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 知らないフリをするといったのに――。
 私は一人肩を落とした。これでは、犯人を見つけにかかっているようじゃあないか。否、本来はそれで合っているのか。あそこで現実から目を逸らしたのが、やはり間違いだったのか。今となってはどちらが正解であったのか定かじゃなくて、ただ送られたファイルを開きながら頭を掻きむしった。
 ベルモットにファイルを要求してしまったからには、一応目を通すだけはしないと。私は先日の日付を開いた。ちょうどスマートフォンを置き忘れたであろう日にちと、その後スマートフォンを私が戻した日にちだ。

 マウスを動かしながら、時間を進めていく。置き去りにされていた時も戻した時も、スマートフォンの場所は変えていないのですぐに見当たった。まあ、黒いスマートフォンなので横置きにされていると些か見づらくはあるものの。もしかしたら、それを知らない人間が見ていれば気が付かないかもしれない。

 その周囲に注目しながら、映像を見進めていく。ブルーライトが頬を照らした。

「……え?」

 二日分のファイルを見終えて、私は眉を顰める。それから最初に巻き戻し、もう一度確認するように再生を押した。見間違いかと思ったが、何度見ても映像は変わらない。スマートフォンを置いた人物も、持ち去った人物も存在していない――。少なくとも、カメラの映像の中にはいなかった。

 ただ不自然にスマートフォンが現れるところを見ると、映像を切り取られていると考えるのが正しいだろう。それはずいぶん決定的な肯定であったように思う。だって、映像を切り取った――ということは、それだけあの携帯の持ち主にやましいことがあるということだ。それが自分のものだとバレてしまっては支障が出ることがあったに違いない。

 ――だとしたら、その人物こそ裏切り者だと言っても過言ではないのではないか。

 どうにか他の角度から確認できないものかと、カメラの映像を見て回ったが、ピッタシその時刻だけは切り取られていたのでどうしようもなかった。そんな簡単に尻尾が掴めたら世話はないか。

 それでも、今回のことは大きな収穫だ。
 この映像を調べたら、誰が持ち主かはおのずと割り出せる。――自ら故障させ手放したスマートフォンと、監視カメラの映像。本当に私は何がしたいのだか、自分でもよく分からない。
 特定することを恐れているのだろうか。――何故? その人物さえ割り出せば、一千万円が手に入る。こんな命を晒した仕事とも早々に手を切れる。悪いことのほうが見つからない。

 ままならない自分の感情に苛立った。やっぱり、早く見つけてしまおう。このままでは私のポリシーが引っ繰り返ってしまう。私にとって大切なのは道徳よりも欲だ。金をもらって、ゆったりとバカンスしながら引退後を過ごす。もう二度と、あちら側には戻らない。

 映像を垂れ流しながら悶々と考え事を繰り返していた時、ふと先ほどまでとは違う角度のカメラ映像が流れ始めた。どうせこの角度でも見えていないものは見えていないのだから――そう諦めて映像を眺める。
 
 その映像は、他のものと少し異なった。
 スマートフォンがある机は映っておらず、その所為なのか他のカメラでは切り取られている時間帯もしっかりと映し出されていた。(誰も、人は映っていないけれど。)
 せめてこのカメラに録音機能でもついていたら、ヒントの一つにでもなるだろうに。そう思いながら適度に飛ばしながら映像を眺めていた。やっぱり、他の映像とは尺の長さが異なる。せめて適当な映像でも挟んでおけば良いのに、仕事が雑だ。否、効率的とも言うかもしれない。

 その本当に一瞬だった。
 
 私が欠伸を零しながらちょうどカーソルを動かしたときに、チラっと目に何かが反射した――ように思う。一瞬すぎて分からなかったが、私はその眩さに覚えがあった。カチカチと巻き戻して、他の映像と重ね合わせる。他のものではカットされている時間帯だ。――キッチンのカウンターに置かれたスプーンに、ちらりと何かが反射しているのが見えた。

