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 噓つきのパラドックス。
 聞いたことのない単語を、スコッチはゆったりと、教師のような口調で語り始めた。私はラブホの薄暗い照明の中、それを横で聞いている。まだ夢を見ているのかと思うほど奇妙な光景で、その所為か聞いている説明さえ、どこか奇妙で、夢心地に聞こえた。

「噓つき村って聞いたことないかい」
「……正直村と噓つき村の道を聞く奴でしょ。あなたはこっちの村から来ましたか、が答えなんだっけ」
「そう。だけど、噓つき村の人間を噓つきって決めているのは誰だと思う?」
「そりゃ、周りの人たちじゃない? アイツらはいつも嘘ばっかりつくってさ……」

 そんな話をしていたら、少し気まずくなってきた。
 まるで自分のことを話しているような気分になった所為だ。でも、噓つきだと言われるのは事実なのだ。実際に嘘ばかりついて生きてきた。罪悪感を感じたこともない。だけど、先ほど彼にああも泣きついた後だったので、懺悔ってこういうものか、と気恥ずかしかった。

「じゃあ例えば、噓つき村の人間が『私は噓つきですよー』って言ったら、それはどうなる」
「……嘘つくなら、正直者ですってことかな」
「でも、その人は正直者じゃない。噓つきだ」
「だったらそもそも自分を噓つきなんて言わないじゃない」

 そもそも前提が可笑しいのでは、と眉間を顰めて答えると、スコッチは私を見つめた。

「――君は?」

 短く、彼はそう尋ねかけた。私は少し言葉に詰まって、自身の髪先を弄る。私は――噓つきだ。

「君は、噓つきだ。でも、自覚ある噓つきだ。それって、どうなるんだろう。君が噓つきだと言えば、それは正直者ってことかい」
「そんなわけ、ない……。だって、私嘘だけを喋るわけじゃないもん」
「どうして?」
「それは、私はそういう文章上の人間じゃなくて、生きてる人間だから……」

 言葉を探り探りに話すせいで、あまり流暢な言葉ではなかった。途切れながら、息を吸いながら答えたら、スコッチは少しだけ微笑みを浮かべる。そして、それが正しいのだと背を押すように浅く頷いた。

「うん。そう思う。――オレも、そうだ」

 彼はまだ少し湿った胸の上をトン、と叩いた。じゃあなんでそんなパラドックスとやらを引き合いにだしたのだろう。「回りくどいよ」と拗ねたら、スコッチはちょっぴり驚いて、フハっと息を零して笑った。その時にわき腹が引き攣ったのか、小さく呻きながら。

 彼の口調はそういうところがある。多分、教師のようだと思ったのも回りくどい語り口のせいだ。出会ったばかりのころ、「オジサンクサイ」と揶揄ったことがあったっけか。

「ごめん。じゃあ、端的に。つまりね、オレは噓つきで、君に正体を明かすことも今後ないと思う。だけど、オレは噓つきっていう人間じゃないからさ。一人の、スコッチという男だから……今から話すことは全てが嘘でも本当でもない。君の話すことが、全部嘘ではないようにね」
「前フリだったの、コレ。めちゃめちゃ長いんだけど」
「それは、ごめんって……クセなんだよ」

 驚いて本音が零れた。スコッチは瞳を伏せて、恥ずかしそうに項を掻く。どうやら本人にも多少自覚はあるらしい。その様子が可笑しくて、私も零した涙をぬぐって少しだけ笑った。


「……君を嫌いだって言ったのは、嘘だよ」


 彼は私のほうに視線をくれないまま、自らの手のひらを眺めながらそう呟いた。その言葉にも驚いたが、すぐに彼はいつだか約束した、最後の想いを話そうとしてくれているのだと分かった。

「嘘っていうと語弊があるか……。本当は、少し羨ましかったんだ」
「羨ましい……」
「今だから言うけど、好きで組織の仕事をしていたわけじゃない。誰かの人生を奪ったり壊したりすることにうんざりだった。クソ喰らえだ」
「ワオ、良い感じの暴言」

