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「ぎゃあっ!!!!」

 部屋の静寂を掻き消した私の叫び声に、パっと部屋が明るくなった。画面の中に映し出されたおどろおどろしい、確実に人間ではないだろう化け物がこちらを睨みつけている。思わず立ち上がってしまって、膝に掛けていたブランケットが吹き飛んでしまった。

 私はゾっと背筋に鳥肌を立てながら、ゆっくり背後を振り返る。パチンと部屋の電気を点けたらしいスコッチが、怪訝そうに眉を顰めてこちらをジトリと見つめていた。何してるんだと言いたげな視線に、苦く笑った。

 手に持ったリモコンで映像を止める。ここ数日、逃避後はどこへ逃げようかとばかり考えていたものの、監視の目があると思うと中々調べ物もできなかったので、暇を持て余した結果である。

 もともと、映画を楽しむような人間ではない。
 幼いころはそんな余裕がなかったし、嗜むようになっても好んで観るのはアクション映画やSF映画ばかりだった。ホラーやパニック映画など、誰が好き好んでみるのだろう。そう思ったものの、まあ偶には刺激的で良いのかな――そんなつもりだったのだ。

 だから、まさか自分にホラー耐性がないとは夢にも思わなかった。
 アクションでもグロ映像が流れたって平気だったし。普段暮らしている中で暗闇が怖いとか考えたこともなかった。世の人々が幽霊や暗闇を恐れるのは、こんなものが世に蔓延っている所為じゃないか? 果たして、人間の本能が先だったのか、植え付けられたトラウマが先だったのか、怪しいものである。少なくても私は後者になり得そうだ。

 
 すごすごとブランケットを拾い直してソファに座る。大人しくプレイヤーからレンタルDVDを取り出してパッケージに仕舞った。もう二度と開くまいと思う。背後で身支度を整えているスコッチの気配さえ、今は一つの安心材料である。

 ため息をつきながらテーブルの上を軽く片し、シャワーでも浴びるかと踵を返した。脱衣所で服を脱ぎながら、小さく欠伸をする。先ほど時計で見た時間は午前八時ごろ。朝陽が換気用の窓から部屋に差し込んでいた。スコッチは、仕事帰りなのだろう。先にシャワーを浴びさせてやれば良かったか。

『誰っ……?』

 その声に、再びゾワっと寒気がした。
 先ほど見ていた映画の女優の声だ。恐らくだが、スコッチが再生したのだろう。(そうでなければ、余計に困るのだが)見たばかりのおぞましい表情が脳裏にフラッシュバックした。そう、丁度こんな、マンションの小さな浴槽で――。

『ゆるさない……』

 ノイズが掛かったような声と、水音がピチャピチャと響き始めた。私は洗面所にある鏡に気づいて、振り返ることもできないままバタバタと廊下を戻った。リビングの扉を開けると、ソファでマグカップを片手にホラー映画を鑑賞しているスコッチが目に入る。彼はギョっとした様子で私を振り返り、「またそんな格好で」と咎めようとした。
 しかし――私はそれどころでなく、せっかく仕舞い込んだDVDの続きの場面――何も映さないような虚ろな瞳の描写――を目の当たりにしてしまい、サーっと血の気を引かせてしまった。

 ヒっと息を呑みこんで、涙が零れた。

 ぼろっと、大粒な涙がフローリングに落ち、スコッチが益々ギョっと身を乗り出したのが分かる。視界が次々にボケていく。別に悲しいだとか、そういう感情が浮かんだわけじゃなくて、割りと真剣に――本能的に流れた涙だった。
 自分でもここまで自然に涙がこぼれることがあるのかと、驚いたくらいだ。
 私は自分が下着姿であることすら忘れ、零れる涙を拭うことすらできなくて、その場に脱力して立ち尽くす。彼が慌てたようにテレビの電源を切ったのが分かって、ようやくのこと心が落ち着いてきた。

 ――あー、マジでビビった……こわ……ホラー映画の女優とか絶対やりたくない……。

 軋んだような鼓動の余韻が、まだ体をバクバクと震わせていた。
 敢えて強がらせてもらう。確かに物凄く怖かったし何なら泣いたことも事実だけれど、落ち込んでいるわけではない。例えるなら、物凄く大きなゴキブリにでも出くわして体が固まり泣いてしまった――とか、そういうことだ。私からすれば、ゴキブリのがマシだが。


