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 雨が上がると、急に乾燥した寒さが押し寄せた。つい先日まで肌寒いと思っていた程度だったが、ぶるっと身を震わせるような気温と風が肌を刺す。さすがに部屋の中といえど、スウェットとパンツだけで過ごすのは厳しくなってきた。今までは季節の変わり目だったのが、本格的に冬という名称を持ち始めたのだ。

 それでもあまり衣服を着こむのは好きじゃなかったので、私は必然的にリビングにいる時間が長くなった。主寝室とリビングには冷暖房がついていたので、快適だ。自室は服とマットレスだけで、カーペット一つ揃えていなかったから、普段過ごすには肌寒かったのだ。

 ごろりとソファの上で寝そべっていたら、玄関から音が鳴る。このころになると、扉の開閉の音や足音で、ある程度誰が帰ってきたかは分かるようになっていた。扉の閉め方が乱雑で、足音を消すように歩くのはライ。扉の開閉も廊下を歩く音も殆ど音がしないのはバーボンだ。ただエレベーターを使わないことも多いから、扉が開く前に階段の音がすれば大抵彼である。スコッチも然程五月蠅い音がするわけじゃないが、いつも重たい荷物を背負っている所為か足音が重たそうだった。

 ――そう、まさにこんな足音である。

 ぱちりと瞼を持ち上げると、彼は出先から帰ったばかりで、マスクを外しゴミ箱に放る姿が目に入った。マスクを着けていると涼やかな目元が強調されて、いつもより少しばかり威圧感がある。

「お帰り〜」

 仰向けだった体を起こして背もたれに体を凭れさせる。返答は期待していなかったが、スコッチはちらりと私を一瞥してから黙りこくってしまった。――別に、普段と変わりない。ただ、その唇がキュっと引き結ばれているのが、やけに気にかかった。まるでカメラから何かを隠すような表情だった。

「何食べるの、私も食べたい」

 キッチンの傍にいた彼にそう笑いかけたのは、彼をこちらに導くための切っ掛けだ。カメラの死角に入るよう、クッキーの箱を片手に持った彼を手招く。スコッチは最初は戸惑うように視線を泳がせたが、すぐに小さく笑みを浮かべた。

「なんかあったの?」
「……いや、なんでもないよ。風邪、もう良いのか」
「あー、うん……。もう万全だけど」

 私は彼が渡してくれたクッキーを一口頬張りながら頷く。彼の額が汗ばんで見えるのは、暖房が効きすぎているのだろうか。分かっている。私にそんなことを話す間柄ではないだろう。

 ――自分の価値観や境遇を、押し付けては駄目。

 彼の言葉を思い出し、ずけずけと聞きたい衝動をぐっと押さえ込んだ。彼の中には、彼の中で思うところがあるのだろう。知りたいと思う。何を考えているのと聞きたいけれど――今は、黙っておくことにした。「なら良かった」と笑うスコッチに、私も小さく頷きながら笑った。

 そうだ、彼は自分のことを理解しないと駄目だと言っていた。
 私は今、スコッチのことが知りたいと思っている。けれど、価値観を押し付けてはいけない。スコッチの立場を考えながら、尚かつ自分の欲求を満たす方法を考えるべきなのだ。成程、そう考えれば、案外人の立場になるということは合理的で分かりやすい。

 私はしばらく考えてから、彼の額に滲んだ汗を袖で拭った。スコッチが、意外そうに私のほうを振り向く。視線が合って、ついヘラっと笑ってしまった。

「スコッチのほうが体調悪そうだったからさあ」

 傍に寄ると、いつもよりも煙草の香りが濃く香った。彼の物ではない――と思う。重たくクセのある匂いがして、ここまでクセがあればすぐに覚えるだろう。煙草の匂いや種類には詳しい方ではなかったけれど、それでも気づくくらいだった。

「……誰かと一緒にいたの?」
 
 小さく首を傾ぐと、スコッチは首筋を掻いた。――「なあ」、殆ど独り言に近い声。優し気な声色ではなくて、私にナイフを突き付けた――その時の声に近かった。どちらが彼の素なのか、分からなくなる。

