53

 私の姉は、どんな顔をしていたっけか。
 今となっては、その表情をうまく思い出すこともできないのだ。人が死ぬってそういうこと。私は、幼いころにそう悟った。誰かの記憶に残らなくなること。もう二度と、眠る背中を見ることはできなくなること。
 優しい人ではなかった。私がお腹を空かせていても、知らない顔をして一人缶ビールを開けていたのを知っている。けれど、私は彼女を姉だと認識していた。――きっと、幼いころからそう言い聞かされてきたからだ。誰から。私を生んですぐにどこかへ身を隠してしまった母親か。誰の遺伝子かも分からない父親か。違う。姉が、自身で、自らを姉だと私に呼びかけていたはずだ。

 本当は気づいていた。知っていた。
 どれほど相手にしなくたって、優しい言葉を掛けることすらなくたって。
 彼女が私の唯一の肉親と呼べる存在であったこと。生まれたばかりの新生児が、まさかたった一人で大きく育つわけもないこと。狭いアパート一室であろうと、屋根がタダで手に入るわけもないこと。

『お前の姉さんだよ――』

 そう、呼びかけた存在が、あったこと。
 たぶん、ずっと知っていたのだ。だけどそういう間柄じゃなかったから、今更甘えるのも恥ずかしいし馬鹿みたいだって思っていた。貴女の華奢な背中を見て、ホっとしていたことを悟られたくなかった。
 何より、姉が死んだと聞いた時に、そう思わなければ泣いてしまうと思ったのだ。良い姉じゃなかったって。自分に言い聞かせないと。死んでも良いような存在だったって、思い込まないと。

『才能のある子だ――きっと強くなれる。負けるな、強くなるのよ』

 幼い指先を包み込んだ細い指先の感触を――本当は覚えていたと、そう言ったら姉は鬱陶しがっただろうか。
 今となっては、彼女に確認もしようのない話だ。ただ、その触れた指先から伝わる脈は――例えばスコッチのように、静かなものだったかは、もう思い出せないのだ。


―――
――


「……ん」


 薄っすらと瞼を持ち上げると、天井に点いていた照明が目の奥に差した。さほど明るいような電球でもなかったけれど、寝起きの視界には眩くて、何度か瞬きを繰り返し明るさに慣れようとした。やや寝ぼけがちな思考を呼び覚ましたのは、隣に眠っていたはずの男の影が見当たらなかったせいだ。思わずガバっと布団ごとベッドの下へと落として、よろめきながら立ち上がったが、すぐにシャワールームから物音がしてホっと胸を撫でおろす。その生活音一つに、ここまで安堵したのは初めてかもしれない。

 どうやらシャワーを浴びていたわけではないらしく、それなりの応急手当を済ませたらしいスコッチが上半身をグルグル巻きにしてシャワールームから出てきた。こうしてみると、筋肉がついていないわけではないが骨ばっていて細身なのがよく分かる。上半身が薄いというか、下半身がガッシリとしているというか。

「……大丈夫?」

 自分でも、その言葉が最初に飛び出たことには驚いた。
 スコッチも動揺に少しだけ目を見開くと、気まずそうに項を掻いてベッドの傍らに腰を降ろした。
「ああ。ありがとう、あそこで君を見つけて良かった」
「なんもしてないよ。傷、どうしたの」
「そこ、聞くか? はは、まあ良いや。どうせ話そうと思ってたところだから」
 一人で処置したにしては器用だが、背中側は上手く負けなかったのだろう。私はその包帯を整えて、首を傾げた。以前より少し伸びた襟足が、首元を掠める。スコッチは少しだけ笑う表情を固めてから、自らの親指を擦り合わせた。

「君と約束した例の件、期限を早めよう」
「え?」
「明後日が良い。……いや、早ければ早いほど良いけれど、君にもいろいろあるだろうし」

 何で急に、と表情をゆがめると、スコッチは少しばかり自嘲気味に肩を竦めて笑った。

「これはオレの責任だ、悪い。今回の仕事で少しだけヘマをしたんだ。組織はもうオレに対して確信に近いところまで疑っているはずだ。一度疑った相手を許すような奴らでもないんでね……」

