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 彼と出会ったのは、大きなヤマが片付いて、一人祝杯を傾けている時だった。

 姉が亡くなってから、元より閉鎖的だった私の世界がさらに狭まった。誰かを頼らず、もしも協力者が必要な時は一件限り、互いにメリットのある取引のみだ。それさえ白紙に戻してしまうこともあったが構わなかった。誰かとの信頼関係など別に必要とも思わなかったからだ。
 だって、誰かと手を組めば、その誰かが――否、さらにその誰かとの契約者が捕まった時、芋づる式に巻き込まれてしまう。そんなのは御免だ。
 一件ずつ身元を変えたり住居を変えたりとするのに手間と金は掛かったが、もう慣れたものである。私は下ろしたばかりの現金が入った鞄の重みに一人ほくそ笑んだ。詐欺に使った口座はすぐに凍結されるから、確実に下ろさないといけない。下ろすのは、行きずりのホームレスに金を持たせて頼んだ。

 ――それにしても、今回は美味しかったなあ。
 ちょっと投資をアドバイスしただけで良い気になるのだから、定年間際の男とは騙しやすいものだ。あともう少しで、貯金額の桁も変わる。海外で換金してしまって、あとは向こうでのんびりと贅沢に余生でも送ろうか。

 そんな人生計画を立てている時だった。背中にずるっと生温かな体温が触れた。


「あ、ごめん……痛くなかった?」


 酒臭い息を気だるそうに吐いて、彼は虚ろに瞬いた。男にしては少し長い髪を後ろで一つに纏めている。足元から、服装を見るのは癖になっていた。恐らくだが、その明るい髪と所々色が抜けたパンツに、美容師ではないかと思う。手には二杯グラスを持っていた。

 私はふいっと顔を背けて、知らないフリをした。まあ、別に服が汚れたわけでもなし、怒ることもないか。けれど優しい言葉を掛ける義理もなかった。好みのタイプでもなかったし。

「う……」
「え、待って、ちょっとぉ!」

 けれど、彼が籠ったような声を零したので、私はハっとして振り返ったのだ。そんなところで吐かれては困る! 慌ててよろけた体を支え、私とは逆側を向かせた。幸い吐き気は途中で収まったようで、ホっと胸を撫でおろす。

「あ、ありがとう……」

 その時に、どうして礼を言われたのか私には分からなかった。
 自分に掛からないように支えただけだけど――? だけれど、その引っかかりが彼への興味に変わっていた。彼が何を考えてそう言ったのか分からなくて、ひとまず隣の席に座らせてしまったのだ。そのことを尋ねたら彼は「ああ〜っと……なんでだろうな」なんてヘラっと笑っていた。

「ふっ……」

 変なの、言葉には出さなかったけれど笑いが零れる。
 私が今まで接してきた男と彼の決定的な違いは、明らかにうだつの上がらなそうな男であったことだ。偉そうにしないし、頭は悪くないのにちょっと抜けている。仕事を共にする男たちと比べれば優しく穏やかで、カモにするにはやけに賢い男だった。
 性格なんて合わないだろうと思っていたのに、話してみると時折私に似たところを見つけた。それが案外楽しくて、バーが閉まるまでの時間が五分にも感じた。

 彼は見るからに少し情けなくて、ひょろっと高い背丈を丸めながら歩く。いつもサンダルを履いているクセなのか、踵を少し引きずるような足音が妙に印象的だ。

 好きだと言われたのは、彼と会って三回目のとき。
 嫌じゃなかった。彼といるとドキドキしたし、手を握ればホッとした。私も人並に誰かを好きになるのだなあと思った。過去のことに触れると、少しだけ表情を暗くして怒ったようになるのに安心していた。きっと私と同じように、彼にも後ろめたいことがあると分かって嬉しかった。

 今思えばそれが果たして恋だったのか、単なる自分の安心できる場所を探していたのかは分からない。

 初めて姉以外と同じ部屋に住んだ。
 暗闇から目を覚ますと、見知った背中がそこにある感覚は懐かしくて、そっと手を伸ばした。触れるとちょっと汗ばんでいる。
「どうしたの」
 掠れた声が尋ねかけた。私が何でもないよと言うと、彼は私のほうに寝返りを打って笑った。


