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 まさに、蛇に睨まれた蛙。
 最大の天敵を目の前にして、私は先ほどまでの威勢をひっこめテーブルに置かれた生ジョッキの泡を見つめていた。こんなことなら、お酒なんて頼むんじゃなかった。目の前でガツガツとオムハヤシを頬張る男を一瞥する。
 だって、こんなやつが警察官だなんて思わないじゃないか。
 確かに、警察官の中にはヤクザを相手にする課もあって、厳つい男がいることも知っている。だけれど、彼はそういう柄の悪さではなくて――もっと、地元の不良じみているというか。彼は私の視線に気が付いたらしく、頬をいっぱいにしながら睨み上げてきた。恐ろしくはないものの、カチンとはくる。

 ――いや、今は駄目……。喧嘩売ったりしたら駄目……。

 一度捕まれば完全にアウトだ。今まで積み上げてきた犯罪経歴など、懲役に換算すれば何年になるのだか。考えただけで身震いしてしまう。母親のネグレクトとかで情状酌量になるとしても、どの程度の罪の重さだろうか。
 云々と考えこんでいると、ゴクゴクと喉を鳴らし水の入ったグラスを煽って、松田が私に声を掛けた。

「はい!?」
「……やましいことがあるか知らんが、別に問いただしたりしねぇぜ」
 
 ぐしゃ、と特徴的なパーマ毛を掻きながら、彼はしょうがなしというようにテーブルへ肘をつく。手慣れた仕草で煙草を一本取り出すと、軽く奥歯で食んだ。

「これは司法取引じゃねえ。完全に俺とお前の個人的な取引だ」
「……本当に?」
「ああ、手帳を見せたのは、捜査力を貸せるってことを伝えるためと身分証の意味だったが……。お前には逆効果だったみたいだな」

 警戒させたなら悪かった。松田は警察らしくなく、片足を胡坐をかくように持ち上げた。素行の悪いものだ。これなら、よっぽどかバーボンやスコッチのほうが警察らしいだろう。(――ライを含まないのは、まあ、察してほしい。)

「個人の取引って、そんなことして良いの?」
「さあ。だが、必要だ。あの家に関することは一つでも多く情報が要る」
「ふうん……」

 松田は、見た目通りにシンプルな男だった。恐らくその言葉に裏はない。本当に何か知りたい情報があるから私に話を持ち掛けているように見える。分かりやすいのは嫌いじゃなかった。まあ、男としては魅力に欠けるものの。

「でもさあ、私、本当にあの家のことなんて知らないよ。何年前に住んでたんだか……って感じだし」
「分かってる。だが、あの家に尋ねてきたのはこの数年でお前ひとりだ」
「数年……って」

 その数年、ずっと彼は同じ部屋を監視しているというのか。一体どうして。
 私の驚きの混ざった声が、彼にも伝わったのだろう。松田は暫く考え込んだが、白い煙を細く立てながら、懐から一枚の新聞記事を取り出した。手帳に挟まっていたらしく、折り目がくっきりとついている。紙の感じからして、新しいものではなさそうだ。
 一面に載った高いビルから煙が立つ写真、ビルの周りにはヘリコプターが何機か飛んでいる。見出しには【東都を巻き込んだ爆破テロ 殉職者数名】と記されていた。犠牲者ではなく殉職者と書かれているあたり、巻き込まれたのは警察か自衛隊か――。

 私が目を通したのを確認すると、松田は早々と記事をひっこめた。
「昔の事件だ。遠隔操作の爆弾を使ったテロでな、解体してた機動隊員が数名犠牲になった」
「機動隊員……」
 機動隊、って警察とは別なのだろうか。名前だけは聞いたことがあるけれど、いまいち想像できない。ふう、と吐き出された煙が、僅かに荒々しく思えた。口元を隠すように、手のひらが覆う。煙草の先の燃えカスは、もう大分重たくなっているというのに、彼は灰皿に灰を落とすことはしなかった。もしかしたら、手を動かせなかったのかもしれない。


