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 私は松田に自分の話せる範囲の情報を伝えた。
 今、とある組織と仕事をしていること。そしてその監視役についた三人の男の誰かが、このシールを持っていたこと。松田は私が話したことの代わりに、過去に部屋を調べた資料を漁って、シールに関することが書かれていないか調べてくれると言った。望みは薄いかもしれないが、と彼は少しだけ生意気に吊った眉を和らげた。

「……ね、もしその……例えば、三人の誰かがシールの持ち主だったら、その人は警察――ってことになるのかな?」

 私は別れ際に、どうしても気にかかったことを問いかけた。
 そんなこと、松田に聞いても分からないのに。私はどこか心の隅で違うと言ってほしかったのだ。

「さあ。俺の思う通りなら警察官だろうな、他の奴が、あの部屋に立ち入る理由はない。犯人も二人だけで、ヤクザ絡みでもないらしいから……。調べがついてねえ、何か黒いモンがありゃ話は別だが」
「そっか……」

 調べがついていない黒いモノというのに心当たりがありすぎるので、私は曖昧に頷いた。なら、まだ確信はできないということか。裏切り者――だったら、やっぱりスコッチ? それとも、他にも誰か内通者がいるということだろうか。分からないことばかりだが、よく考えれば私もたった今警察官へ情報をツウツウにしてしまった時点で裏切り者も同然である。

 私は松田との連絡手段を話し合ってから、その場を後にした。
 帰る時には陽も傾いていて、時計を見るとまだ午後四時頃だ。真冬も近づき、暗くなるのが早くなった。早くなる夕暮れを歩いていたら、私はふと思い返したように空を見上げた。
 ちょうど、松田と出会ったのはこのあたりだったような気がする。あの時も花束を持っていたっけか、と顔を持ち上げて――。

「……そっか、このビルなんだ」

 古びた新聞記事に載っていた風景と、目の前に広がる町並みが頭の中で一致した。長期記憶には自信がないが、人の顔や口座番号を記憶してきたから短期的な記憶力は人並よりも優れていると自覚している。まるでそこだけ加工し取り除いたかのように、目の前に広がる風景にビルが立てば、新聞の中のものと瓜二つであろう。

 だから、ここに花を供えている人影が多くあったのだ。
 爆破テロに巻き込まれるだなんて、気の毒に。きっと熱かったろう、苦しかったろう、楽には死ねなかっただろうと思うのだ。そうして空を見上げている時に、私はふと唇に指を宛てた。

 自らの仕草に、誰かの影が重なる。
 そう、こうやって町並みを歩いていて――何もない空を、ジッと見上げる瞳があった。何もなくなんてなかったのだ。彼には、きっと見えていた。今の私が過去あったビルをそこに眺めるように、彼にもきっと見えていたのだ。

 ――そうだ、知り合いが巻き込まれて、それでビルが取り壊しになったって……。

 確かにそう言っていた。松田の話してくれた事件と、一致するだろう。
 だけれど私が戸惑っていたのは、そう此処に立っていた人物が、予想していた男とは異なったからだ。確かに、確信はなかった。スコッチが裏切り者であるという情報はどこにもなかったし、私が直感的にそう思い込んでいただけではある。
 
 しかし、そうだとしたらスコッチの行動が益々分からない。

 彼が裏切り者ではないのならば、その人物が他にいるのならば、何故――。どうして、スコッチは自ら裏切り者の皮を被ろうとしているのだろうか。イマイチ腑に落ちないままにその場に立ち竦んでいると、ふと長い影が私の影を覆った。


「……ミチルさん?」


 聞き馴染んだ声に勢いよく振り返る。そして、ぎょっと目を見開いた。私の頬に、その輪郭から伝った汗が零れる。

「スコッチ……」
「やっぱりそうだ……丁度良かった、ちょっと肩、貸して」
「な、にしてんの!? こんなとこで暢気に……ッ」

 フードを被った彼の顔色は、こんなにも鮮やかな夕陽の中にあるというのに分かりやすいほどに真っ青だ。額や鼻筋には、じわじわと汗が滲んでいる。汗を掻くような気温じゃない。明らかに異常だった。
 彼は私が驚いて声を上げているところに、ソっと人差し指を落とした。そして、そんな余裕など持ち合わせているはずもないのに、僅かに微笑む。幼い子どもに、安心しろと言い聞かせるような、柔く穏やかな微笑みであった。


