先日の一件以来、私は事あるごとに彼の食事中に一口のお裾分けを頼み込むようになった。最初はあきれ果てて断っていた彼も、かれこれ一週間同じことを続けていたら断るのも面倒になったようで、いつのまにか私の分がラップをして冷蔵庫に入っているようになった。予想していなかったが、僥倖である。有難く今日のぶんのチャーハンを電子レンジで温めて、スプーンを手元でクルクルと回していた。
「……ていうか、生活感でたなあ」
最初来たときは、当たり前だが誰かが住んでいたという空気はなく、棚の中も埃が被りっきりだった。元より人の用意したものを食べないという彼らの警戒心もあり、部屋の中は暫くがらんとしていたものだ。三人とも、荷物も少なかったし。
それが、近頃はどうだ。シンクは(この几帳面さ、恐らくバーボンだと思うが――)使われたあとしっかり拭い取られていて、ベランダにはライが着たあとのYシャツが干されている。ソファの上にはスコッチが自分で用意したのだろう、就寝用に枕が置かれていた。
とてもじゃないが、もう一人ここに訪れた人間が初見で闇組織の人間が住んでいると見抜くのは難しいに違いない。
これは、気が抜けてきたと思うべきか。
それとも、一般人への擬態が上手いと褒めるべきか。
まあ良いか。最後まで気が抜けないと言えど、私にとってはもう関わりのない話だ。どうせあと一か月足らずでこの生活も終わるのだから。
強いて言うなら、この料理が食べられなくなるのは残念な気もする。
温め終わった皿をスウェットの袖越しに掴んで、テーブルへと向かいながらそう思った。彼はどうして、自分の名前を組織に売ろうとしているのだろうか。そんなことをすれば、間違いなく殺されてしまうのに。
理解できない。分からない。
取り繕うことをやめたスコッチと接すれば接するほど、その答えはでなかった。だって、別にこの世に絶望しているようにも、自殺願望があるようにも見えない。前に比べれば冷たい態度にはなったものの、こうやって料理だってするし、いつも通り仕事にも出かける。まるでもうすぐ死のうとしている男の行動には思えなかった。
――それも、関係ないといえばそうなんだけれど。
スコッチはそう言った。知る必要はないと。確かにそうだ、知る必要はない。
「……なんかな」
一つため息をついた。知る必要はないのだ。だが、このままスコッチが死んだら、なんだか得体の知れない幽霊がいなくなったような気分になってしまうというか。
必要はないかもしれないが、組織に彼のことを報告するまで時間もあるのだ。彼にとっては僅か一か月だろうが、私にとってはただの一か月間、仕事もないのだから。彼のことを知ってみるのも悪くはないかもしれないと思った。
正体とかそういうのではなく、彼が何を思って自ら死を選ぶような真似をするのか――それを知ってみても、良いのかもしれないと思ったのだ。
温めすぎたチャーハンは口の中で解れて、喉に熱を連れていく。私はそれを冷たい水で流し込んで、ホっとテレビを眺めながら息をついたのだった。
◇
「――なんだって?」
スコッチが、露骨に不機嫌さを表した表情で私を振り返った。そんな嫌そうな顔をしなくとも、と口を尖らせながら、私は彼の方に手を差し出した。
「だから。付き合ってよ、遊びに行こ」
先ほど告げた提案を繰り返すと、彼は思い切り溜息を零して「どうしてそうなる」と独り言のように呟く。どうしてと言われると――人を知るのに、それ以上の方法を知らなかったというか。だって、酒は飲んだし、ごはんも食べたし。あとは遊びに行くくらいしか残っていないじゃないか。
「忙しいんだよ、後にしてくれないか」
「ライに聞いたよ。明後日まで何の連絡も入ってないって」
「ライ……」
ばっとライの部屋のほうを睨んでいるが、無駄だ。彼は三時間ほど前に睡眠に入っている。ライが一度寝付くとその後半日は起きないという(――彼は、野生動物か何かなのか?)のは、私も彼も既知の事実だろう。
「大体、そんなことに付き合う理由は……」
「ない?」
「あたりま、えっ……!?」
私が彼の目の前で着ていたスウェットを脱ぎ去ろうと、裾に手を掛けると、大きな手が私の手にぐっと被さった。上に持ち上げようとする行動を必死にその手のひらが下へと引っ張る。
「すぐに脱ごうとするな、痴女じゃないんだから!」
「私は脱いだほうが涼しいし過ごしやすいから脱ごうとしてるだけなんだけど?」
「それをやめろって言ってるだろ。ライやバーボンだっているんだぞ」
「ライは反応しないでしょ……バーボンは……」
私は想像して、それはそれで面白そうだと思ってしまった。きっと一つ咳ばらいをしてから、あえて言及はしないかもしれない。けれど、きっとあの小麦の肌が僅かに血色づくことだろう。
それを想像していたのがスコッチには筒抜けだったのだろうか、彼は眉をゆがめて「やめてくれ」と冷静に告げ、それから首を掻きながら頷いた。
「分かった。付き合うよ……」
しょうがなし、といった風にかぶりを振りながら。私はニィっと笑ってから、小さくガッツポーズを握った。
「そうこなくちゃ。支度するからちょっと待ってて」
「はいはい」
パタパタと自室に戻る私を、スコッチは呆れたように見守った。
私は部屋に戻ると、着ていたスウェットからキャンティに選んでもらったばかりのワンピースに着替える。ジャージ素材の、体のラインが出るミニ丈のワンピースだ。ブーツはいつもより少し厚底のものを選んだ。
メイクはそれほどこだわる性質じゃない。眉毛を書いて、マスカラでぐりぐりと睫毛を上げ、リップを塗る。アイシャドウは――まあ適当だ。ブラッシュを頬に入れ、整髪料を指に揉みこませた。髪を掻き上げるようにセットして、急いでリビングに戻る。
スコッチは、キョトンとした表情でこちらを見遣った。
「……なんでそんな急いでるんだ? 行きたい場所でもあったのか」
「……いや、逃げられると思って」
だって、まさか本当に付き合ってくれるとは思わなかったからだ。
私が部屋に戻っている間に、トンズラこく気かと。そんなことを零したら、スコッチは呆れながら、しかし堪えられなかったような笑いを薄く唇に乗せた。うすっぺらな唇の、片側の口角だけが本当に――本当に、小さく持ち上がっているのが私には分かったのだ。
その笑顔に、体が固まった。単純に、見惚れてしまった。
彼の服装が、いつもと違ったのもある。ハイネックの薄手の黒いニットに、バーバリーチェックのジャケットを肩から掛けていた。人差し指に嵌ったシルバーのリングが、キラリと彼の口角に反射する。
「着替えたんだ……」
「良いだろ、別に。どこ行くかしらないけど」
「あ〜、うん。良いんだけど……良いんだけどね」
――いやいや、なんでだろう。先ほどまでとは立場が逆だ。
私はすっかり彼の顔を見れなくなってしまって、視線が自然と下がっていってしまうのが自分でも分かった。顔が熱い。それを隠すように、髪の毛を輪郭に沿わせるように撫でつけた。
「で、さすがに行く当てがないっていうのはナシだろ」
「……そりゃ、一応考えてあるよ」
私は懐から二枚のチケットを取り出した。スコッチと行くつもりだったわけではなく、単純に転売目的で手に入れたチケットだったが、思いのほか公式からの牽制が激しく捌けなかったものだ。
スコッチは僅かに肩を落としてから私の手元にあるそれを取ると、「了解」、と軽く肩を竦めて見せたのだ。