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 一目見た時に、妙な雰囲気の女だとは思っていた。
 悪口というわけではない。ただ、際立って美人かと言われればそうでもないのに、彼女の風貌はやけに人の目を引いた。線で描いたようにくっきりとした二重と、小ぶりな鼻、薄い上唇。ハーフだかクォーターだか、外人の血が混ざっていることはその瞳と顔だちで感じ取れた。眉毛は少し薄くて、それが彼女の愛想を悪そうに見せる。

 けれど、特段変人といった印象もない。
 噂に聞く限りは異様な経歴の持ち主であったし、少し裏の世界に足を突っ込んでいれば誰もが知るような情報通でもあった。のんきに欠伸をする彼女からそんな雰囲気はなくて、恐らく経歴自体は嘘なのだろうと予想はつく。

 こちらが用意したものを何の躊躇もなく食べる。気配に疎い。刃物の切っ先が急所に向いても反応の一つも返さない。オレの煙草に口をつける。

 少し一緒に過ごしただけで、いくつも思い当たる点はある。――ならば彼女は何なのかと言われると、それは分からなかった。何のために、どうやって経歴を詐称しているのか。分からなかったが、分かったこともある。

 彼女は根っからの悪人であった。極悪人というわけではない。
 自分のために生きている。そのために誰かが犠牲になることも、人に不利をもたらすことにも何の感慨も湧かない。その割りに自身には甘く、組織に監視されている状況下でも自由に伸び伸びと感情を表していた。

 
 最初は、そんな彼女を見て僅かに羨望を抱いていた。
 よくも、まあ、こんな環境で自由にできるものだ。呆れと驚愕と伴って、ああなれれば楽だろうと感じた。同じく嘘をついている身だ。その窮屈さは知っていた。なのに、何も感じさせない姿は気ままな野良猫のようだと思った。


 羨望が苛立ちに変わるのに、時間はかからなかった。
 人間とは欲があるものだ。オレが上手くいっていないのに、どうしてアイツだけ。そんな妬みそねみが始まりだったと思う。
 ジンやベルモットたちとは違う。彼らには悪人なりのポリシーがあり、プライドがあり、覚悟がある。勿論それを良しとしているわけではなく、彼女にはそれがないから尚腹が立ったのだ。
 
 悪人なら、いっそ悪人らしくあってくれ。
 そうしたら、憧れることもないのに。同情することだって、心が揺らぐことだってない。自分の弱みを握られたからとすぐに殺すことだってできる。

 そう思うには、彼女はあまりに人間味に溢れていた。
 伸び伸びと、クルクルと感情が変わる。意地悪っぽく笑ったり、恥じらったり、ムカっと鼻に来たような態度をとったり。

 オレは腹が立つだけだった。自分とのギャップに苛立たしく思うだけだったが――アイツは違った。アイツは、その憧れに時折眩そうに瞳を細めた。自分の持っていない彼女の奔放さに、心が揺らいでいるのはオレが一番よく分かっていた。


「……好きなのか」


 いつだか、彼女にしたように、アイツにもそう尋ねたことがある。
 煙草を指に挟みながら、さも興味のないように尋ねたが、動揺は指先の震えで分かってしまっただろう。彼は驚いたように、幼いころから見慣れたグレーの瞳を丸くした。それからブロンドの髪を掻き上げて、困ったように眉を下げた。

「好き、ねえ。貴方からそんな言葉が出るとは思いませんでした」
「茶化すなよ。真剣に聞いてるんだから」
「本気で? あはは、可笑しい」

 一体どこの盗聴をしていたのだか、彼は耳につけていたコードを外しながら笑った。――良かった、いつもの彼だ。心底安堵して小さく口角を持ち上げた。そんなオレの横顔に目もくれず、彼はビルの屋上で風を受けて、伸びてきた髪を払った。


「……自由な人ですよね。それが偶に傷でもありますが」


 ふわっと髪を揺らしながら、柔く瞳が細められる。夕日の眩いほどのオレンジを映して、瞳がキラリと輝いて見えた。涙袋が持ち上がる。
 
 ――その顔を見て、今すぐに泣き出しそうなほど、腸を吐き出しそうなほどショックを受けていた。

 彼の性格や信念を、幼いころから知っている。
 純粋で正義感が強く、真っすぐな男だった。いつだって頭の中に計算機でもあるように利益と不利益を計算できて、そしてその判断は間違ったことはなかった。最もスマートな解決方法を導くことができる、それを彼自身誇りに思っていた。
 すべての正義が叶うなどと綺麗ごとを言うつもりはないが、それでも確かに彼の掲げる正義はいつだって美しく正しかった。オレには、そう見えていた。

 まさか――あの、あの女だぞ!!
 彼とは真逆にいるような女だ。自分のことだけを考えて、善人から甘い蜜を吸うことに躊躇いもない。そんな女に、まさか、お前が。

 それでも表情が雄弁に語る。彼女の自由な背中を、気まぐれな笑顔を、彼が多少なりと愛おしいと思っていると――彼女を思い出して僅かに微笑んだ頬が語っていた。


 その頃からだ。
 今までは嫉妬の対象だった彼女に、嫌悪の感情が湧いた。こんな女に、理想を崩されて堪るかと思った。何も知らない、こんな女に。こんな女に――!!!


『スコッチ……』


 弱弱しく、いつもはニヤニヤと笑っていた気まぐれそうな口角が震えた。
 公衆トイレで彼女を見つけた時、このまま殺してしまおうと思っていた。状況的にも不自然ではないだろうし、相手は善人でもない。どのみち今の潜入捜査に、彼女は邪魔だ。

 だから、そんなに助けを求めるような瞳でこちらを見ないでくれ。
 くすんだブルーの瞳が、オレを見上げる。嫌いだと思った。何なら、憎いとまで思ったかもしれない。けれど、その時に確信する。オレに彼女を殺すことはできない。感情とは別に、そう思った。

 だから、共犯にしてしまうしかないと思ったのだ。
 殺すことができないなら、いっそオレの共犯にしてしまおう。この罪を一緒に背負わせてしまおう。オレの一番の親友の心を奪ったのだから、そのくらいは許されるだろう。

 
 スマートフォンを置き去りにしたのはわざとだ。
 バーボンの姿が映る位置に反射するスプーンを置いたのも、荒々しい映像を切り取ったのも。恐らく彼女がどれかには食いつくだろうと予想して準備した物だった。このまま上手くいくと良いが――否、上手くいかせるのだ。オレと彼女しか知らない、一か月後の契約だ。
 オレの決死の覚悟を知ってか知らずか、ネットカフェから帰る途中で彼女はググっと伸びをしながら欠伸を零した。オレがちらりと見下げると、「いや、ちょっと目が疲れちゃって」などと笑うのだ。――ああ、嫌いだなあと。竦められた小さな肩を見ながら、呆れて溜息を一つ吐いた。

「うわ〜、感じ悪い。溜息とか」
「はいはい、分かったよ……」
「分かってないじゃん」

 ケラケラと大口を開けて笑う横顔は、灯り始めた街灯が眩く、逆光になっていた。笑った時に盛り上がった頬にだけ明かりが落ちて、肌の白さがスポットライトのように際立つ。隣を歩くときに軽く触れあった指先は、火傷しそうなほど熱いように感じた。