「――シィ」


 彼はそう吐息を零す。私は、ごくっと喉を鳴らした。口を噤んだ私を見て、スコッチは懐を押さえた。

「少し、怪我をしたんだ……部屋まで帰れそうにないから、手伝ってほしい」
「――分かった。タクシーは使わないほうが良いんだよね?」
「たぶん、腰を曲げたら血が滲むから……」

 浅く息を吐いた彼の腕を、首の後ろへと回した。もともと然して高くない体温が冷え切っている。私の支えを借りて、ホっとしたように僅かに耳の裏に吐息が零れた。ドクドクと打つ鼓動は、以前触れたときよりもずいぶんとゆっくりした速度に感じた。

 ――とりあえず、彼を横にするべき?

 マンションまで、少し距離がある。支えてやることはできるけれど、その前に彼が力尽きてしまうのではないか。マンションに着いた時には、動かなくなっていたらどうしよう。ひとまず最寄りのラブホで、酔っ払いのフリをして部屋を借りた。段差を昇ろうとすると、ピクリとその体が強張る。

 広いベッドの上に彼を寝かせて、私はその傍に腰かけた。スコッチは薄っすらと瞼を持ち上げると、一言だけ「水」と呟いた。ルームサービスにあった水を開けて、彼のうすっぺらな唇に宛がえば、小さく喉が鳴る。

「なんか、買ってくる? 消毒とか、そういうの……」
「一応、あるから――。大丈夫、起きたら……自分で……」

 彼は言葉の途中で、うつらうつらと瞼を落とし始めた。
 慌てて彼の手を取ったものの、そのうちにスウスウと穏やかな寝息が響き始める。乾いた血の匂いがした。握った手は、相変わらず冷たい。

 
 死んで、しまわないだろうか。


 このまま、目を覚まさなくなったらどうしよう。
 恐る恐ると服を捲ると、タオルとガムテープでぎゅうぎゅうに止血されたわき腹が窺えた。血は止まっているのだろうか。このままで、本当に大丈夫? 肌がすごく冷たいけれど、出血性ショックには陥っていないか。もともと、こんな温かさだったっけか。それすら判断が難しい。


 早く打つ鼓動の音が、スコッチではなく自分のものだと気づくまで時間がかかった。どうせ、あと数日すれば組織に引き渡す命であったのに。そうしたら、楽には死ねないだろう。拷問されて、死んだほうがマシだとも思うかもしれない。だったら、今ここで見殺しにしてやったほうが良いのかもしれなかった。

 ――でも、私にもどうしたら良いか分からないの。

 彼が冷たくなっていくのが、こんなに恐ろしい理由が分からない。
 その瞼から覗く瞳が私を映さないことに、どうしてかひどく怯えている。
 分からないの。それで良いと思ったのに。それで良いって言ったのは私なのに。私は、私以外どうだって良いはずなのに。

 人の死は突然訪れるものだ。
 そんなこと、私だって知っている。姉もそうだったし、きっと松田も痛くそれを味わったであろう。空っぽになってしまったビルの跡地が物語っている。だから、今ここで彼が死ぬことだって不思議なことでもないのだ。

 それでも、怖いの。
 分からないの、さっきから、涙が止まらないの。貴方に一度涙を見せてしまってから、こんなにも私は涙もろいのよ。責任をとってよ。その指で、頬を拭って。

「スコッチ」

 彼の名前を呼ぶと、指先が一度だけひくっと反応を返した。私はハラハラとシーツの上に涙を零したまま、その指に縋るようにしがみつく。自らの頬の涙に這わせると、固い指先が僅かに湿った。親指の先だけが動いて、私の頬を小さく撫ぜる。――死ぬわけないだろ、と彼が笑っているように思えた。