 忙しなく動かしていた親指をピタリと止めると、彼は私の目を見据えた。猫のようだと思っていたツンとした目つきが、今ばかりは人間臭く震えて瞬きを繰り返している。人間って、案外真っすぐ見つめ合うことは難しいのだなあと、どこか達観している私の理性が考えていた。

「つまり、君はそのうち用済みになる。その前に情報を渡して報酬を貰うんだ。オレの――仲間の為でもあり、君のためだ」
「でも、スコッチは……」
「殺されるだろうな。それを見越して頼んでいる。そんなこと、最初から知ってただろ」
 お互いウィンウィンな取引だ、と彼は茶化すように明るい声色で言い放つ。
 そうだ、それで良い。私は貰った報酬で――。このまま、悠々自適に暮らすはずで――。

「気分は良くないよな。悪いと思ってる……でも、オレもただで死にたくないんだ。どうせ命をくれてやるなら、意味のある死を迎えたいんだよ」
「意味のある死って、何?」
「……さあ。もしかしたら、ミチルさんにはまだ分からないかも」

 するっと、固い指先が伸びた髪先を拾い上げて耳に掛けた。私はまだ腑に落ちなくて、まだ彼に食い下がろうと口を開く。「私さ」「私」「わたし」――。何度もそう言葉を紡ごうとして、口を噤んだ。上手く言葉にできなかったのだ。
 次に口を開くときには、まるで言葉にできなかった私の想いが全て溢れだすように涙が零れた。不器用な私の心を、すべて代弁しているかのように、意味もなくポツポツとシーツに染みを広げていく。濡れた跡を、ぎゅうと握りしめた。


「わたし、わたし……貴方に死んでほしくないよ」


 ようやく言葉にできたのは、それだった。メリットやデメリットではなく、ただただ己の感情が、そう叫んでいた。

「もう一回、映画に連れて行ってよ」

 今度は、ちゃんと偉ぶって言ったじゃんか。退屈なラブストーリーじゃなくて、もっと刺激的なアクション映画を観よう。その時は、貴方はスクリーンを映す瞳をどんな色にさせるのだろうか。私のように、退屈そうに欠伸をするのだろうか。それとも、子どものように期待に光を跳ね返すのだろうか。

「もう一回、私のことを叱ってよ」

 叩かれた頬の傷が、こんなにも痺れるのは初めてだったの。
 それは多分、打った彼の手のひらが赤く染まっていたのを見ていたから。支配しようとする暴力じゃなくて、ただ私のためにあんなにも顔を真っ赤にして怒る人を初めて見たから。

「ごめんなさい。気づかないフリをして、気にしないフリをして……ごめんねぇ……」

 それは誰に対する謝罪だったろうか。スコッチか、今まで私が騙した人々か――私に背を向けた、華奢な背中の持ち主か。
 ボロボロと泣く私の表情を、スコッチはずいぶんと穏やかな凪いだ眼差しで見つめた。それから、頬の涙をやわく拭って、私のことを手招いた。

「……少し、話をしよう。おいで」

 
 自分が腰かけていたベッドの淵を、ぽんぽんと二度叩いて見せた。私はベッドの上に座り込んでいたので、たった数歩の移動である。ぐずぐずと鼻を啜りながら、言われる通りに彼の横へ腰を掛けた。

 彼は両手を組んで、隣に座る私を横目で見てから口を開き始めた。
 湿った彼の髪から、雨の匂いがした気がする。彼はまるで、教え子に今から授業でも始めようかと言った、穏やかで――しかしいつもよりやや抑揚のある口調で話し始めた。


「ミチルさんは、噓つきのパラドックスって知ってる?」


 これは、スコッチという男が死ぬ直前に、私に残す遺言なのだと――なんとなく察してしまった。