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 朝から雨が降っている。外に出てはいないけれど、雨の音だけがずっと頭の中に響いていた。湿っぽい室内と雨の音。横たわっていると、まるで昔のアパートに戻ったような気分だった。

 部屋の中にはゴミばかりが溢れていて、時折車が横切ると水が跳ねる音が大きく響く。土のにおいがした。その時は雨のことが嫌いじゃなかった。雨の日は、外から聞こえる子どもの声も掻き消されてしまうからだ。ぼんやり目を開けると、姉の背中が見える。キャミソール一枚に下着姿で、蹲るように眠る姉の背だ。痩せていて、今思い出しても骨ばった体つきをしていたように思う。けれど、すう、すう、と体が上下するのに、やけに安心していた。

 姉が亡くなったと聞いて初めて迎えた夜、その背をもう見ることがないという事実が体を重たくした。良い姉とは言えなくとも、面倒を見られていたわけでなくとも、隣に寝転ぶだけの存在にどれほど安堵していたのか、はじめて思い知った。

「……お姉ちゃん」

 ぴくっと瞼が痙攣して、持ち上がった。頭がぼうっとするのは、昼だというのに薄暗い室内の所為だろうか。お腹が空いたと思うけれど、動くのも億劫でまた目を閉じた。
 そうそう、昔もこんな感じだった。
 お腹が空いても、動くと余計にエネルギーを使ってしまうから、ぼーっと横たわっていた。生きてるんだか、死んでるんだかわからないまま――。思えば、私が今の私らしくなったのは人に嘘をつき始めてからだ。

『才能あるよ』

 姉のその一言で、ああ、私はただぼんやり消費するだけの人生ではないのだと思った。ならば、嘘をつくために生まれたとでも言うのだろうか。

『……頑張らなくても良いよ』

 後に出会った男はそう言った。もう嘘をつかなくても良いと言った。嬉しかった。――私は、本当に嘘をつきたくなかったのだろうか。人を騙したくなかったのか。彼に言われて安堵したのは、それが私の本音だからなのか。
 だとしたら、今の私は、一体――。一体、何のために生きているというのだろう。


 どうして今日はこんなことばかり思い浮かぶのか。スコッチに、妙なことを言われたからかもしれない。普段は思いもしないことだから、考えていたら後頭部が割れるように痛む。ドクドクと脈が頭の奥にまで響いているような感じがした。


「――ああ、起きたのね」


 次に瞼を持ち上げた時、眩いほどの白さに目を細めてしまった。マンションのものでもアパートのものでもなくて、例えるなら病院のような。そういえば、薬物の匂いがツンと鼻を刺す。まさか、本当に病院――? ズキズキと痛む頭を押さえて何度か瞬くと、近くにいるらしい誰かが足音をコツリと鳴らした。ヒールの音、声色からしてもどうやら女性のようだ。

「まだ寝てなさい。ただの風邪だけれど、熱が高かったから」

 額にするっと誰かの指先が滑り込んだ。額よりも冷たく、さらりとした感触が心地よい。色素が薄いその指先は、私の額に張り付いていたらしい前髪を払う。近くの椅子に腰を掛けたらしく、彼女の気配が強くなった。

 こちらを覗き込んだ瞳は、バーボンの瞳の色によく似ている。グレーがかかったような、ややくすんだブルーアイだ。赤褐色の髪は輪郭に沿って切り揃えられている。――誰だろう。尋ねようと思ったが、寝起きで上手く声が出なかった。

 それでも口の形で感じ取ったのだろう、女はギィと背もたれに体を預けながら足を組み替える。

「貴方の取引先の一員よ。仕事中に倒れたんですって? ベルモットから聞いてるけど」
「……ベルモットから」

 つまり、組織のメンバーということか。一つ気になるのは、今まで出会ったメンバーとは異なって、彼女の服装は黒くなかった。長い白衣が、華奢な体を包んでいる。かかりつけの闇医者――とか。想像しながらジっと見つめていたら、その輪郭に対して小さめな口元からため息が零れた。

