目の前の男が、少し息を切らした。周囲の喧騒が、徐々に耳に入ってきた。やだ、喧嘩、痛そう、そんな言葉を後ろに聞きながら、私はぎゅっと眉間にしわを寄せた。表情を動かすと、傷が痛む。
スコッチの表情も歪んでいる。今までにないくらい、彼はギュウっと眉間にも口元にも皺を寄せていた。怒っている。ポーカーフェイスも何もなく、すぐに理解できた。今まで感情が高ぶると決まって無表情を決め込んでいた男が、ただただ、今は怒りに震えていた。
「……早く行け」
彼は背後に立ち尽くすばかりの女に肩越しに告げると、アスファルトに落ちていた札束を拾い上げて私の手を引いた。
最初は何が何だか分からなくて困惑するばかりだったが、手を引かれて歩いているうちにだんだんと腹が立ってくる。だって、ここまで殴られたのに。撫でるとか心配するとかならまだし、追い打ちで叩いたりするか、普通。私のことが嫌いなのは知っていたけれど、これだけ鼻も頬もボコボコの女に手をあげなくても!!
彼は憤った足取りで近くの公園のベンチに私を座らせて、待ってろと端的に告げると踵を返した。次に帰ってきたときには、応急手当の道具を幾つかビニール袋のなかにぶら下げていた。
スコッチは、手際よく消毒液で血を流し、腫れた部位には冷えピタを切って貼り付けた。鼻血で濡れた顔の下半分をぐっと拭い取って、口の中はすぐに治るからと口をゆすがされる。
「体は?」
「……なぐられたけど、おれてないとおもう」
「そう……」
はぁ、とついた息は、ため息というよりはどこか安堵の色が混ざっていた。ますます意味が分からない。なんで、私の怪我の様子に彼が安心するのだ。
「な、なんで叩いたの」
私は目の前に腰を下ろした彼の表情を少しだけ睨むように問いかけた。叩いたり、治療したり、なんだというのだ。多重人格か情緒が不安定な人間なのか。少しだけ怒ったように声を上げて見たら、彼はぐっと口元を歪めた。
「ふざけるな」
獣が威嚇するみたいに歯を僅かに剥き出して、彼は言う。言葉を次げない私に、スコッチは待つこともなく続けていった。
「自分だけ被害者ヅラをするな! 君もあの男と同じだ。誰かの努力を、人生を搾取しながら生きてることをなんで理解しない!?」
「そ、んなの……」
「自分のことを理解しろ! 君は立派な悪人だ。君が血反吐を吐きそうなほど恨んだ想いを、誰かにさせながら生きているんだぞ!!」
――分かっている。
そう言おうと思った言葉を、口にできなかった。分かって、いたのだろうか。分かっているつもりではあった。だからこそ、より強い場所にいないと不安だった。搾取されない位置にいないと、他の誰かに奪われてしまうような気がしたのだ。
本当に――? 知ってはいたけれど、理解はしていなかったかもしれない。私が先日土地の権利を巻き上げた誰かも、あの日レジの売り上げをチョロまかした誰かも、こんなおどろおどろしい恨みを抱えているというのか。
怖い。だとしたら、私は一体何人に恨まれていることになるのだ。何人に、殺したいと思われているのか。そう思ったら、言葉をゴクンと吞み込んでしまった。
スコッチは押し黙った私に、次の言葉を迷ったように一度吐息だけを零す。そしてまだ腫れた頬を、そっとなぞった。
「善人になれとは言ってない。誰かを騙すなとか、君のしている仕事を否定してるわけじゃない……。ただ、自覚を持つんだ。理解しなくちゃあ、駄目だ」
真剣そうに、彼は私に視線を合わせて、まるで幼いこどもに言い聞かせるようにゆったりと語った。
「人を不幸にするなら、しっかりそういう覚悟を持て。自分だけが可哀そうなんて勘違いをするな。それは、ただの子どもの我儘と一緒だ」
不思議だ。
どうしてか、そう語る彼の言葉は、結婚しようと言われた時よりもやけにしっくりと胸に馴染んだ。私が小さく頷くと、彼は怒っていた顔を僅かにひっこめて、ようやくのこと口角を小さく持ち上げた。
