36


 翌日から、私と彼の間には奇妙な空気間があった。勿論他のメンバーがいる時はいつも通りを装っていたが、二人になるとピタリと話すことを止めてしまう。確かベルモットの仕掛けた防犯カメラには盗聴機能がなかったので、彼も繕うことを止めたのだろう。明らかに私とは話したくなさそうな――以前までのコミュニケーション過多なベラベラ喋る陽気な男は身を潜めてしまった。

 そんな険悪そうな雰囲気だけれど、私は嫌いではなかった。
 腹が立つ、立たないというよりも、彼に抱いていた気味悪さが消えて接しやすくなった。御しやすいというのか――向こうが私を嫌いだとハッキリ分かっていれば、私も動きやすい。以前はそれをひた隠しながら、さも好意があるかのように振舞っていたから(いたのか――? 少なくとも私にはそう見えた。下心かもしれないが)感情が掴めず、それが私には恐ろしかった。


「……何?」


 私が視線を送っていたことに気づいたのだろう、スマートフォンに視線を滑らせていたスコッチが視線だけを疎まし気にこちらに向けた。ツンとした吊り目は、いつもの人の好さそうな笑みを消すと涼やか――というよりは冷たそうな表情にも見えた。普段からこの表情だったら、人殺し組織の一員だと言われても納得できるかもしれない。

「ねえ、スコッチって本当は何者なの」

 ふと尋ねると、睨むような視線が返ってきた。そんな顔をされたって、スコッチだって盗聴器がないことを確認して今の態度をしているわけだし、監視カメラの死角になることを分かってそんな表情をしているわけだから良いだろう。私が軽く肩を竦めたら、彼は膝をソファの上に抱え直した。


「言っておくけど、君を信用してはいないし、話す義務も特にない」
「分かってるけど。気になるものは気になるでしょ?」


 そう言ってはみたが、スコッチはそれ以上返事を返さなかった。無表情ですいすいとスマートフォンを弄るだけだ。私はつまらないの、と鼻を鳴らす。「スコッチ〜」と呼びかけても完全に無視を決め込んできたので、だんだん悪戯心が膨れ上がってくる。人に嫌がられるとつい応えたくなってしまうのは、もしかしたらスコッチの言う通り悪人の性というやつだろうか。

 私はその場で履いていたショートパンツをぽいっと脱ぎ去った。彼が以前、極端に隠しきれない反応をしたことを覚えていたからだ。案の定、その口元が「ムッ」と引き攣った。何とか表情を誤魔化そうとしたのだろう、すぐに目に対して小さめの瞳が逸らされる。Tシャツをぐっと引き延ばして膝を抱え、わざと内またに座ってやった。Tシャツと太ももの隙間からパンツを覗かせてみたら、スコッチが薄い瞼をぐっと閉じて「おい」と僅かに声を上げる。

「えぇ〜、ズボン履く義務も特にないじゃん」
「あのなァ……」
「履いてほしかったら、ヒントちょうだい」

 ニコっと営業スマイルで応えれば、スコッチは指で眉間の皺をぎゅうと揉んだ。なんだ、そんなに人のパイパンを見たくないのだろうか。手入れもしてるし汚くも臭くもないとは思うんだけれど。
 そう思うけれど、気分も良かった。先ほどまで無表情だったというのに、アっという間にその薄っぺらい耳たぶや襟足が真っ赤に染まるのが分かるからだ。彼の他人に対する妙なお人よしと同じで、これも恐らく彼の素面なのだろうと思う。

「ていうか、そんなのでベルモットとか直視できるの?」
「いや、あれはもう……別物というか。女優の写真みたいだろ」
「成程、海外ポルノじゃ抜けないってことね……」
「違う! ああ、もう……」

 鬱陶しそうに黒く細い髪が搔きむしられる。私はそれを見て両手で頬杖をつきながらケラケラと笑った。先日はナイフを突き付けて、カモフラージュでセックスのフリまでした男がパンツ一つでこれだけ顔色をコロコロ変えるのだ。気分が良い。

