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『……死んだ?』

 小さく開いた唇から、先ほど聞いたばかりの言葉を反復した。目の前にいる男は煙草を咥えて、鬱陶しそうにこちらを見上げる。よくアパートに出入りしていた、姉の仕事仲間だ。ロクな仕事をしていないのは知っていたが、当時まだ幼いと呼べただろう私の体をヒョイっと抱えた。

『そーだよ。死んだ、クスリのやりすぎだ。途中でポックリ逝っちまった』

 彼は肩を竦めて、事も無げに言った。
 ――良い姉ではなかった。私のことを守ったことも、世話を焼いたこともない。物心ついたころから一人で生きていた――と思っていた。実際にそうだ。彼女から金銭を分け与えられたことはなかった。食事だって、衣服だって、なんだって。

 ――才能あるよ。

 だけれど、忘れられなかった。「へぇ、死んだんだ」と冷静に見つめる私がいる裏側で、彼女が放った言葉が忘れられない。盗んできたものを見てやるなと褒めてくれた笑顔が、気が付けば隣に横たわっていた肢体が。何度もリプレイするように、鮮明に思い返すことができた。

 気づくと私は、その男を殴っていた。
 嘘だ。クスリのやりすぎで死んだなんて、嘘。姉はロクでもない人だった。きっとたくさんの悪いことをしてきた。だけれど、賢い人だった。馬鹿ではなかった! 何より、私と同じように――いつかこんな生活から逃れてやろうという野心があったことを、知っている。

 何度も殴られた。生意気なガキだと、アパートを追い出されて階段を転がされた。
 ――嘘、嘘、嘘、嘘だ! 嘘ばっかり!!
 私が彼を睨みつけると、面倒くさそうに男は舌を打つ。
『ったく、アイツそっくりだな……』
 一人ごちる言葉を聞いて、ああ、姉はコイツに殺されたのだと分かった。恨んでいるわけではない。だって、良い姉ではなかったもの。いてもいなくとも、変わらない。私にとって彼女は家賃の折半相手程度のものだ。


 だけど、悔しかった――。


 彼女は、たぶんコイツに搾取されてしまったのだ。嵌められた。知恵が、金がなかったから、嵌められた! だから、だから――!!


『そんなに頑張らなくても良いんじゃない?』


 我武者羅に金を稼ぎ続ける私の前に現れた男は、私が今まで出会ったどんな男よりも穏やかな物腰をしていた。悠々としていて、余裕があった。頬杖をついて、笑うと目じりに小さく皺が寄る。

 頑張らなくても、良い――? でも、頑張らないと、私は一生こちら側のままだ。姉のように、搾取されて、殺されて終わる一生なんて嫌だ!!


『良いよ。その時は、俺が一緒にいてあげる』


 ――本当に? 私がみずぼらしくても、お金がなくても、馬鹿でも。本当に、一緒にいてくれるの。私がボロボロと涙を零して話すと、彼はいつものように柔らかくて苦笑交じりの笑顔で答えた。

『うん。良いよ。一緒にいよう』

 じゃあ、良いかなあ。別に犯罪だって好きでやってるわけじゃないし、人を騙してお金稼ぐのって疲れるし。誰かが一緒だったら、あの笑い声を聞いてももう大丈夫だ。きっと、きっと――。


『……ふ、馬鹿な奴』


 酒で意識が朦朧とする中、いつものように目元を細める男を見た。目じりに小さく皺が寄る。

 ――ッああぁああ〜!!! ふざけるな!! ふざけるな、ふざけるな!!!
 何が一緒にいるだ! 何が良いよだ! クソ、クソクソクソォ!! 返せ、私の金だ!!! 私が、私の将来のために、夢のためにかき集めた金だ!!