「……結婚さ、する?」


 脈絡もない、ただ寝ぼけた声が一言そう告げた。
 一緒にいようと思った。私も、今の仕事でお金をじゅうぶんに稼いだら、あとは彼の為に生きよう。曖昧に頷いたら彼は首をゆるゆると振る。

「頑張らなくて良いよ」
「……え?」
「もう人を騙したり、嘘をつかなくて良いよ。もう少し大きな家を借りてさ、一緒に住もう。子どもはいても良いしいなくても良い。毎日適当なことで笑って、一緒に寝て――そうやって過ごしたい」

 私はほんのりと口角を緩ませて頷いた。
 僅かに心が軋んだことには、目を背けた。そう、過去の私もきっとそんな日常が送りたかったのだ。だから喜ばなくては。昔のことなんて忘れてしまおう。


 ―――
 ――
 ――騙されたと分かったときに襲ったのは、悲しみよりも悔しさだった。あれほど、姉の生き様を見て学んだじゃないか。弱い人間は搾取されたあとの殻さえ残させてもらえないのだ。恋という錯覚に、そんなことすら忘れてしまったのか。
 悔しい。
 悔しい、悔しい!!
 二度と、搾取などされるものか。こんな惨めな思いになるものか。
 絶対にコイツにも同じ想いをさせてやる。その人生すら奪い取ってやる!!


「――っよせ!!!」


 びりっと私の鼓膜が震えた。鼻血がボタボタと唇を伝っていく感触が、ようやく実感できる。あ、顔を殴られたのか。その感覚も、もうなかった。ただその場に立っていたいという意思だけで踏ん張っていた。

「……まさか、殺す気じゃないだろ」
「なんだよ、お前。ソイツの今の男? 気色悪いからストーカーはやめとけって伝えてくれよ」
「――聞こえなかったか。殺す気じゃないよな、って言ってるんだ」

 他の言葉は聞いていない、有無を言わせないような口調で、彼は目の前の男たちに告げた。私に向けた冷たさなど手加減したものだったのだ――そう思わせるような、威圧するような雰囲気があった。体格は私を殴った恰幅の良い男になど大幅に劣るのに、立場はスコッチの方が上だ。そんなことは、私にも、隣に立ち尽くした女にも伝わった。

「あ、当たり前だろ……。勝手に野垂れ死ぬかは知らないけどさあ」
「誰かは聞かないけど、やめた方が良い。……死ぬよ、お前」

 冷たい声だ。それにピシャっと頭が覚めたように、男はもう一人の男と目配せをする。するとスコッチはニコリと笑うと、そのヤクザのような男に対しては小さく「烏が見てるよ」と囁いた。途端に、勢いの好い謝罪と共にドタドタと足音を荒げて去って行ってしまうのだ。――多分組織の隠語だと思うのだが、本当に一体何の組織だというのだろうか。

 恨めしい姿がかすんで見える。
 よほど、スコッチのその態度が恐ろしかったのだろう。報復を恐れたのか、彼は「ほら」と地面に札束を投げ捨てて、女の手も引かずに踵を返していった。足元にある札束は、恐らく百万と少しか。はたしてそれが私の金の余りなのか、まったくの別の金なのかは判断できなかった。

 それがまた私の神経を逆撫でして、私は男に殴りかかろうとした。

 この野郎!! これっぽっちの金で、私の恨みが晴れると思うなよ。これっぽっちの――これっぽっちの!!! 口の中が切れていて、多分どこかの歯も折れたみたいだ。血の味がして上手く喋れなかった。

「〜〜ッ!!!!!」

 ただ、我武者羅に、もう痛くもない拳をぶつけようとした。
 一生掛かっても殺してやる。絶対に忘れてなどやらない。私の行き場のない拳を、冷たい手のひらが受け止めた。「ミチルさん」、スコッチが冷静な声色で呼ぶ。
 離して。お願い、アイツを追いかけたいのだ。
 奥歯を噛みしめてスコッチを睨み上げる。彼は、先ほど男にも向けていただろう冷たい視線で――だけれど熱のある怒りの表情で、私を見下ろした。


 乾いた音。


 痛んで感覚もないと思っていた頬に、刺すような痛みが降り注いだ。「いた……」、そう呟いた自分自身の声に、思ったより喋れたことに漠然と驚いていた。