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 ビュッフェの後には、近くの百貨店でウィンドウショッピングを楽しんだ。私の財布からすれば高いものばかりだったので見て楽しむだけではあったが、最近はそんなことをする機会もなかったので、これが中々に楽しい。スコッチは、てっきり店の前で煙草でもふかしているタイプだと思ったが、案外最後まで隣で付き合ってくれた。――といっても、隣でポケットに手を突っ込んで歩いているだけではあったが、その空間が割かし心地よかったのも、確かである。


「それで、どうしたんだ。今日は急に」


 彼がそう話を切り出したのは、既に帰り道に差し掛かっている時だった。近くの駐車場からマンションまで歩いて帰る。ちらほらとサラリーマンが歩くような街路を、並んでゆったりと歩いている時だった。
 冷たい空気は乾燥していて、足元ではカサカサと落ちた葉が音を鳴らして風に揺れている。踏んづけると、葉が割れる音が小気味よく響いた。私は彼にそう問われて「え?」と聞き返してしまった。

 しまった。
 普通に外出を楽しんでいただけで、彼のことなど何一つ分かっていないではないか。本来の目的をおざなりにしていた事実に頭を押さえた。スコッチはそんな私の様子を見抜いたように苦笑を浮かべる。

 私はその苦笑がどうにも癪に触って、本当は悟られないようにしたかったけれど、少しだけ言葉を濁したままに答えた。

「別に。スコッチがどんな人なのか気になって」
「ふ、気になるの?」
「……分かんないと、気味悪いでしょ」

 スコッチはきゅっと揶揄うように瞳を細めるものだから、私は強がって鼻を鳴らしながら告げた。私の感情や動揺まで利用されているみたいで、不愉快だった。スコッチは肩を小さく揺らしながら笑う。

「そんな、面白い人間じゃないさ」
「……でも、ただの人間は自分から死ぬ選択なんてしないもん」

 言えば、彼の視線が少し強張ったような気がする。真っすぐとどこか遠くを見つめるようにして、暫くするとポケットから煙草とライターを取り出した。ライターの炎が、彼のツンとした鼻先を僅かに照らす。煙が暗くなった空へふわりと靄を掛けていく。白い靄に、街灯のオレンジ味がある灯りが拡散されていくようだった。

「さあ、案外そんなものだろ。人間なんて……」
「スコッチの言う人間って、ドラマの主人公とか? もしくは漫画の」
「そんなものだよ。オレは℃ゥ分のことを分かっているから」

 それは私への皮肉だ。それとこれに何の関係があるというのだ。掘り返さなくても良いのに――。文句ばかりは沢山沸いたが、一度黙って言葉の意味を噛み砕いてみる。自分のことを理解していれば、死が怖くない――? そんなことがあるだろうか。

「ナゾナゾかよ……」
「はは、君にはまだ分からないだろうけど」
「何それ、ムカつく〜……」

 分かっていたって分からなくたって、死ぬものは死ぬのだ。
 ――しかも、組織に殺される。事故や病や大往生ではなく、ライが、キャンティが持っていたあの引き金が引かれるかもしれない。それだけならまだ良い。闇組織のスパイだなんて言った日には、もっと苦しい死にざまが待ち構えているかもしれない。拷問だとか、生き埋めだとか――想像しただけで鳥肌が立つ。一生世話にはなりたくないものだ。

 考えても分からないと嘆く私を見て、彼は可笑しいものを見るように軽く眉を下げた。

「自分のことを分かれば死ぬのが怖くない……って、それイコールじゃないでしょ?」
「言ったろ。自分が何を大切にしているか、何に喜ぶのか、怒るのか、何を目的にするのか――それを理解するって」
「だぁからさ。それと命に何の関係があるのって……」

 モヤモヤとした言葉を吐き出す私に、彼は声を上げて笑って見せた。馬鹿にされているみたいだ。「お前には分からないだろ」と言われているようで、ムっと口を尖らせる。


「関係あるよ。それがオレが生きたっていうことだ」


 そんなわけがない。今から自殺に等しいことをしているのに、誰が命を語っているのだか。宗教人に怒られてしまえ。結局、彼の語っていることは私には理解し得なくて、そのままなあなあになってしまった。一つ、スコッチが結局よく分からない男だということは分かったような気もする。

 だって、そんなことを語る彼の表情はあまりに穏やかで、どこか誇らし気だったのだ。

 目的は分からなくたって良い。彼のことが知りたい。
 彼がどういう人間で、何を思い、どんな気持ちで死に向かうのか。それが知りたい。私にはわからないことだから、知りたい。――思えば、彼に会ってから心に浮かぶのはそればかりな気もする。

