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 シェリーと呼ばれた女性は、私が目を覚ますともういなくなっていた。代わりに隣に立っていたのは見覚えのない黒髪の女で、私が立ち上がれることを確認すると「送るわ」と踵を返し始めた。

 ――なんというか、直感的に彼女のことがあまり好きではなかった。

 スコッチに感じたような、得体の知れなさが彼女にはある。見た目が似ているわけではなくて、これはもう単純に勘だとしか言いようがない。彼女は同性であるせいか、その直感は尚更強く働いた。

 ハンドルを握る横顔をちらりと見てから視線を戻す。手にはシェリーが握らせた抗生剤の袋が皺を寄せている。女は私のほうを一瞥すると、濃いリップの塗られた唇をフっと笑ませた。それまで口を閉ざしていた女が、ようやくのこと口を開く。

「そんなに私が嫌い?」
「……嫌いっていうわけじゃないけど、なんか怖いんだよね」
「人にそんな風に言われるの初めて。ちょっと新鮮だわ」

 可笑しそうに肩を竦める女を見て、やはり苦手だと髪を掻き上げた。窓の外に視線を逃がす。――その、私は良い人です、というのが隠しきれていない態度が苦手だ。何を考えているのか憶測さえできない。

 彼女にコードネームを尋ねると、可笑しそうに笑いながらそんなものはないと言われた。曰く、組織の中でもコードネームがつくのはそれなりに上層部だけなのだと言う。こんな風にドライバーを任されている自分に付いているわけがないと、あっけらかんとして笑っていた。
 やっぱり、どことなくスコッチに似ていると思ったのだ。
 どこが、と言われたら分からないが、――強いて言うなら雰囲気が。妙な空気を持つ女に送ってもらった礼を述べると、ゆるりと首を横に振られた。

「良いのよ、これが仕事だしね」
「もしシェリーに会えたら、彼女にも伝えて」
「もちろん。きっと喜ぶわ」

 首に巻かれた赤色のスカーフが風に靡いた。喜ぶ、だなんて変な人だ。私を見つめてずっと微笑んでいる彼女の視線は、その顔つきから予想できる年齢よりも少し大人びて見える。

 踵を返そうとした時、彼女の声が駐車場に響いた。私を呼んだものではない。どうやら他の誰かを呼び止めたようだったが、私の知る名前ではなかった。振り返ったのは、反射的なものだ。

 彼女が呼び止めた先には、見覚えのある車が停まっていた。黒のシボレー――ライのものだ。どうやら運転席で仮眠をとっていたらしい彼は、女の声にパっと瞼を持ち上げた。以前見掛けた時よりも目の下の隈が濃く見える。あれだけ寝こけているのに血色が良くならないのは、体質なのだろうか。

 彼は、珍しく目を軽く見開いた。普段は表情を変えないニヒルな性格をしているから、本当に意外だった。しかも演技くさくはない、彼があそこまで動揺した様子は以前私が運転をしたっきりだ。

「明美」
「あ……もしかして彼女? 噂の同棲相手って」
「馬鹿言え……」

 ライはいつもより少しばかり慌てた様子で車から姿を現すと、女の方へと駆け寄った。すぐに、彼らは特別な関係なのだとは予想がつく。身内なのか、恋人なのか。そうでもなければ説明がつかないほどに、ライの態度が私たちに対するものとは打って変わったのだ。

「バーボンから聞いてはいたが」
「あの子が看てくれたから大丈夫よ、家まで送ってあげて」
「お前はどうするんだ」
「どうするって、車で来たんだもの。車で帰るわよ」

 銃声すら面倒そうに小指で栓をして塞ぐ男が、あろうことかポーカーフェイスさえ崩れて女の前で狼狽えている。本人に自覚はないかもしれないが、あれでは顔に「心配だ」という色が乗っているのが明らかすぎる。敢えてそういう演技だとしたら、私は見事に騙された間抜けと言えよう。

「ライ、送ってあげれば?」

 こんな茶番劇に付き合うのも面倒くさくて、体調ももう万全であったのでさっさと背を押してやることにする。ライは「でも」だのと接続詞を続けることもなく了承していたが、代わりに女の方が「えっ」とライを振り返った。

