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「……エーガ?」

 ぽつんと、私が吐いた言葉に目の前の男がため息をついた。輪郭に伸びた無精ひげを軽く撫ぜながら、私に差し出したチケットをむず痒そうに震わせた。
「聞いたことないみたいな発音するなよ」
「や、だって。映画って、あの映画? 合ってる?」
「ああ、そうだよ。その映画だ」
「……わ、私と! スコッチと、私が?」
 どういう風の吹き回しだと食い下がったら、彼はまだ発券したばかりだろう新しいチケットを引っ込めた。「嫌なら良い」と、素っ気なく言われて、私は慌てて彼の腕を捕まえる。別に嫌なわけではない。だけど、あまりに意外だったのだ。いつも手を引くのは私のほうで、まさか彼からそう言われるとは思ってもいなかった。

「……良いなら、行くけど!」

 私ははしっとその腕を掴んで、チラリと彼のほうを覗き見る。表情を押し殺すような無表情さの奥に、私の表情を窺うような罪悪感が滲んでいる。――ああ、多分だけど、この間のことを謝りたいのだと思った。
 私としてはシャワーに付き合ってくれたことでチャラのつもりだったが、スコッチは気が済まなかったのだろう。別に気にしなくて良いのに、つくづく悪人とは言いづらい男である。

 身支度を整えて外に出ると、車の傍で煙草を吸っていたスコッチが携帯灰皿にその先を押し付けた。少しオーバーサイズのグレーのセットアップが、彼の細身な体を引き立たせる。
 私は細身の赤いカーディガンとデニムパンツを一瞬車の窓で確認する。お腹出てないよね、と角度を変えて見ていると、スコッチが不思議そうに運転席からこちらを覗く。ふるふるとかぶりを振って、車に乗り込んだ。

 ――結論から言ってしまうと、ものすごくつまらない映画であった。
 ありがちな(見たことがないので、分からないが)恋愛物の邦画で、申し訳ないが余生僅かな花嫁と一人を愛することを決めた男――というテーマにまずこれっぽっちも感情移入できず、流れたBGMや主題歌のあざとさに、またこれが冷めた。
 それでも席を立つことなくエンドロールまで見終わったのは、隣でスコッチが思いのほか真剣に映画を観ているのが分かったからだ。相変わらず無表情ではあったが、頬杖をついたその冷たそうな瞳に、スクリーンの光が映るのは綺麗だと思った。画面の中で死にかけた花嫁に男が愛を誓うシーンでは、憂い毛に睫毛が震えるのが際立つ。
 花嫁が死んだ。
 男を囲う環境が、少しずつ変化していく。その中で彼女を愛する気持ちだけは変わらないと、彼は決心をするのだ――。ずずっとカップの中身が氷だけになって、鈍く詰まった音を立てた。ぱちっと瞬いたスコッチの視線が私へ向いて、はっとして視線を逸らした。
 数秒後、そろりと視線を戻したら、スコッチはジィっと私のほうに視線を向けたままだった。興味あるものを観察する猫のような、獣じみた視線と目が合う。ぎくりとしてストローを齧った。スコッチは、長い指先をチョイチョイと出口の方へ向けて首を傾ぐ。
 ――出ようかと言ってくれているのか。今の一瞬で、私が退屈していることに気が付いたらしい。その辺りはさすがの洞察力だと感心しながら、私は大丈夫だと首を振る。彼が折角取ってくれたチケットであったし、スコッチを見ていたら案外飽きない時間ではあった。
 するとスコッチは、親指と人差し指で軽く隙間を作って、口を動かした。「あとすこし」、そう動いたのが分かった。私は小さく頷き、彼の視線が再びスクリーンに戻るのを見つめる。

 ラストシーンに差し掛かると、無表情だった彼の表情が僅かに曇った。ぱちん、と瞬きをするたびに瞳が輝きを増していく。涙の膜が、光を跳ね返していたのだ。私はそんな彼の瞳を眺めて、なんだか不思議な気持ちになっていた。だって、彼はあと少しで死んでしまうのに。こんなことをしている場合ではないのではないか。もっと、他に残すべきものがあるのでは。