 フゥ、と長い煙を吐き出す横顔を見遣った。彼の横顔は綺麗だ。通った鼻筋に、ツンっと上向きの鼻。ちょっとだけ出っ張った額と、薄っぺらく尖ったような唇。視線だけが、私のほうをチラリと振り返った。

「……大切な人ができたら、分かるかもな」
「それ、皮肉だったりする?」
「あー……そんなつもりはないんだけど」

 その大切な人を、ついこの間失ったわけだけれど。
 口の端を引き攣らせて言うと、さすがにスコッチも頬を掻き視線を逸らした。別に嫌いな女の人間関係など放っておけば良いのに、いちいち感情を露わにするのは、なんとなく彼らしいと思えた。

 近くから、虫の声が聞こえた。
 
 チリリ、と耳を擽るような声に振り返る。近所の公園だ、このあたりでは珍しく小さな林が隣にある。夏であれば、蝉の声が耳を刺したことだろう。そのほかは何の変哲もなく、ブランコと、小さなシーソーと、砂場と――。小さな公園だった。風に、ブランコが揺れて、錆びれた音が鈍く響く。

「よし、行こう!」
「待て待て、今の流れなんだった?」
「やー……だって、誰もいないし」

 私がぐっと手を引くとスコッチはギョっとしたようにこちらを二度見した。私に手を引かれると、しょうがなしに煙草を携帯灰皿で押し付ける。目だった理由は特にないが、目の前に公園があって、誰も遊んでいなくて、お腹もいっぱいだったから――。
 

「良いじゃん。スコッチはそっちね」


 ブランコの隣(ちなみに、多分乳幼児用の座る形のもの)にスコッチを座らせて、私は立ったままブランコを大きく漕いだ。こんな風に遊ぶのは久しぶりだ。案外、耐荷重は大きめに作られているのだなあ、と他人事のように考えた。
 ブランコが上に上るたびに、然して綺麗でもない薄暗い星空が近づくようで不思議だ。光年という途方もない距離のなかの、ほんの数メートルだというのに。

「靴飛ばしってやったことある?」
「ああ、あるよ。結構遠くまで行くよな」
「私はね、ないの!」

 もぞもぞと厚底サンダルの踵を外しながら声を大きくする。スコッチが小さくブランコを漕ぎながら振り帰った。――彼が自分のことを理解しろというから、自分の過去を少し振り返ろうと思った。それだけだ。


「学校行ったことないし、友達もいなかったし、昼に公園で遊ぶと補導されるしさ。でも靴飛ばしをしてるのは見たことある。超楽しそうって思ってたんだよね!」
「……ミチルさん? おい、待て、まさか」


 声を固くしたスコッチの傍らで、私はブランコが後ろに下がったタイミングでサンダルをつま先に突っかけ、前に出た時に思い切り足を振り上げた。軽くはない靴だったので、想像していたよりもポーンと飛んではいかなかった。足を振り上げたタイミングで、サンダルに視線を取られすぎて、つい鎖を握る手を放してしまった。頭が後ろに引っ繰り返るような感覚に、周囲がスローモーションに見える。


「――嘘だろ!!」


 慌てたような声色。私の体が放り出された数秒後、何かを下敷きにするように着地した。ずさ、と擦りむいた足に走った痛みだけが現実的で、景色が止まってからハァ、と息をつく。一連の間、呼吸を止めていたという事実にようやく気づけた。嗅ぎ覚えのある煙草の香り。抱えようとしたらしいスコッチの手が、私の背を支えていた。
 肩にかけたままのジャケットの袖が、私の手の甲を擽った。

「何してるんだ……」
「ごめん。手放すつもりじゃなかったんだけど……」
「そうじゃなくても、ここのブランコ錆びてるから。大人がそんな勢いよく漕いだら駄目だ……」

 危ないだろ、とスコッチは私の体を抱き起すと、ブランコにもう一度座らせて、ひょこひょこと遠くに飛んだサンダルを取りにいった。ベルトが何本も走ったサンダルを持って、私の足にすっと履かせる。ストラップをパチンと固定して、彼は呆れたように、だがどうにも可笑しそうに笑っていた。

「そんな笑わないでも良いのに、大体、靴飛ばそうとする前に言ってよ」
「無茶な……ふふ、あはは」
「笑いすぎ!」

 スコッチはにかっと歯を見せて、私の前で蹲るようにして笑っていた。私は声を上げたものの、その笑い声につられてヘラっと笑顔を浮かべてしまったのだ。