「クソ、分かったよ。じゃあ質問にイエスかノーで答える。それで良いだろ?」

 妥協案とばかりに言い放った男に、私はしょうがないとショートパンツを履いてやることにした。もそもそとヒップをタイト目なウェストに押し込んでから、どさっと彼の隣に距離を詰めて座った。ソファが、小さく沈む。当たり前だが、彼の方が重いので、さほど此方には傾かなかった。

「オッケー、じゃあ……う〜ん。生まれは日本?」
「イエス」
「成程ね、ズバリ東都生まれ!」
「ノーだ」

 彼のイエス、ノークイズは難しい。
 本当にその二つの返事しかくれなかったし、声の抑揚もつかないからだ。試しに瞳孔を覗き込んでみたけれど、さすがのポーカーフェイスで読み取ることはできなかった。心の準備ができていれば、彼のポーカーフェイスは岩のように固い。(これからは、パンツは切り札に取っておくとしよう。)

 日本で、組織へ潜入して利があると思うと――例えば他の経済組織であったり、ヤクザであったり。ベルモットやバーボンたちを見る限り、この組織はかなりグローバルなもののようだから、シノギを削られた日本の裏組織かもしれない。――いや、別に生まれが日本だからって、所属組織が日本とは限らないしなあ。

 そう思うとイエスノーで狭めるのは中々難しくて、気が付けばくだらない質問ばかり繰り返していた。

「童貞?」
「ノー」
「好きなタイプはショートヘア」
「……ノーコメント」

 それは有りなのか? 不満を抱いたけれど、僅かな沈黙は恐らく肯定だっただろう。切り揃った私の髪を摘まんで「可愛いと思う?」と尋ねると、彼は一度視線をこちらに寄こしてから鼻を鳴らした。

「何それ、スコッチが切らせたくせに」
「別に切らせたわけじゃないだろ! 第一、包丁で髪切る奴がいるか、普通!」
「だってハサミなかったんだもん! 今だってスコッチがハサミどっか隠してるでしょ!?」
「ミチルさんに持たせたらとんでもないことになりそうだから回収してるんだよ! 赤ん坊にナイフ持たせるのと同じだ!!」
「ハァ〜!? 赤ん坊には刃物を持たせないんじゃなくて刃物の使い方を教えるんですゥ、本に書いてあったんだから!!」

 何の本だよ! 子育ての本! そんなもの読む必要ないだろ! 仕事で必要な知識だったの! ――……彼の正体を探るための質問が、いつのまにか世界一くだらない口喧嘩に変わっていた。一通り言いつくした後、スコッチの睨みつけるような視線と目が合って、私もキっと彼を睨みつけた。
 私のことが嫌いなのは分かったが、こんな子どもみたいに食い下がらなくても良いじゃないか。
 以前のスコッチからは想像もできない問答に、小さく鼻を鳴らして、私がかぷっと軽く彼の鼻頭に噛みついた。グニ、鼻の先端に前歯が食い込む。


「いッ……!?」


 ずさっと後ずさった姿を見て満足してから、玄関から第三者の声を感じてぱっとソファを立ち上がった。静かな足音、恐らくバーボンだ。丁度いい、このやや荒んだ心を癒してもらおう。

 私はさっそく廊下に向かって顔を出す。予想していた通りのグレーの瞳が、キョトンと私を見下ろしていた。恐らく仕事帰りなのだろう、黒いシャツに白のパンツ、顎にマスクをつけているから顔がより一層小さく見える。

「……どうかしましたか?」
「ううん、別に。バーボンの可愛い顔見て癒されに来ただけ」
「ふ、何です、それ……」

 口元を押さえて、彼はスコッチのものよりややふっくらとした唇を綻ばせた。「可笑しな人だ」と笑った時と同じ、苦笑交じりの柔らかな表情。

「今日は可愛いバーボンの日?」
「さあ、別に自分で意識してるわけではないので……」

 つけていたマスクを外すと、彼はちらっとリビングを一瞥しながら自らの部屋に戻っていった。スコッチはその間、すっかり元に戻ってしまったようにスマートフォンを眺めていた。