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「どっ…………」


 歯磨きを咥えたままテレビを見ていた私の前に、素っ頓狂な声が落ちてきた。「ど?」、私はそのまま首を傾げる。見上げると、出かける支度を済ませたらしいバーボンが手に持っていた携帯をカーペットへ落とした。

 彼はさも何事もなかったかのように携帯を拾い上げて、ソファの前に膝を下ろした。私の顔を覗き込むようにして、何かを確かめるようにして頬や唇をなぞっていく。

「どうしたんです、こんな傷ばっかり」
「いたっ、ああ……これね……」

 鼻の根本を指先が掠めて、私が露骨に肩を跳ねさせると、バーボンはぱっと手を引いた。これでもあの出来事から三日ほどが経っているので、腫れは引いた方である。翌日は頬はパンパンだったし、あざだらけでとても人前に出れる顔じゃなかった。まだ少し輪郭はぶくりとしているかもしれないが、昨日見かねたライが差し入れてくれた薬のおかげでだいぶ痛みはない。

「ちょっと喧嘩に巻き込まれちゃって」
「そうですか、痛むでしょう」
「あはは、ヘーキ。ありがとね」

 私が笑うと、バーボンはじぃっと大きな目つきで私を見つめた。どこか不思議そうに、ゆっくりと一度瞬くと、パチンっと睫毛が重なって音が鳴るような気がした。いつもならやんわりと「どういたしまして」なんて会釈しそうなものだが、彼がいつまで経っても目の前から動かないので、私ははてと彼を見つめ返した。
 バーボンははっとしたように表情に余裕を取り戻し、小さく笑った。

「あ、いえ……すみません。ずいぶんと雰囲気が違うような気がして」
「雰囲気」
「こう、ありきたりですが、憑き物が落ちたような……。悪い意味ではないですよ、良かったです」

 そう語る彼の表情はどこか優し気で、私自身僅かに自覚はあったから、まあそうなのかもと思った。今まで元彼のことばかりを恨んで、渦巻いていた想いが、晴れたわけではないのだがストンと胸に落ちて理解できた。その所為だろうと思うのだ。それは、私が人生で初めて味わった失恋とも呼べる感情だったのかもしれない。

 あの後悶々とそのことを考え続けたが、次第に馬鹿らしくなってきた。私は私で、さっさと大金を手に入れて思う存分余生を楽しむことにしよう。そう、今回の報酬さえ手に入れば、別にあとは細々と暮らしていけば――。

「……」
「昼過ぎにはライが帰ると聞いています。戸締りはしっかりしてくださいね」
「……ん、行ってらしゃい」

 しまった、僅かに沈黙を返してしまった。少し考え事が過った所為だ。案の定目敏いバーボンは「何か」と微笑みながら首を傾いでいる。私は下唇を小さくして、言葉に迷った。――まさか、言えるわけもない。スコッチのことをあと少しで裏切り者として摘発することになっているのだと。
 今までだって隠してきたのに、どうしてか一瞬口が緩みかけた。それは、もしかしたら彼ならば――スコッチが裏切り者だと分かっても、どうにかしてくれるかもしれないという僅かな希望を覚えた所為だ。
 私は慌てて自らの心にかぶりを振る。そんなわけがない。第一、それをスコッチが望んでいるのに、私が妨害してどうする。なんでもないと笑って、私は彼の背をグイグイと押し部屋から送り出した。きっと怪しみはしただろうが、細かいことを言いながらも甘い男だ。それ以上、彼が踏み込んでくることはなかった。


 私は小さくため息をつきながら、扉を閉めバーボンに言われた通りしっかりとチェーンを掛けた。

 ――スコッチに、死んでほしくないと思っているのだろうか。

 確かに、どうして死のうとするのだろうか。疑問には思っていたが、止めたいだなんてとても。だって、止めたら私にお金も入らないし、スコッチだって何か目的があってそう言っているのだ。互いにとってデメリットしかない。
 ――まあ、そりゃあ、誰だって間接的にでも人を死に追いやるなんてしたくない。
 死刑執行のボタンがいくつもに分かれているように、罪悪感が人生を狂わすからだ。今の私は、きっとその責任から逃れたくて、少し怖気づいているのだろう。


