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 夜に一本の電話がかかってきた。キャンティからだ。
 いつも通りの飲みに行かないかという誘いに乗って近くのバーで待ち合わせた。そこまでは、割かし最近ではよくある日常だ。数日ぶりに顔を合わせたキャンティは相変わらず日本には馴染まないタトゥーとメイクを、艶やかな照明が彩る中に映えさせていた。キュっとくびれたウェストラインが座っていても美しいと思う。

 だが、ふとこちらを見止めたキャンティの様子がいつもとは異なった。
 恐らくだが、敵意とかそういうわけではない。私に向けてどう――というよりは、何か嫌なことがあったのか、空気自体がピリっと張りつめている感じだ。彼女はムスっとした唇をグラスに着けて、鮮やかな酒を飲み干した。

「うわあ、良い飲みっぷり」
「ハァ……。飲まないとやってらんないよ。付き合いな」
「はいはい」

 私は隣に腰かけて、最近顔なじみになってきたバーテンダーにミントジュレップを頼んだ。初めてだったら面倒そうなので頼まない酒だが、そろそろ遠慮しなくても良いだろう。ごしゅごしゅとミントの葉を潰す音を聞きながら、キャンティのほうをチラリと覗き込んだ。

「どうかしたの? あ、聞いちゃ駄目なら聞かないけどさ」

 彼女はもとより気性の荒いタイプではあったが、それにしたって今まで見たことがない荒れ方をしている。何より――キャンティは嫌なことがあったら、それをその時に発散するタイプなのだ。誰かに対してムカつけばその場でキレるし、暴力に訴えることだってある。別にそれを良しとするわけじゃあないのだが、恐らくそれは彼女自身の性格であり、コロっと変わるようなものではないと思えた。
 
 だとすると、私に考えられるのは二つ。
 一つは、腹が立つ相手がキャンティの逆らえないような相手であること。
 もう一つは、それを発散できないような慎重にならざるを得ない件であったこと。
 どのみち、恐らく組織の誰かしらが彼女を手懐けているとしか考えられなかった。あまり踏み込むのも良くないかもしれないと思いながら、軽いノリで尋ねてみる。

 ――相手のことを理解しようとする。

 念頭に置きながら、自分の立場と共に加味し、頬杖をついた。
 キャンティのことである。いくら上から命令されようと、腹が立つものは腹が立つのだろう。理知的というよりは、感情が先走るようなところがあるから。

「何かあったら話くらい聞くよ。ぶっ飛ばしかったら協力するし」

 小さく口角を持ち上げて、そのライダースを肩から掛けた背を軽く叩いた。キャンティは口を結んで、フゥーと長く息をつく。暗い色のリップが、前歯で軽く食まれる。

「……詳しくは言えないんだけどさ、少し上手くいかないことがあってね」
「うーん……。でも、任務で失敗とか、そういうことじゃないんでしょ?」
「あったりまえさ」

 キャンティは空になったグラスをバーテンダーに向かって差し出した。私の注文したグラスが置かれて、彼は手慣れた手つきでそれを回収していった。


「――組織の中でもさ、気心の知れた奴ってのはいるもんだろ? ……アンタはどうだろうねぇ、分からないけど。アタシには何人かいるんだ」

 
 キャンティはぽつりと呟きながら、ボーっと棚に並んだボトルを眺めている。彼女の名前も酒の名前であったし、もしかしたら誰か酒の名前を探していたのかもしれない。美しく見えるように配置されている飾りボトルたちは、照明を受けて何とも嬉しそうに輝いていた。

「甘っちょろい関係なワケじゃないよ。けれど、それなりには信用してるつもり。だってそうじゃなきゃ、背中を預けられないからね」

 そう語る彼女の口元は、先ほどとは打って変わって僅かに微笑んでいた。先ほどの雰囲気も珍しかったが、彼女がこのように柔く笑うのも珍しい。気に入った人間には優しいというか甘いところがあると思ってはいたが、やはり仲間意識が強いのだろう。群れで狩りをする肉食動物のように、彼女たちにしか分からない感覚があるのかもしれない。