『愛してるよ、ずっと、ずっとだ……』

 花束を、思い出の場所に供える。その俳優の表情に悲しみはなく、どこか清々しい様子だ。ますます不可解で、私はようやく流れ始めたエンドロールに大きく伸びをした。


「……恋愛物、好きじゃなかった?」


 小声でそう尋ねたスコッチに、私は笑いながらぶんぶんと手を振った。確かに純愛物は趣味ではないし面白いとも思わなかったが、彼に恨みがあるわけじゃない。

「スコッチは好きなんだ、ああいうの」

 揶揄うようにニヤニヤと笑ったら、彼は首筋を掻いて恥ずかしそうにしていた。彼の良い人っぷりはさんざん堪能したので、今更驚くことでもないけれど、それでも少し意外ではある。好き嫌いはあるとしても、まさか泣くほどとは。

「じゃあ何が好き?」
「うーん、やっぱりアクション系かなあ。ワイスピとか好きかも」
「アー、そうか……」

 そっちかあ、とぼやく彼に、私は苦笑いしながら「逆に私が純愛見ると思ってたのが意外」とツッコんだ。するとスコッチはキョトンとしながら首をかしげて、「どうして」と言うので、今度は私が恥ずかしくなって頭を掻いた。



 ふあ、と欠伸を零して助手席で靴を脱ぎ捨てる。マンションからは離れた片田舎の映画館だった。寝てて良いという彼の言葉に甘えて、瞼を落とそうとした時だ。窓の外――歩く人波のなかに、見覚えのある姿が過った気がした。

 私はその姿を見た瞬間、窓に張り付くように顔を近づけた。歩き方の癖、変わってない。踵を引きずるみたいな歩き方。そこからは、もう衝動のようなものだった。靴を脱いでいることも忘れて、車のドアを開け放つと横断歩道でもない道路の中を走り出す。
 信号が何色だとか、周りの車が走っていただとか、スコッチが何かを言っただとか――そんなことは、もう意識からは放り出されていた。何も見えない、聞こえない。あの背中しか、見えていなかった。

 私がその人波に追いついた時には、その背中を見失っていた。でも何とか見つけ出してやろうと、我武者羅に周囲を走りまわる。

「おい、どうしたんだよ、急に」

 ぐっと腕を引かれた。どうやって追いかけてきたのか、僅かに息を切らしてスコッチが私の腕を捉えている。それを振り払って、私は彼を睨み上げた。

「ごめん、放っといて。今話せないから」
「……ミチルさん、落ち着いて。様子が変だ」
「そりゃそうだろ!! 私の……」

 私の、まで口にして、スコッチの肩越しに先ほどのシルエットを見つけた。私は彼の肩を押し、走った。逃げられて堪るか、二度と見逃すものか!!
 
 人を押しのけて、足の裏に何が刺さろうと踏もうと気にせずに走った。相変わらずだらっと伸びた髪の毛を、鷲掴む。乱暴に引っ張り寄せると、男が唸った。この組織に名乗る前の名前を呼ばれて、私は不思議と口元に笑みが浮かぶのが分かった。

「久しぶり」

 海外に逃げなかったのが、コイツの運の尽きだ。
 否――どっちにしろ、私の手に金が入った暁にはどこまでも追いつめてやる気ではあったけれど。
「横にいんの、今のカノジョだったりすんの?」
「いや、違う、誤解だから……」
「誤解とかないでしょ。ほら、早く座れよ」
 汚いアスファルトを指さすと、横にいた派手な女が「ハァ?」と眉を顰めた。苛々する。私の一件で味を占めたにしろ、その前から常習犯だったにしろ、今すぐにでも殺したいと思うほどだった。目の前の男が舌を打つ。

「分かったよ、金返せば良いんだろ……。百万か、二百万か?」
「……は?」
「あー……違う。一千万だったっけか。じゃ、この一発が百万だな」

 ぐっと鳩尾に鈍い痛みを感じた。大きな拳が、薄っぺらい腹を潰す勢いで押し上げる。おえっと空気を吐いて、私はその場にへたりこむ。違う、彼じゃない。だって、喧嘩なんてしないような優男だったからだ。
 目の前に立っていたのは見るからに厳つそうなヤクザにも見える男だ。その後ろでニヤつくアイツがムカつく。私は腹が立ってしょうがなくて、立ち上がった。ここで膝をついたままでいたら、見下されたままな気がしたのだ。

「……殺してやる」

 絶対、絶対、絶対殺してやる! そのためならいくら殴られたって良い。その代わり思い知らせてやる、お前に安寧の地などないことを、どこまでもお前を追う人間がいることを思い知らせてやる!! 絶対泣き寝入って終わるものか。こちら側で留まるものか。

 睨み上げると、その頬を殴られた。頭まで揺さぶられるような痛みだったけれど、アイツを睨みつけることだけは止めなかった。そうしたら、不思議と痛みは和らいだような気がする。