「ごめん、大丈夫?」


 心の底から心配そうな、柔い声色が目の前から聞こえた。彼はそっと私の顔と視線を合わせるように腰を屈め、ボサっと寝癖のついた襟足を大きな手で撫ぜた。

「や、大丈夫……。めちゃビックリしただけ……」
「悪かったよ。苦手なんだな」
「私も初めて知ったけど、そうみたい」

 私が使っていたブランケットが肩に掛けられる。ここまで柔らかな声で話しかけられるのは、最近では珍しい。出会ったばかりのころは、いつもこんな感じであったなあと思い返す。彼なりに怖がらせないようにと気を遣った声色なのかもしれない。

「いや、本当に……ごめん。無神経だった」
「別に良いよ、私もそこに置きっぱだったじゃん」

 何度良いと断っても、スコッチは食い下がるようにごめんと続けた。私もそれに被せるように首を振る。ふと、頬を手のひらが覆った。涙で冷えた頬には、冷たい手のひらの温度も少し温かに感じる。
 吊った目じりが下げられて、彼は薄い唇を一度引き結んでから、もう一度小さく「ごめん」と謝った。


「そんな風に泣くと、思わなくて」


 私はそれを聞いて、何それと小さく笑った。だけれど彼の顔は真剣さを帯びていて、なんだか色っぽくも思える。
「……じゃあ、一個だけ聞いてよ」
「ん……?」
「シャワー浴びる間だけ、傍にいてくれない? さっきのシャワーシーンめちゃめちゃ怖くてさ」
 なんて、あまりに幼い頼み事だろうか。ブランケットをきゅっと手繰り寄せながら窺うように見上げると、彼はそれまで申し訳なさげに歪めていた眉間の皺を深めて、ハっと息を吐きながら笑った。何だそれ、先ほどの私の言葉を復唱するようにして、彼も笑うのだ。

「えぇ、駄目?」
「駄目じゃないけど、もっと何かあったろ」
「一緒にお風呂入ろ〜とか」
「嫌だ」

 そんな、間髪入れず断るなら聞かなくとも良いのに。私も声を上げて笑いだしてしまった。結局スコッチはうなじを掻きながら、「まあ、外にいるよ」とだけ頷いた。こんな口約束、破ったところで何の損もないだろうに、やはり持ち前の人の好さというやつなのか、彼は私がシャワーを終えるまですりガラスの向こう側で背を預けていた。
 偶に彼に語り掛けると、ため息交じりに彼の指が人差し指をノックする。言葉ではなかったけれど、他のどんな言葉よりも、その音に安心した。ここにいると――その背中が語っているようだった。

「スコッチ?」

 彼を呼ぶと、振り向くことはなく、だけれど肩が少しだけ跳ねる。「こっち覗いた?」と尋ねると、二回のノックが返ってくる。否定の合図だ。一回は肯定である。


「はは、モールス信号みたい」


 コンコン、と響く音をそう揶揄ってやると、スコッチは先ほどまで黙っていた口を開いた。相変わらず背を向けたままではあったけれど、彼は笑っているようだ。声色と、その雰囲気がそう思わせた。

「……懐かしいな。昔覚えたよ」
「げっ、どんな子どもだよ……」
「男同士だから、よくあったんだ。そういう――暗号みたいなの、流行るだろ」
「さあ……」

 そうなんだ、と相槌を打つ。子ども同士で話したことなんて、河原で出会ったあの少年が最初で最後だった。彼は少しだけ沈黙を続けて、それからまた「ごめん」と謝った。別に事実なので構わないと言ったら、スコッチは曖昧に頷いた。

「……本当は、言葉が上手く出せないときに使ってたんだ」
「言葉が?」
「小さい頃、緘黙症っていうか、失声症っていうか……。喋れない時期があって、その時に覚えたんだ」

 私はそれに対して、特にリアクションを取れたわけでもなかった。可哀そうになんて言えなかったし、ただハッキリしない「ふうん」、みたいな在り来たりな相槌を返しただけだ。ただ一つ気になったのは、どうしてスコッチがそんなことを伝えてきたのかだ。別に、わざわざ言葉にすることはなかったのではないか。私からしたら、どちらでも変わりのないことだ。


「――ごめん。押し付けだ。オレだけ嘘をつくことに、耐えれなかっただけだよ」

 
 沈んだような声色でそう語ると、彼はそれっきり口を開くことはしなかった。シャワーの音だけが、バスルームに響いていたのだ。