「彼女、病み上がりよ!?」
「あー、良いよ。マジで、すごい元気だから。早く行って」
「そんな、でも……」

 放っておけないしと頬を押さえていた彼女に、私はため息をついた。――彼女も組織の一員なのだろう。風邪を引いただけの女一人に、ここまで心を割いてやっていけるのだろうか。それとも、これこそ演技なのだろうか。
 ――違う。
 演技じゃないことは、分かっている。演技でこんな風に、瞳が膜を張って揺れるものか。表情は演技することができるけれど、瞳の中まで自分の意思で動かすのは至難の業だ。

 私は携帯を取り出して、さっさと連絡先の一つに電話を掛けた。
「ごめん、地下の駐車場にいるから迎えにきて……。うん、そう。ありがとう」
 手短に要件だけ伝え終わると電話を切り、それからライたちのほうに視線を向け直した。

「ほら、早く行って」

 吐き捨てるように言えば、女は小さく微笑んだ。頭を下げて、それから嬉しそうにライの腕に自らのものを絡めていく。――彼女の顔を見て、きっと恋人なのだとは思った。柔らかな表情だ。

 組織の中でも、色恋沙汰とかあるものなのだなあと感心した。
 まあ、それはそうか。ヤクザでもマフィアでも男女の縁は付き物だもの。ぐっと伸びをしてエレベーターのボタンを押す。だいぶ上の方で止まっていたらしく、降りてくるまでに時間を要した。

 光る数字を見上げながらボウっとしていたら、タタタっと駆けるような足音が響いた。気配に振り向く前に、「ミチルさん」と少しだけ荒げた声が転がり込む。


「バ、バーボン……」


 非常階段を駆け下りてきたらしい男は、ハァ、と一つ息をついて乱れた髪を整えた。いやいや、一つ息をつく程度で整う息ではないはずだ。だって、私たちの住む部屋から地下駐車場まで、どれだけ距離があると思っている。それを、先ほど電話してから今までの時間で降りてきたというのか。相当走ってこないと、間に合わないはずだ。

「あ、なたねぇ……! 要件だけ言い捨てて切らないでくださいよ!」
「ごめんごめん。迎えに来てほしかったっていうか、ちょっと言い訳に使いたかったっていうか……」
「まったく、何かあったのかと」

 彼は乱れたネクタイをきゅっと締め直し、丁度降りてきたエレベーターに二人で乗り込んだ。確かにバーボンの返事を待たずに切ってしまったことは事実だった。自分で戻れるだけの体力はあったし、仮に向かっていたとしても廊下で鉢合わせるくらいだと思ったのだ。


「ふーん。心配してくれたんだ? ありがと」


 にやっとして彼を覗き込む。バーボンは不服そうに、睨み上げるように私を見た。

 ――あれ。

 今までは、その表情を可愛いと思うだけだったのだ。
 なのに、今日は私を見上げた表情を見て、僅かに胸が痛んだような気がする。先ほどのライの表情を見た所為なのか――。それとも、体調を崩した時に姉のことを思い出したせいだろうか。彼が私を心配しているのが、ポーズではないと分かってしまったのだ。

 バーボンは一度息をつくと、ふっくらとした唇を柔く微笑ませる。彼の指先がするっと私の額に触れていく。シェリーのものより分厚い皮膚、熱い体温。彼はしばらく私の肌を確かめるように触れてから満足げに頷く。

「熱は下がったみたいだ。良い人に診てもらえたんですね」
「ああ……うん。シェリーって言ってたけど、会ったことある?」
「いいえ、名前は知っていますが……」
「……ねえ、いつまで熱測ってるの? 手疲れない?」

 一向に離れない手のひらにソワソワとして首を傾ぐと、バーボンは意地悪そうに私を覗き込む。

「ホォー、心配してくれたんですか? それはどうも」

 なんて笑うグレーの瞳に、私はムカっとして手を払いのけた。バーボンはクスクスと揶揄うように肩を揺らす。私がずっと不機嫌そうにしていると、彼は慌てたように機嫌取りを始めた。結局、このあとの昼食を奢ってもらうことで話がついたのである。