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 私のことを見据えた男は、ミステリアスでもなく、可愛げがあるわけでもなく、ただ複雑そうに表情を歪ませた一人の人間であった。

 ――果たして本当にそうなのかは分からないが、その時初めて、私はスコッチという男と対話をしてような。何となく、そんな気がした。私のスウェットに縋るようにしがみつき、眉を顰めながらも彼の持つナイフは首元へと滑ってゆく。

「本当に、腹が立つ。最初見た時からそうだ、オレは君が嫌いだ」

 軽蔑したように涼やかな目つきが私を見下す。今まで堪えていたものを、抑える必要はなくなったと言わんがばかりに彼は言葉を続けていった。伸し掛かるように近づけた鼻先が、ツン、と私の鼻先に触れる。冷たい肌だった。黒よりも僅かに薄い虹彩が、ブルーライトに照らされて青く光っているようだ。

「――……スコッチの不利になるようなこと、した覚えないけど」
「ムシャクシャするんだ、悪人にもなりきれないようなその態度が。人を陥れる癖に、妙に活き活きとしている君の生き方が」
「そんなの……」

 そんなの、私だってそうだ。
 悪人とも言いきれないスコッチの姿に、どれだけ感情を搔き乱されたことか。私らしくないと思いながらも、そんな自分に何度腹が立っていたことか。私が僅かに眉を顰めると、彼は決して大きくない瞳を細め、一層眩そうに顔を歪めた。眉間に浅く皺が寄る。


「アイツの想いが少しでも君に割かれるのにも……、全部に腹が立ってくる」


 私は苦し気な声に「アイツ?」とオウム返しで尋ねた。スコッチはそれ以上何も返さなかったが、静かに口を噤む。失言――というわけではなさそうだ。どちらかというと、今まで隠していたものを隠すのをやめた、というような。溜まっていた感情が零れて、ようやく我に返ったような沈黙であった。


 分からないことばかりの中で、一つだけ妙に確信できた。


 ――彼は、スコッチは裏切り者だ。


 それは証拠があったわけでもなく、彼の態度を見ての私の中の勘であった。けれど、長年信頼してきた自らの勘だ。
 あれだけ理解できなかった彼の行動が、今ならば飲み込める。私が彼のことを理解できなかったのは、恐らく彼が善人だからである。そして、それを隠しおおせていないからだ。私のことを邪魔で疎ましいと思いながらも見捨てることができなかった。そして今、自分ではなく誰かのために心を割いている。そんな根っからの善人であったからだろう。
 私とは真反対の人間が、私たちのような悪人側のガワを無理くりに被っていたから違和感があったのだ。
 それが分かったら、どこか胸の内はスッキリとしていた。すっかり脱力した私を見て、スコッチは益々疎ましそうな感情を表に出す。

「ここで悪人らしく命乞いしてくれたら、楽なのにな」
「……でも、殺すつもりじゃないんでしょ」
「妙に賢いところも嫌いだ……ああ。殺す気はないよ」

 彼はナイフをくるりと手慣れた手つきで引っ込めた。重たくため息をつくと、私の上から体を退かす。そして先ほどまで私が腰かけていたチェアに腰を掛ける。私は座る場所もなかったので、パソコンがあるデスクに軽く凭れた。
 ハァ、と小さく息をつくと、彼の無骨な手が乱れた衣服を軽く直していった。――そういうところだ。私がずっと理解しえなかった彼の行動。これも全て、スコッチという男の心の底からの行動なのか。いや、そう考えたら益々理解しえないかもしれない。

 スコッチは煙草を咥えてライターを探し――数秒考えてから溜息と共にそれを口から離した。ここがネットカフェだったことを思い出したのだろう。彼はまるでどこぞの安楽椅子探偵のように座り直し、私を見上げるようにした。不機嫌そうにしていると、何とも目つきが悪く見える人相をしている。

