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 周囲の建物の記憶を辿って、住宅街をさ迷った。当時の住所などとんと覚えてはいなかったものの、近くにあった小学校の名前だけはよく覚えていたのだ。あの日に出会った少年が通っていただろうと思って、横を通るたびに覚えていたせいである。
 だから、おおよその場所はすぐに特定できた。問題はそのあとだ。さすがに店の名前は変わっているところばかりだったし、さすがに家の一件ずつを覚えてはいない。もしかするとアパートだって、私が知らない間に外装を変えたり取り壊されているかもしれない。

 ――第一、見つかったとて、そこはもう私の面影さえ残さない他人の家だ。つい動揺して飛び出してきてしまったが、行って何がわかるわけでも――。

 はぁ、と一人ため息を零して立ち尽くした。
 立ち尽くしたのは、諦めたからではない。見上げたその建物に見覚えがあったからだ。古びた階段も、錆びれたポストも、少し傾いた表札も。アパートの名前は塗り替えられていたが、恐らく間違いない。
 どうしよう、いつぶりだろうか。
 家族が待っているわけでもないのに、鼓動が次第に大きく、体の中を響いていく。高揚なのか、緊張なのか――それは自分には判断しづらかった。ただひらすらにドキドキと鳴る胸を押さえながら、そっと古びた階段に足を掛ける。

 懐かしい。
 家の鍵を閉めたまま姉が出かけてしまった日は、階段にしゃがみこんで帰りを待っていた。錆びた階段に足を引っ掻けたこともあった。安いアパートだったけれど、時折心配したらしい誰かに絆創膏を貰ったりして――。けれど、あまり他の人に見られると、どこか施設に連れていかれてしまうと聞かされていたから、慌てて逃げたものだ。

 私が住んでいた部屋は、階段を上がって、突き当りから一個手前の部屋だ。今は空き家だろうか、誰かが住んでいるかもしれない。ちらりと格子を覗くと、カーテンが仕舞っていた。どうやら誰かしらが借りているようだ。

 ドアの前で、昔を懐かしく思いながらポケットを確認した。
 私の育った場所、シールに描かれた私の名前。一体誰が――どうやって手にしたのだろうか。ぎゅっとそれを握ってドアの前で立ち尽くしていた時、背後からグっと手をひねり上げられた。

「いだっ……!!」

 先ほどまで見つめていた冷たい扉に頬を押し付けられて、治ったばかりの口の怪我が痛んだ。次の瞬間、背中がザワっと粟立つ。今すぐにでも私を殺してやりたいと、誰かの視線が語った。武器を突き付けられているわけでもないのに、その殺気だけはスコッチと引けを取らず、本物であったように思う。

 しかし、妙なことにその殺気はすぐにナリを潜めた。
 「女……」、と背後の声が確かめるように呟いた。低くはない。青年にも男にも思えるようなトーンではあったが、僅かに掠れたハスキーな声色が、青年よりは大人びて思える。するりと腕が解かれて、私は力が抜けたようにドアにもたれかかった。治りかけていた頬の痣がズキズキと痛む。

 どうやら組織の人間ではないと分かると、私は振り返って男に食ってかかった。

「いったいんだけど! 急に何するの!!」

 頬を押さえて(まあ、できたら慰謝料くらいふんだくっても良いかも――くらいには思った)、キっと睨み上げて見せる。目の前にいた男は、生意気そうな目つきを細めて頭を掻いた。面倒くさそうに対応されたことに少しばかり腹を立てながら、私は小さく首を傾げた。

 ――見覚えがある、ような気がする。

 どこかで見たことがあるような、ないような。その偉そうな態度に覚えがあったのだが、思い出せず眉間にしわを寄せていると、男も同じように眉を顰めて私の顔を覗き込んだ。煙たい匂いが鼻を掠めて、私はアっと顔を上げた。匂いは何より記憶に残るとはよく言ったものだ。

「チンピラ男……!!」
「――お前、あの時のノロマ女か?」
「誰がノロマだよ」

 歯を剥き出して威嚇するように食い下がると、彼は大きく、それはもうわざとらしくため息を「ハァ〜」、と零すのだ。いつだったか、道に立つ私を邪魔だとか喧嘩を売ってきた、ミステリアスさの欠片もないチンピラ男だ。背後に抱えた花束がやけにアンバランスで、そのことを印象深く覚えていた。