「勿論、仕事で死ぬことだってあるだろうさ。そんくらいは覚悟してる……こっちだって相手の命狙ってるんだ。誰かから狙われることがあることは、ちょっとオツムが足りなくても分かる。バカな奴らばっかりだったけど、分かってたはずさ」

 キャンティはぐっと握りしめた拳を震わせて、今にも目の前のものに噛みつかんという勢いでその拳を叩きつけた。とてもか細い女の腕に叩かれたとは思えないほど、寄り木がびりっと震える。

「しょっぴかれたんだ。バレるわけない任務だった、絶対に! なんでバレた、なんであんな間抜けな奴らに捕まった!?」
「――……内通者が、いるから」
「そうだよ! 裏切りモンだ、そうじゃなきゃ説明がつかないんだよ!!」

 ぐっと奥歯をかみしめるように、キャンティは歯を剥き出しにして怒った。怒りで体が震えているのを、初めて見たかもしれない。


「許せない……でも、ジンはまだ泳がせておけって言うんだ。こんなに、こんなに腹が立つことは初めてだ!!」


 初めて聞く酒の名前に、私が「ジン」と復唱すると、キャンティはハっとしたように口を噤んだ。どうやら感情任せに口走ってしまったようだ。バツが悪そうに視線を落とす彼女を見て、私は聞かなかったフリをしてやることにした。――多分、彼女の怒りをここまで制御できているのは、そのジンという人物の力なのだろう。ずいぶんと立場が強いのか、腕っぷしが強く逆らえないのか――その両方なのか。


「なあ、頼むよミチル。早くモグラを見つけてくれ……じゃないと、アイツら片っ端から……ブっ殺しちまいそうだ……それで殺されても良いのさ……」


 きゅうと下唇を噛むその表情はひどく苦し気で、気の強い彼女の目じりに似つかわしくない涙が薄っすらと滲んでいた。分かっている、それは悲しみではなく、怒りと悔しさで滲んだものだろう。
 ――でも、なんだか、この間から変だ、私。
 私はその目じりに指を伸ばして、軽く拭った。さらっと流れたオレンジ色の髪が、私を振り向いた拍子に涙の痕に張り付いた。それをそっと耳に掛けて、「キャンティ」と彼女を呼んだ。

 私はもうすぐ、彼女にスコッチを引き渡すことになるのか。そうしたら、彼女も、スコッチも、私も――それで、良いのか。丸く収まるのだろうか。

「私ね、キャンティの仲間じゃないし、気持ちはわかってあげらんないけど」

 なんだか、それが彼女に対してものすごく不誠実なことなのではと思えてきた。ここまで真剣に仲間の痛みに震えている彼女にも、私は嘘をつくのかと。そう思ったら自然と口が動いた。彼女に対する、せめてもの贖罪じみた言い訳だった。 


「私は正直で仲間思いなキャンティが気に入ってるよ。好きだよ」

 
 言い訳だ。私の本音じゃあない。なのに、妙に泣き出しそうな想いになるのは――触れた彼女の頬や肩から、スコッチと同じ音がするからだろうか。表情だけは、彼とはまるで真反対だ。押し込めたような無機質な表情に対して、キャンティの表情はみるみるうちに色づいた。頬が熱い。ああ、彼女も、生きているのか。知らなかった。性格だけを象った人形ではなかった。

「だから、そんな簡単に死なないで欲しい」
「……アンタもバカだね。言葉のアヤって奴じゃないか」
「ウソ。本当に死んでも良さそうだったもん……う〜……」
「正気かい? ああ、泣くなってそんなところで……」

 酔っ払いめ、とキャンティが可笑しそうに声をあげて笑った。その指先が、私の目じりを同じように拭う。シェリーと同じような心地よい温度をしていたけれど、伸びた爪先が少しだけ皮膚を引っ掻くようだった。