「俺のダチだ。幼馴染だった」


 静かな、震えない声色が、何故だか憂いを帯びて聞こえた。
「……解体、できなかったの?」
「腕前はエース並みだ。そこらの爆弾に手こずるような奴じゃない」
「すごく難しかったとか」
「確かにややこしい仕掛けはあったが……時間さえありゃ、問題ないはずだった。ただ、避難を待っていた。人質になっていたビル内の避難誘導、それを待っていただけだ」
 虚しそうに、彼は語る。
 今まで人の死に触れてこなかったわけではない。誰かが死んだ、そんな弱みにつけ込むために、同情した言葉を掛けたことは多くあった。だが――言葉が出なかった。最近、どうにも駄目だ。キャンティの時だってそう。今までくだらないと一笑していたことに、感情を揺さぶられてしまう。

「犯人は二人組だった。一人は事故で死んだ。もう一人は今の逃走中だ」

 そこまで聞いて、ハっとした。
 彼がその事件に執着しているというのならば、あの部屋にこだわる理由は一つしかない。

「……あの部屋に、住んでたの」
「少なくとも直前まで、二人であの部屋を借りていたのは調べがついてる。名義は嘘っぱちだが……」
「でも警察なら、自分たちで調べられるでしょ。なんで私に?」

 尋ねると、大きな瞳が細められた。ギ、と奥歯をかみしめた音が私にまで聞こえる。歯が砕けないのだろうかと心配になるほどだった。「――調べた」、小さな声が呟く。私はその消え入りそうな音に、思わず「え?」と顔をゆがめてしまった。
 次の瞬間、空気を裂くように怒声が落ちた。


「調べた!! 機動隊員の仕事じゃねーって言われてもっ、なんべんだって自分なりにゃあ調べたんだよ! 無理矢理押し入って厳罰喰らったって、良かった……。ハギを殺した奴をとっ捕まえることができんなら、俺ァ、それで…………それで、良かった……」


 ビリビリと周囲の物全てを震わせるような勢いは、語尾に近づくにつれて次第に小さく窄まっていった。今まで隠していた顔の下半分は、僅かに鼻水が滲んでいる。テーブルに打ち付けた拳に浮かんだ血管が、怒りを顕著に表していた。


「でも、やっぱり駄目だ。機動隊員じゃ限界がある。それでも、当時の解体を担当していたから、現場検証には立ち会うことができた。部屋の中を見たのも二回だ」
「部屋の中、見たんじゃん」
「……だけど、その二回で物の配置が変わってた。まさか犯人が持ち帰るワケがねえ。わざわざ足を残すような度胸があるような奴には思えねえからな……。だったら、誰かが捜査に立ち入ったんだ。捜査一課じゃねえ、機動隊でも……」
「ごめん。私警察機関って詳しくなくて……」


 冷えたグラスに手をつけながら尋ねる。警察なのだから、全員が立ち入れるわけではないということか。ドラマの印象だと、手帳さえあればテープを越していけそうなイメージがあるが、そういうわけでもないらしい。

「公に捜査した資料が残ってねえってことだ。つまり……なんて言えば伝わる? 秘密警察というか、そういう奴らが現場を調べたんじゃねえかと思ってる」
「つまり、その秘密警察たちから情報をふんだくりたい……で合ってる?」 

 内容を整理しながら窺うと、彼は「話が分かるじゃねえか」と満足げに口角を持ち上げた。警察官って、集団組織じゃないのか。こんな単独行動ばかり取りたがる男がいて、警察官も大変である。

 彼の話を聞きながら、私は眉間にしわを寄せ、考え直す。
 ――彼は、部屋の物の配置が変わったと言っていた。本当に警察かは疑わしいところだが、それでも誰かが立ち入ったのは確かなのだろう。もしかしたらその配置こそが、私の知りたい情報の手がかりにもなるのではないか――。そう思ったのだ。

 彼の友人を想うひたすらの怒りに、感情を動かされたわけでは、決してない。私の利になるからするのだ。私は、松田の提案に頷いた。――そう、合理的に考えた結果というだけの話だ。