 男は面倒そうに煙草に火をつけると、今にも崩れそうな柵に背を凭れさせた。そこの柵、結構錆びていたから服が汚れると思うのだけど、敢えて言わないでおく。先ほどの暴言の仕返しである。

 このまま立ち去ろうとも思ったのだが、どうにもこの部屋のことが気になった。

 私の体を取り押さえた理由は、恐らくだがこの部屋の住居人だと思ったから――ではないだろうか。そして、その人物は恐らく男なのだ。そうでもないと、私と誰かと認識すらしていなかったのに、あれほどの殺気を向けることに説明がつかない。
 もしかしたら、その男が組織と関係しているとか――? まさかとは思ったが、今はこのシールの行方を辿るためなら僅かな可能性でも考えておきたい。

「おい」
「……それ、私に言ってる?」
「他にいねーだろ。お前、そこに住んでる奴と知り合いか」
「……ううん。小さいときに住んでたってだけ」

 彼は私が答える姿を、ジっと見据えた。
 顔だちは然程大人っぽいものではなく、相変わらず短絡的な貴重であったが、揺らがない瞳にギクリとするものがある。その色は、どことなくスコッチに似ているような気がした。まるで、嘘をついていないか、騙そうとしていないか――そんな心の奥を見抜こうとしているようだ。

「ね、私も知りたいの。ここって、どんな人が住んでるの?」
「――なんで、そんなことを知る必要がある?」
「良いじゃん、別に。ちょっと探し物してるだけ」

 嘘ではない。この男に、誤魔化すような嘘はやめたほうが良いと本能が叫んでいた。当たり障りなく答えると、彼はぎゅうと顔を歪めて、私の手をグっと掴んだ。「えっ」、引かれた手に思わず声が零れる。彼はポイっと捨てた煙草をつま先でグリっと潰し、一言だけを伝えた。

「来い」

 ――来い……来いって何!? 偉そうな奴!!
 まるで命令口調である。その後も何やかんやと背中に向かって文句を吐いたけれど、彼はついぞ口を開くことはなかった。次に彼が口を開いたのは、近くにあるファミレスに入ったときに店員に言い放った「喫煙席で」という言葉だ。
 
 腕を引かれるまま奥の席まで連れていかれて、私はムカムカと胸がざわめくのを感じながら、その手を振り払った。どうやらこのまま帰してくれる様子でもなかったので、案内された席に座った。
 こうなったら、コイツにとことん奢らせてから帰ってやる。
 足を組んでため息をつく。曜日の感覚があまりない方なので気づかなかったが、今日は休日だったようだ。正午を少し過ぎた店内は賑わっていて、私たちの声も喧騒に紛れてしまいそうだった。

「で、何……? 私、連れてこられる必要あった?」
「本当に知らねえのか、あそこに住んでる奴のことだよ」
「……知らないよ。ただ、本当に……私が知りたいことの、手がかりになるかもってだけで。今は誰かが住んでるんでしょ?」

 私が問えば、男は口元を僅かに曲げた。そして、緩く首を振る。

「いや、正しくは住んでた≠セ。今は誰も住んでねえ」
「――……でも、カーテン掛かってたよ」
「そりゃ、大事な現場だからだよ。荒らされちゃ困る」

 「現場」、私は彼の言葉をそのまま復唱した。現場――ということは、何か事件がったのだろうか。複雑そうに、反対向きへ首を傾けると、男は私のほうへズイっと顔を近づけた。

「手がかりになるならなんでも良い。協力しろ」
「やだ」
「即答すんじゃねえ。代わりにお前の――……なんだ、探し物とやらも手伝ってやるよ」
「やだよ。大体チンピラに何ができるって……の」

 目の前のピントがボヤけた。あまりに近い場所に何かを突き付けられたせいだ。何度か瞬いて、私はギョっと目を剥いた。そして、今すぐに裸足で逃げ出したい衝動をなんとか呑み込む。目の前には、金色に光る桜の紋章。見間違えるわけがない。

 巡査部長 松田陣平。

 顔写真は、奇しくも目の前に居座るチンピラ男と一致したのだった。