 自身に言い聞かせて、くるりと踵を返す。――ふと、リビングに差し込んだ朝日を何かが跳ね返した。きらっと床で光るような眩さを受けて、私は歩み寄る。ガラスか金属のように、光を跳ねている。反射した光は、淡く色を持って床に斑点を映していた。

 ぺらりと落とされたそれを拾い上げて――私はバっと振り返った。これ、バーボンのものだろうか。それとも、別の誰かの。ジッと拾った小さな其れを両手で握りしめると、皺が寄った。

 ずっと忘れていた物なのに、一目見れば間違いなく同じものだと分かる。幼いころに河原で出会った少年が握っていたものと同じだ。
 ホログラムの、プリンセスシール。
 ガラスの靴がキラキラと光を浴びて輝いていた。それほど高価なものではない。オモチャか何かのオマケでついていたような、小さなシールだ。ゴクリと喉を鳴らして、私は恐る恐るシールをひっくり返した。

 子どものころは、大事にしていた。
 それこそ肌身離さず持っていたし、眠るときもその僅かに跳ね返る光を眺めながら眠った。子どもらしいオモチャや遊びなど一切知らなかった私の中で、それはひどく印象的だった。
 その頃に唯一、打算も下心もなにもなく、ただの好意で貰ったもの。
 それを眺めていたら、私も誰かに必要とされているような、大切にされているような――妙な温かさに心が満ちた。だから、なくさないようにしようと神経質にもなっていたのだ。


 そっとひっくり返したシールの裏面に、幼い文字が並んでいる。


 読みづらい、汚い文字だ。だけれど、何と書いてあるかはすぐに分かった。だって、それを書いたのは紛れもなく私だ。私の――私の、名前。釘宮ミチルではない。戸籍にも載っていない、私が幼いころに姉から呼ばれていた名前だ。それが本当の名前なのかも定かではなかったが、私にとっては姉と二人だけの間で呼ばれていた特別な名前だった。


「だ、れが……」


 誰が、どうしてこんなものを持っている。
 まさか、私の荷物に紛れていた――? いや、そんなことはないはずだ。当時のアパートからは転げるようにして追い出されてしまって荷物なんて持ってきていない。第一、そんな目につく場所にあれば今まで忘れるようなこともないはずだ。
 なら、誰かが持っていたのか。バーボン、ライ、それともスコッチ――。いや、だとしても、どうして。

 私はそれをギュウと握りしめて、視線を泳がせた。
 
 それからどのくらい時間が経ったろうか。窓を風が揺らす音。その音に、僅かに混ざって玄関のほうから音が聞こえた。慌ててポケットにシールを仕舞い込む。乱雑な物音は、ライのものだろう。

 静かに呼吸をして動揺を隠すと、バタバタと玄関に向かって走った。ライはポケットに手を突っ込んだまま、こちらに視線を遣る。何も言わなかったが、瞬いた瞳と僅かに傾いだ首が「どこかにいくのか」と尋ねていたのは、何となく察した。

「うん、ちょっと出てくる……あ、薬ありがとう!!」
「シャワー浴びたら塗り直せよ。特に鼻、適当に処置してると膿が溜まる」
「分かった。行ってきます!」

 横を通り過ぎると、彼は勢いの良い私の体を避けるように体を傾けた。ふわっと長髪が靡くのを横目に見て、私はマンションを飛び出た。

「え〜っ、どこだっけ……!!」

 何とか思い出せる限りに自分の故郷を思い返す。あの日、追い出されてから一度も帰ったことのない、幼少期を過ごした狭い一室。今頃はきっと、窓の隙間から冷たい風が室内に拭いていることだろう。
 ポケットの中から落ちていないかだけが心配で、時折その光を確認しながら、私はイルミネーションが飾られはじめた街路樹の横を走り始めた。