「悪い。少し屈んでくれ」
「屈む……?」
「取引きで良いよ、屈んでくれたら、質問に答えるから……」

 ぐっと袖を引かれる。私は少しだけ背を丸めた。スコッチは、足をソファの上に持ち上げて抱え、同じように少しだけ背を丸めると、こちらの肩にこめかみを寄せた。ちょうど、背もたれに隠れて背後のカメラからは見えないだろう。
 
 その行動があまりに意外で、突然で、私は飲み込みかけたクッキーをむせ返してしまった。

 もたれていた頭が、多分笑ったのだろう――小さくピクっと揺れる。やっぱり、何かあったのだろう。嫌いだと言う私にこんな姿を見せるくらいに――否。

「嫌いだから、できるってこと?」
「……そうかもな。アイツには、こんな姿見せられないから」

 視線を落として、彼は自分を嘲るように口角を持ち上げる。また、「アイツ」だ。彼の言うアイツとは、一体誰のことなのだろう。まるで「アイツ」のために、彼の世界が回っているみたいだ。

「……死ぬのは、怖い?」

 私が問いかけると、スコッチは一瞬指先を反応させた。けれど、質問には答えると言っていた口約束を思い出したのだろう、案外すんなりと口を開いた。

「怖くない。――怖くないと、思ってた」
「なんで。絶対怖いじゃん」
「命を懸けて良いと思えることを知っているんだ」

 緩く手のひらが開いていく。皮はそれほど厚くないほうに見える、細かい皺がたくさんで、手相を見るのは大変そうだなあと思った。

「それは……スコッチが言う、自分を理解しているから、そう思うの」
「そうだよ。オレは、それの為なら死ぬこともできるんだ」

 そう静かに語る彼の表情は、髪の毛に遮られて窺えなかった。ぼそぼそと語る声は、決して揺れてはいない。信じられなかった。そんなの、自殺志願者と同じじゃないか。――違うのだろうか。私には、想像できない。命を捨てても良いと思えるなんて、分からない。

「死にたいわけじゃないよ。死んでも良いってだけだ」
「一緒だよ」
「一緒じゃないさ、やりたいことがあるんだ」

 それでも、死んでしまったら叶うかどうかも確かめられないのに。自分の死んだ後の世界なんて、自分には関係ないのに。益々彼のことが分からなかった。
 それから暫く、彼は私の肩に重たい頭を預けたまま黙りこくっていた。だんだんと腕が痺れてきて、頬杖をつく。

「疲れた?」
「……疲れた」

 正直に答えたら、彼は笑った。触れた場所から、トクン、と脈打つ彼の鼓動が伝わる。もしかしたら彼にも私の音が聞こえているのかもしれない。真っ黒なテレビ画面には、うつむいたままの彼と、頬杖をついてつまらなそうにしている私が映っていた。
 ゆっくりと、スコッチが顔を上げた。目に掛かる前髪も気にせずに、視線を落としながら瞬く。


「怖くないと思っていたんだよ……本当だ」


 無機質なほど淡々とした口調は、感情を隠しているのだとすぐに分かった。画面に映った彼の表情もまた、感情を押さえ込んだように涼しげだった。それでも分かるのは、私に頭を預けるほど彼が動揺しているのは明らかだったからだ。


「……怖いな」


 ぽつりと零した彼の言葉に、驚いた。
 怖い――怖いのか。彼も、私と同じように。瞼をきつく閉じたスコッチの表情を見下ろして、私の頭を彼のほうに傾けてみた。音がする。彼が生きている音だと思った。呼吸の音、鼓動の音、血が流れるような小さな地鳴りにも似た音。
 瞼を閉じると、それが一層よく聞こえる。
 この音を、私は止めようとしているらしい。そういう取引だもの。そうしたら、私はこの先苦労することなくのうのうと生きていられるし、彼もそれが望みだと言う。何を拒むことがあるのだろうか。ただ彼に触れた場所が、やけに温かいとは、思った。