「叩いたの、痛かったよな。ごめん」
申し訳なさそうにスコッチはそう告げる。そしてジャケットのポケットから、拾った札束を私のほうに差し出し、首を傾げた。
「……これは、君のだ。どうする?」
そう言われて、私は視界がジワジワと滲むのを自覚した。前ホラー映画を観た時とは違う。はらはらと、頬を涙の筋が伝った。痛かったからか、悔しかったのか、怒れたのか――ただ単純に、悲しかったのか。イマイチ分からない感情を押し出すように、涙が溢れた。
ただ、その百万といくらかの札束を受け取ることはできなかった。
手のひらに涙の粒が落ちていく。ぼんやりと、それを見つめたまま私は泣いていた。あのくだらない男のことが、好きだったのだと、その時に思った。今まで怒りと恨みの影に隠れていたけれど、たぶん、恋と呼んでも良いくらいには特別に思っていたのだ。
「……こんな、うすっぺらい」
涙で滲む視界のままに、私は札束を眺めて笑った。あの男にとっての、私はこれか。悲しい――悲しいんだ、私。
どのくらいそうしていただろうか。ただただ泣きながら座っている私と一緒に、スコッチも座り込んでいた。何も言うことはなく、触れることもなく、そこにいた。本当はどう思っていたかは分からない。愚かで情けないと思ったかもしれないし、同情したかもしれない。でも、離れることはしなかった。
私の顔についた乾いた血が涙で洗い流された頃、スコッチはようやく、私の頬を柔く拭った。人のことを怒ったくせに、どうしてか罪悪感があるようにそこに居座るのだ。ポツリと、呟いた。口の中が痛かったから、あまり大きく動かせなかったので、殆ど独り言のようなものだ。
「スコッチって、変」
「……ヘン?」
「私のこと、全部知ってるみたい。実は秘密警察とかなんじゃないの?」
私は揶揄うようにニヤっと笑って見せた。
だって、まるで私が詐欺師であることも結婚詐欺に合ったことも全部知っているみたいなんだもの。まあ、以前も同じようなことを口走ったことはあるし、組織と契約してからも何度か仕事はしていたから、調べようと思えば分かることだとは思う。
「……まさか、警察が人殺しなんかしたら問題だ」
「確かにね」
私は軽く頷いて、彼をベンチの隣に座らせた。陽も沈んで、風が冷たい。傷に染みて、ぶるっと背筋を震わせた。そういえば、車はどこに置いてきたのだろう。まさか道路にそのまま置き去りにしたのか――交通課にレッカーで運ばれていても可笑しくないと思うが。その時は、車を取りに行くくらいはしても良いかなと思う。あのまま殴られていたら、さすがに鼻が折れていたかもしれない。
「……まあ、オレがいなくなったら本当のこと教えても良いよ」
「えっ、本当!?」
「そんなに気になるか……?」
「そりゃ、気になるでしょ。あ、イタッ……」
前のめりになった所為で痛んだ腹を押さえて座り直す。彼はそんな私を見て、クククと喉を鳴らして笑っていた。それが――なんだか、彼の素顔であるような。違うかもしれない。感覚的にそう思っただけだ。
「何が知りたい?」
「あ、選択制なんだ……」
「当たり前だろ。誰が見るのかも分からないのに」
一個だけな、スコッチは人差し指を立ててそう告げる。
私は悩んだ。彼について聞きたいことはたくさんある。スパイだというなら、本当の職業は。本当の名前は。どんな場所で育ったの、家族はいる? いつも言ってる、アイツって一体どんな人?
「――……てほしい」
「……何だって?」
「本当は、私のことどう思ってたのか……教えてほしい」
尻すぼみになる声色で告げる。どうにも私らしくなくて、恥ずかしかったからだ。スコッチは一度は驚いたように瞬きを多くしたが、すぐに笑って頷いた。もう十一月も終わるような、空の高い日のことだ。