋭さが感じ取れなかったのだ。怖い男だと言いながら、どこか満更でもなさそうに笑っている。認めているのだと思った。組織だ何だと言っても、仕事仲間としては信頼における人間なのだろう。


「……」


 どうしてか、それを聞いたら心がムカムカとする。
 足の親指が、モゾモゾと忙しなく動いた。まるで貧乏ゆすりだ。サンドイッチを頬張りながら「へえ」と素っ気なく返した。一体何に苛立っているというのだろう。彼のことを考えるとこんなことばかりだ。

 もぐっと大きく一口を頬張ってスコッチから視線を逸らす。――そして、アっと声を上げた。

「どうした」
「ううん、ちょっと……トイレ」

 サンドイッチをテーブルの上に置いて、トイレまで向かう道中、部屋を見渡した。

 ――ない。

 スマートフォンが、どこにもない。確かにリビングに置いておいたのに。私は持っていないのだから、誰かが回収したのだ。水没して使い物にならない壊れた携帯電話を。
 まさか、本当にバーボンがそうなのか。だとしたら、あんなに分かりやすく私に携帯電話の存在を尋ねるだろうか。私がもしも携帯のことを知らなかったら、あんな小さく薄っぺらな物を印象付けるだけで逆効果である。

 でも、じゃあ、誰が――。

 私はそう考えてから、ベルモットに連絡を取った。監視カメラの映像を送ってもらうように伝えると、その翌日には動画データが送られてきた。私は近くのネットカフェで、その映像を閲覧することにしたのだ。