「オレは君と取引がしたい」
「取引?」
「ああ。もちろん、ソッチにも利はあるはずだ」

 言うなり、彼は懐から何かを取り出してデスクに置いた。一つはスマートフォン――、私が故障させたものと同じ機種だ。そのものなのか、類似させたものなのかは分からない。もう一つはSDメモリーだ。容量はさして大きくない、せいぜい家庭用のカメラレベルだろう。

「オレがミチルさんに提示したい条件は一つ」
「……一つ?」
「たった一つだよ。けれど、その条件を口外だけはしないでくれ」

 ――まあ、それは私が決めることだけれど。
 そう思いながら頷けば、スコッチはそんな私の考えを見透かしたように笑った。相変わらず、笑うと人の好さが滲み出るような、やや柔らかな雰囲気がある。彼は一通り笑ってから、静かに瞼を閉じ、ゆっくりと持ち上げた。瞼が薄いのだろう、閉じると血管が浮いているのが分かる。


「裏切り者は、オレだと報告してほしい」


 間抜けに「へ」と吐息が漏れた。
 彼はゆったりと微笑み「簡単だろ」と肩を竦める。確かに簡単だ。私の仕事は裏切り者を見つけることだ。最初から本当の裏切り者など見つける気はなかった。そんな能力は私にはないからだ。だから、適当な人物を矢面に立たせてしまおうと、そう思っていたのは事実だ。

 だから。それが事実であろうとなかろうと、スコッチが矢面に立ってくれるというのならばそれに越したことはない。私が戸惑っていると、その背中を押すように彼はデスクに出したスマートフォンを指さした。


「こっちは君が拾ったオレのスマートフォンと同じものだ。中には裏切り者だと分かるような連絡のやり取りも入っている。こっちは監視カメラの映像を加工したデータ。君が見ていたものの切り取った映像に、オレの姿を映しこませた」
「……いや、待って。なんでスコッチがそんな」
「これだけあれば、組織がオレを裏切り者だと断じるのには足りるだろ? まあ、多少出来すぎた感じはあるが……そこを誤魔化すのは得意分野のはずだ」


 確かに、それだけの材料があれば後は口先でどうにかできる自信がある。それで報酬をもらえば、私の仕事は終わりだ。与えられたものを報告するだけ、仕事と呼べるかどうかも定かじゃない。
 大体、そんなの私にしかメリットがないじゃないか。彼はその報告の後、間違いなく組織に消されるのだろう。だというのに、どうしてそんな条件を出すのか。

 なんで、と口にする前に、スコッチはゆるゆると首を振った。
「それは知らなくて良い。オレが提示する条件はこれだけ。オレが裏切り者だと、これで仕事は終わったと――そう報告してくれ」
「そりゃ……良いけど」
 煮え切らない態度でそう返せば、猫のような目つきがニコっと笑った。結局のところ、理解しづらい男であることには変わりないようだ。

 スコッチは立ち上がると、私に向かって手のひらを差し出した。
 私が呆然とその手を見つめていたら、彼は不思議そうに「握手だよ」と促した。違う、別に握手を知らなかったわけでも気づかなかったわけでもないのだ! ただ、なんでこのタイミングで握手なのだと疑問に思っていただけだった。
 スコッチはそんな私の疑問など素知らぬ態度で、控えめに伸ばした私の手を軽く握った。鼻先はあんなに冷たかったのに、手のひらは私の体温よりも少し温かだった。温いなあ、と感じる。

「改めてよろしく、ミチルさん」

 今度は、以前とは違う。私のことを気に食わないという感情を瞳の奥に乗せたまま、彼は笑っていた。以前よりは、彼のことが分かりそうな――そんな気もする。

「よろしく。スコッチ――、本当は何て言うの?」
「スコッチで良いよ。君だって本名じゃないだろ」

 笑う彼に、私は少しだけ口元を緩ませた。
 スコッチが提示した期間は一か月後。彼を死に追いやるであろう報告をするまで、あと三十一日だ。