「抗生剤出してあげるから、ちゃんと飲んで。安静にしてたらすぐ治るわ……。何よ、その顔」
「変な薬じゃないかなって心配で……」
「貴方を殺して何のメリットもないわよ。失礼ね」

 だって、明らかにドクロマークがついた薬瓶から取り出したのだもの。仮にこれが毒薬ではなくても、そういう成分が付着しているのではないかと疑ってしまうのは自然な行動ではないだろうか。
 彼女はビーカーに飲料水を注ぐと、私に薬と共に手渡してくれた。彼女のデスクには湯気の立つコーヒーがあるのに、私はビーカーなのか。少し複雑である。

 私は与えられた薬をごくんと飲み干して、体勢を直すと改めて彼女に向き直った。サラサラと書類にサインをする横顔は、やはり日本ではないどこかの血が混ざっているように見える。

 それにしても、ベルモットがここまで連れてきてくれたのだろうか。
 そうだとしたら、とんでもないホワイト企業になってしまう。まさか、体調不良者に医者まで紹介してくれるとは。
 そこまで考えを巡らせている最中に、女がサインを終えた書類を纏めながらこちらを一瞥した。

「後でお礼言っておきなさいよ」
「え、誰に……?」
「さあ……。貴方を見つけてすぐベルモットに真っ先に相談したらしいから、誰かさんは」

 つまり、マンション内で具合が悪そうにしている私を見て、見かねた誰かがベルモットに連絡を取ってくれたのだ。ベルモットがそんなことで呼ぶなと怒っていた、と彼女は苦笑を零した。彼女からの又聞きだから、と特に詳しくは言及していない。しかし、誰かと問われた時――すぐに浮かんだのはバーボンの姿だった。彼なら打算はありきかもしれないが、躊躇いなく助けてくれるような気がする。

 私は彼女から受け取った書類に目を通す。今日の診察結果だとか、処方された薬についてが表記された用紙だ。書類の端には流れるような文字が書かれている。別に下手というわけじゃないと思うが、行書体は上手く読み取れなくて少し睨むような表情になってしまった。

 なんて読むんだろう。くるくると書類をひっくり返しながら眺めていたら、彼女はフっと小さく笑って肩を竦める。

「シェリーよ」

 よろしく、と差し出された手を軽く握る。なるほど、シェリーと読むらしい。ずいぶん女らしい酒の名前だと思った。
 ひとまず薬を飲みこむと、シェリーと名乗る女は同じくビーカーに先ほどの薬とは異なる瓶を取り出し、小さく欠伸をしながら中身を移した。――中に入っていたのはどうやらコーヒーのようなので、コーヒーを淹れただけに過ぎないのだが。
 彼女はビーカーの注ぎ口に口をつけてビーカーの中身を啜った。分かってはいても、少々異様な光景に見えるのはいたし方ないだろう。

「シェリー。私、どのくらい寝てた……?」
「二十四時間ちょうどって所ね」
「わぁ〜……」

 どうりで記憶していた時計とまったく短針が動いていないわけだ。まさか一日爆睡できるとは、体調不良恐るべしである。


「……お姉さんがいるのね」
「え?」
「ずっとうわ言で呼んでたわよ」


 シェリーはバーボンによく似た瞳をゆったりと細め、髪の毛を耳に掛けながら小さく微笑んだ。――組織の人間というには、あまりに優しすぎるような気もする。シェリーは、懐かしそうに私の頭を軽く撫でつけた。

 ――驚いた。

 今まで寝言で誰かを呼ぶなんて、そんなことはなかった――と思う。分からない。就寝時にそうなっていたら確かめる術はないものの。熱が出たからだろうか、それとも一人雨の中で昔を思い出した所為だろうか。

 分からないけれど、今はただ頭を撫ぜる手つきが眠気を誘った。別に姉にこんな風に撫でられたことなどないのに、やけに華奢な背中を思い出す。彼女の指先も、シェリーと同じように冷たく心地よかったのだろうか。ただ漠然とそう思った。