「ッ返せ、クソ野郎!!!!!!」


 ――ガンッ
 頭がぐわんっと揺れて、続けて額にじわじわと痛みが走り始めた。冷たい感触が伝わって、ようやく目の前の固い壁がフローリングだと気づく。痛い。打ち付けたらしい頭を押さえて痛みに耐えていたら、頭上から声が掛かる。


「……何してるんだ」


 スコッチの声だった。私は顔を上げるのを気まずく思いながらも、体を起こした。彼はソファの背もたれから顔を覗かせている。どうやら、ソファで転寝していたらそのまま引っ繰り返ってしまったようだ。

 私は寝癖を直してからもう一度ソファに掛け直す。
「ちょっと寝相悪くって……」
「ああ、そう」
 素っ気ない返答が返ってきた。まあ、期待はしていなかったけれど。柄にもなく重たい溜息が零れた。大体、元はと言えばあの馬鹿が私の金を盗っていったからこんなことになってしまったのだ。そう思うとひどく苛立たしい。

 ぼりぼりと首筋を掻いて、ぐっと伸びをしたら、腹の虫が鳴った。

 ――そういえば、今日は朝から何も食べていないのだっけ。
 腹を押さえていると、目の前を皿とカトラリーを持ったスコッチが通っていく。なんだろう、醤油と出汁と――大葉だろうか。和風の良い香りがする。別に他意はなかったのだけれど、私が空腹のときにそうやって前を横切るものだから、ついつい視線は皿のほうを追ってしまった。

 ぐう、ともう一度派手な音が鳴り響く。

 スコッチはやりづらそうに、眉を吊り上げた。それはそうだ、彼の部屋はない。そういう風に仕向けたのはスコッチ本人だが、彼はリビングで衣食住を済ませているのだから、今からどこでソレを食すのかと言えば此処なのだ。

 ――うわあ。湯気が立ってる。

 何だろう、パスタだ。茹でられたばかりのパスタの上に、大葉と大根おろしと縮緬雑魚が乗っている。ネギと大葉は刻んだのだろうか、私の知っているものより大分細かく切られている気がする。あれなら、ツルっと喉を通って行ってしまいそう。
 ふうふう、とスコッチの薄い唇が湯気を冷ます。
 ああ、勿体ない。くるくるとフォークにパスタを巻きつけて、その口元に運ばれていく。ホロリと大根おろしが零れて皿に落ちる。


「……あのさ」

 いよいよ一口食べるか、という直前に、スコッチはそのフォークを皿へ戻した。私が視線を上げたら、彼は大きく息をついて呆れたように私を見下ろす。

「そんなに見られると食いづらい」
「……ごめん。あったかいごはん見るの久しぶりで」
「冷食とか、コンビニとかでいくらでも食えるじゃないか」
「そりゃそうなんだけど……」

 正しく言えば、今目前にするまではそれほど温かさに惹かれてはいなかったのだ。美味しいものは好きだったけれど、温かいものを食べるには少し手間がいる。レンジで温めたり、コンビニの帰りに片手を塞いだり。それに何より、タダで手に入りづらいのだ。
 だったら、冷たいものだって別に良かった。パンやおにぎりで構わなかった。それを選んでいたのは私だ。

 だけど、すごく美味しそう。

 ごくん、と喉が大きく涎を飲み込んだ。視線を逸らせないままでいたら、スコッチは居心地悪そうにため息をついて、フォークをこちらに差し出した。


「一口やるから、アッチ向いててくれないか」


 そんな彼の提案に、私は顔をパっと上げた。視線を向けると、やっぱり所在なさそうに視線をさまよわせる。私相手に、どんな顔をしたら良いか分からない――だけど困っている人は放っておけないという、スコッチの心情が手に取るように分かった。

「……いーの? マジで?」

 無言。だけれど、差し出されたフォークだけはそのままだ。
 私は恐る恐るそれを手に取る。まだ湯気は空気を曇らせていた。暫くフォークを片手に固まってしまった。なんというか、普通に――すごく、感動していた。

「別に、毒が入ってると疑うなら食べなくても」
「お、美味しい〜!!」
「――あのなぁ……」
「ん? 何で怒ってんの」

 すごい、冷凍食品と全然違う。私は感動のままに「もしかしてスコッチが作ったの」と尋ねると、彼は「作ったっていうほどじゃない」と肩を落としため息交じりに告げた。美味しい、すごい! こんなものが、あんな手狭なキッチンから生み出されるのか。手品みたいだ。口の中に残った大葉の風味を楽しんでいたら、スコッチは私の方に皿を差し出した。

「あっちに残りがあるから、勝手にして」

 ツンと冷たい態度ではあったけれど、私には何よりの申し出である。ラッキーだと頬を綻ばせて皿を受け取ったら、やっぱり彼はため息をつく。嫌いな人間にも施しをやるなんて、よっぽど人好しな男なのだと改めて認識した。