「……バーボン」

 その一瞬だったが、見間違うはずのないブロンドだ。
 私は慌てて、もう一つの日にちを見直した。バーボンが映っていたのは携帯を回収する日だ。なら、置いたのも彼なのだろうか。しかし、そちらには彼の姿は映っていなかった。私はまさかと思いながらも映像を真剣に見つめる。拡大すると画質が荒い。どうにか高画質にできたら、もう少し鮮明に彼の髪色が映りそうな――。


 コン、コン


 マウスのホイールをからからと動かしているときに、扉がノックされた。
 ――このネットカフェに来たのは初めてだったが、系列店だったのでシステムは分かっている。時間が迫っている時には画面に表示されるはずだ。ならば誰かがルームサービスを頼んだものを、間違えて運んできたのか。

 そう思って、「はい」と適当に返事をした。
 今の私には、背後に訪れる店員よりも目の前の映像のほうが大切だったのだ。まさか、本当にバーボンが――? いや、分からない。この時間に偶然映っていただけかもしれない。その前後が分からない以上、手がかりではあれど証拠にはならないだろう。特にこの日、バーボンは私が部屋に戻ってから一人リビングにいたはずなので、偶々映っていたという可能性は捨てきれない。
 それでも、もしかしたら――そんな疑いが胸を渦巻いた。無意識に親指の爪をガジガジと噛みながら映像を進めて、


「……本当に、殺しには向いてないな。君」


 びくっと肩が震えたのは、輪郭に冷たい何かが押し付けられたからだ。ゆっくりと見下げて、鋭い刃先が光るのを視界に捉える。

「……スコッチ」

 私は訳も分からず、恐らく背後に立っているだろう男を視線だけで一瞥した。
 ――映像に映っていたのは、バーボンだった。それだけは確かなはずだ。間違ってもスコッチではなかっただろう。だとしたら、一体何が彼の都合に悪かったというのだ。バーボンの――。

「それから、隠し事にも向いてないな」

 彼の声色は冷たかったけれど、口調は穏やかなままだった。「考えていることが丸わかりだ」、まるで世間話でもするような笑い方で彼は笑う。

「そういう世界で生きてなかったことがよく分かるよ」
「……これでもプロなんだけど?」
「でも、殺しとは無縁だった。違うか?」

 そう言われて、私は押し黙ることしかできなかった。確かに警察沙汰とは常に隣り合わせではあったものの、直接的な命のやり取りがすぐ傍にあったわけではない。今みたいに凶器を突き付けられることだってなかった。

「あの携帯電話、スコッチの?」

 私が前を向いたまま尋ねると、スコッチが小さく頷いた気配がする。隠すことはしない――ということは、私を殺す気なのだろうか。自然とつばを飲み込むのを忘れていて、喉が渇いた。

 ――不思議だ。

 これは本当に不思議なことだが、抗おうという気概が湧かなかった。命がどうでも良いわけではない。そんなどうでも良いと思っていたら、こんな危険な仕事に手を出していない。
 だが、スコッチの穏やかな声色を聞いていたらどうにも彼に必死で抵抗する気が失せてきたのだ。彼ならば、きっとスッパリと苦しまないままに殺してくれることだろう。最後の最後まで、私らしさを見失わせる天才だ。

 私が静かに肩の力を抜くと、スコッチは訝し気な表情のまま画面越しに私を覗き込んだ。それから、彼が荒く息を吐いたのが分かる。ぐっと肩を掴まれる。体がひっくり返されて、キーボードが乗ったテーブルに背中を思い切り押し付けられた。ガシャッ、マウスがテーブルから落ちたのを横目で見た。

「い、った……」
「……本当に、腹が立つな。君は」

 被っていたフードをぱさっと取ると、吊り上がった眦が覗いた。薄っぺらい唇が、私には理解しえない感情のままに引き攣っている。私はその表情を見て、彼がナイフを沿わせてから初めて反抗的に鼻を鳴らしたのだ。