 軽く手を打ったら、スコッチはまた可笑しそうに笑って「どうも」と一言会釈をした。

「日に日に、嫌気が差してはいたんだ。なんでこんな仕事をしてるんだか、馬鹿みたいだ。でもいつも一番嫌気が差していたのは、そんな仕事に手をつけるしかない自分自身だった。……そして、それを割り切ることのできない、自分自身だ」
「やめれば……っていう選択肢はナシなんだね」
「それだよ、それ」

 カラカラと笑って、固い指先が私のほうをピシっと指す。その指を真正面からキョトンと見つめていたら、彼は口元をやわくして「それが羨ましいんだ」と噛み砕いて告げる。


「君は強い。武器を持ってる大の男三人が突然詰め寄っても物怖じしない気丈さがあった。過去にとらわれない潔さがあった。……何より、誰にも縛られない、自由さがあった」


 それが、羨ましかった。
 スコッチは自分の手のひらをぎゅうと握りしめながら、静かにそう語った。
 私が何も返せないでいると、彼はそのまま言葉を続ける。一度引き結んだ唇が離れるときに、少しだけ歯が下唇に引っかかったのが分かった。

「オレはこんなに苦しんでいるのに、なんで君はそんなに自由なんだ。何も気にせずに笑って、何も気にせずに意見する。最初はか弱い女の子だと思っていたのに、それが羨ましくて……恨めしかった。オレは、きっとどう頑張ってもそうは慣れないから。だから、君が嫌いだって思い込むようにした」
「それ……結局、嫌いだったの? 嫌いじゃなかったの?」
「どうだろう。オレにもよく分からないや」

 はは、と曖昧に眉を下げてスコッチは笑う。どれが彼の本来の表情なのだろう。それを尋ねるのも、『噓つきのパラドックス』というやつに阻まれてしまうのだろうか。

「けれど、好きだと思うには君のことがあまりに恨めしくて気に入らなかったし――嫌いだと思うには、君はあまりに人間臭くて放っておけなかったんだ」

 そこで、ようやく彼が頭を持ち上げて私と真っすぐ視線を合わせるようにこちらを振り返った。どこか憑き物が落ちたようにスッキリとした表情だ。今から死のうとしている人間には、とてもじゃないが見えなかった。

「でも……ウン、本当は、もっと単純な理由だった」

 少年じみた照れくさそうな表情。茶がかった瞳が、オレンジ色の照明を跳ね返して夕陽のように輝いた。薄っぺらい耳は、普通の人より少しだけ前を向いている。唇は乾燥していて、薄っぺらくて、最近ロクなものを食べていないのか血色悪く見える。けれど笑うと子どもみたいに頬が持ち上がって、あまり艶やかではない肌に灯りが灯ったようだった。
 私は思い切り伸びをするように笑う彼の表情に、ただただ見惚れて、息を止めた。


「オレ、ミチルさんに嫉妬してたんだ。多分、そうだ。でも、だから、安心して死ねるよ」



 彼の笑顔を見ていたら言葉にはならなかった。だって、あまりに自由に、子どものように無垢に笑うんだもの。その表情は漸くの事呪いから開放された!――そう、喜んでいるように見えて。
 あまりに純粋すぎる喜びの表情に、何も口を挟めなかったのだ。あとどれだけ私が縋ったとして、彼のその感情を邪魔することはできないように思えてしまった。今までの話がすべて作り話だったとしても、その表情だけは真実だと確信できるほどに。

「人は、大切なものがあると強くなれる。それは弱点にもなるけれど、最後に自分の足を動かすのは、その心だよ。――ミチルさんは自由だけれど、それがない。だからこれから見つけると良い。お金だって良いけれど、今はお金は君の手段じゃないか。もっと大切なものを、見つけていってくれ」

 どうか、健やかにね――その無骨な手が、私の手を取った。最後の祈りを捧げるように、そっと両手で包む。指先から伝わる脈は、ゆったりとしている。生きている音が、流れ込む。

 スコッチに出会ったことが私にとって良かったのか悪かったのか――今は、どちらとも言えない感情だった。ただ、彼の願うその未来に彼も居てほしいのだと泣くのは、あまりに傲慢であるようにも思えたのだ。